無駄にならない涙
震災から一夜あけました。
きのうは一晩じゅう考えてしまいました。
(なぜなのか……?)
なぜ正月に、なぜこのタイミングで地震が起こったのか?
被災地の石川県奥能登地域は、かなりの人口過疎地です。
しかし、ここ数日は年末年始で、多くの子供さんを含む帰省者で、人口が膨れていました。
地震発生が元旦でなければ、死なないですんだ方も大勢いたでしょう。
なぜこのタイミングで、と思うと寝付けませんでした。
しかし夜明け、ふと思ったのです。
(人類って、もしかしたら悲しみも分かち合っているのではないか)
と。
この地球を覆う涙の総量とでも言うべきものがあって、それを人類は分けあっているのではないだろうか。
みんな苦しいときは涙を流すけど、それは自分の分だけではなくて、他者の苦しみの分も含まれているのでは?
と同時に、他者も、それと気づかず私たちのための涙を流してくれているとも考えられないだろうか?
……人類は、自分では気づかずに、お互いの苦しみを肩代わりしあっているのではないでしょうか。
だから、わたしたちの涙も、どっかで他者の苦しみを和らげるためのものだし、わたしたちの苦しみも、どっかで泣いてくれているひとがいる。
だから。
人間の涙は、ひとつも無駄にはならないのだ!
。。。おそらくこの地球には、有史以来、悲しみのネットワークみたいなものが、あるんだと思うのです。
よろこびや愛がそうであるように。
人間は、みな何かを互いに負いあっているのでしょう。
人類の歴史のなかでも、傑出した愛の大家であるパウロは、こう書いています。
「わたしたちは、互いに愛し合うこと以外は、借りがあってはなりません」
と。
これは裏返せば、
「人間は、愛し合うことに関しては、みんな互いに借りがある」
ということではないでしょうか?
そしてこれは、愛以外、よろこびに於いても、悲しみに於いても言えるのではないかと、私は思うのです。
そんなことを一晩、考えていました。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。これからもがんばります。中村 拝。