キャリーグラス

 強い光に驚いて瞬間的に覚醒する。何もかもが鮮明に見え、それはむしろ現実感がなかった。先生が何か話している。やがて言葉が聞き取れるようになった。
「トイレは済ませましたね」
 はい、とあなたは応える。時計を見る。待ち望んでいた日が来たことに、期待と不安がない混ぜに立ち上った。
「よろしくおねがいします」
 振り返るとレモン色のワンピースを着た詩織が頭を下げている。大きくなった、といえるほど離れていたわけではないはずだが、そう思った。あなたは少し目をそらし、同じように頭を下げ返した。先生がモニタの何かを確認し頷く。
「問題なさそうですね。帰りの時間は厳守で頼みますよ」
 いきましょうか、と詩織がぎこちない笑みを浮かべる。あなたも同じような微笑みを返したのだろう。出口を振り向いた詩織の肩から艷やかな黒髪が数束溢れ、あなたはその煌めきに数秒見惚れた。

「先日と同じところを回るのでつまらないですけど」
 ハンドルを握る詩織が申し訳無さげに呟く。あなたは窓の外を流れる景色を眺めながら小さく「仕事ですから」と、また少し頭を下げる。
「まずは公園からですね」
「晴れてよかったです、ほんとに」
 あなたは目を遠くへ向け、青空の中にぽつんと浮かぶ薄い雲を見つめた。信号で停まると詩織がステレオを操作し、懐かしい曲が流れ出した。あなたは何も言わず、たゆたう雲をぼんやりと眺め続けた。
 中心街を通り抜け、イオンモールを過ぎると遊園地へと続く坂道を車は進む。迎えてくれるような日差しが車内へ降り注ぐ。詩織が目の前に手をかざし、同じことをしていたあなたを見て控えめに微笑む。空気がやわらかくほどけるような、慎ましいふたりだった。
「よくつれてきてもらったんです」
 車を降りると詩織は懐かしげに辺りを眺め、誘うように振り向いた。あなたはぶつかりそうになった視線を緩やかにかわし、自然公園全体を記録するようにゆっくりと目に入れていく。
「いきましょうか」
 詩織はくるりと背を向け、後ろで手を組み林道へ向かった。あなたは数歩後ろからついていき、細かに辺りへ目を配る。新緑の葉が日差しできらめき、色の音階がきこえるような気がした。子供の笑い声に誘われたのか、あなたは道の先へと目を向ける。芝生の広場の向こうに大きな池があった。詩織が振り返り、嬉しそうに指をさす。
「あそこが私たちのお気に入りでした。前も言いましたけど」
「気持ちのいいところですね」
「フリスビーとかバドミントンとか、このへんでよくしてたなあ。今日みたいな日はスカートまくりあげて池に足つけたりして、結局濡れちゃって怒られるんですけど」
「あるあるですね」
「手作りのサンドイッチ持ってきて、汗だくでほうばってまた駆け出して」
 あなたは立ち止まり、水際まで近づいていく詩織の背を静かに見守った。詩織は膝を抱えるようにしゃがみこみ、指先を少しだけ水につけているようだった。
「結構汚いんですね。よくこんなとこ入ってたなあ」
「子供には綺麗に見えたんですかね。や、そんなこと考えてなかったのか」
「水だー、飛び込めーって感じですかね」
 あなたは手の甲で額の汗を拭う。詩織が辺りを見回し「ジュースでも買いましょうか」と自動販売機を示した。
 おごりますね、という詩織に素直に礼を述べあなたはアイスコーヒーを買った。キャップを捻ろうとした手を止め、自分の分を買おうとしていた詩織を制止する。
「どうしたんですか?」
「すみません、あんまり飲み物飲んじゃいけないの忘れてまして」
 そっか! と詩織が指を引っ込める。あなたはペットボトルを差し出す。
「アイスコーヒー、飲めますか?」
 詩織はそれをしばし見つめてから、もう大人ですから、と笑った。
「すみません、せっかくのご厚意を」
「いいんです、仕事ですもんね。すみません、私だけもらいます」
 詩織は二度喉を揺らし、それからにがそうに顔をしかめた。あなたは小さく笑った。なんですか、と拗ねたように詩織が睨む。
「おいしいですか?」
「もちろんですよ」
 そうですか、そうですよ、と繰り返しながらふたりは林道の先へ進んでいく。心地よい風に木々も優しく揺れている。道は緩やかに上下し、あなたは何度か汗を拭った。やがて脇道に少し急な斜面が現れた。詩織が「ここです!」とほとんど減らないアイスコーヒーを手にあなたを振り向く。
「結構な急斜面ですね」
「今思うと危ないことしてましたよね。ここを子供用のカートに乗って下るのが大好きで、何度も何度も繰り返してた」
「転んだりしませんでした?」
「そりゃもう何度も!」
 ふたりは秘密を共有するような楽しげな笑みをかわした。
「カート、持ってきたらよかったですね」
「いやいや、お尻が乗りませんよ」
 詩織がワンピースの臀部を抑えて笑う。あなたは目をそらし、木から木へ飛び去った小鳥を追った。それから腕時計を確認し、来た道を振り返る。
「そろそろ次の場所へ向かいますか」
「そうですね。あ、このまま進めば駐車場に戻りますよ」
 引き返そうとしたあなたの服の裾を詩織が控えめに掴む。風が吹く。詩織の髪があなたの顔を覆う。一瞬の邂逅。小鳥がまた飛び立つ。あなたはそれを追う。けれど涙の浮かぶ黒い瞳を、あなたはしっかりと記録してしまった。

 自動車はやはり懐かしい音楽をかけながら静かなふたりを乗せ、古墳があったとされる住宅街の坂道を上がっていく。あなたは古墳公園で走り回る子どもたちに少しだけ目を留める。
「あそこで私も遊んでました」
 詩織は前を見つめたまま呟いた。路上駐車の多い坂道を上る。あなたは家々の表札をひとつずつ確かめた。やがて詩織が車を脇に停める。
「ここが、昔住んでいた家です」
 表には売家と出ているが、詩織は鍵を借り受けてきていた。ふたりはしばらく門の前から家を眺めていた。雑草が随分と生い茂っていたが、外観にはそれほど変化はなかった。破れた障子を塞いだ桜の花弁の形をしたシールにあなたは目を留める。そういうところがこの仕事をする上でのあなたの特徴なのだ。やがて詩織が手の中で遊ばせていた鍵を持ち直し、門をくぐった。
「あんまり中は見せないほうがいいかもですが」
 立て付けの悪い扉を開けるコツを心得ている詩織の後ろ姿をあなたは無言で見つめる。引き戸が懐かしい音を立ててスライドする。ずっと暗かったであろう玄関に夕暮れが指す。
 おじゃまします、と律儀に頭を下げるあなたに、詩織が可笑しそうに「いらっしゃい」と応える。用意してきたスリッパを履き、ホコリまみれの床に上がる。物がなくなった玄関廊下は当時よりも幾分か広く感じた。すぐ目に入るはずの柱時計と電話機が見当たらず、わかってはいたが落胆してしまう。左手の扉を開け、詩織は少し躊躇ってから中へ入った。あなたはその後に続く。部屋の中には、何もなかった。がらんどうの空間は寂しい過去の匂いがした。
「何もありませんね、当たり前ですけど」
 それからふたりは黙って一階、そして二階を回り、手すり付きの急な階段を降りて庭へ出た。
「雑草だらけだなあ、綺麗にしてたのに」
 あなたはただ黙って庭から見える景色を記録した。しばらくして、目の前を羽虫が飛び回るのを払ってから、詩織は「帰りましょうか」と呟いた。あなたは静かに立ち上がった。それから足元の光にふと目を落とす。
「なんですか?」
 あなたは拾い上げたものをてのひらに乗せ、詩織に見せた。青色のシーグラスだった。波に揉まれ角の取れた曇りガラスのような小さなカケラ。詩織は指先でそれをつまみ、目の上に掲げた。
「懐かしい。一緒に海で集めてた、忘れてました。母にジャムの空き瓶もらって、宝物みたいに大事にしてた。この庭のどこかに瓶ごと埋めたんです。引っ越しの時に」
 ふたりは無秩序の庭を眺める。どのへんですか、とあなたは庭を見たまま言う。
「いいですよ、流石に見つかりません。それに時間もそろそろ、ですし」
 あなたは夕陽に照らされ赤く染まる詩織を振り返る。小さなカケラを両手でしっかりと握り、何かを祈るように数秒目を閉じていた。目を開けた詩織はあなたに見つめられていることに気づき、大丈夫です、と微笑んだ。
「いきましょうか」
 車に乗り込んだ詩織は、シーグラスをティッシュペーパーでくるみ、鞄の横ポケットにしまった。それから坂道の上に立つ家並みをゆっくり眺めた。
「玄関出ていきなり坂じゃないですか。だから私、自転車なかなか乗れるようにならなくて」
「たしかに坂道での練習は難しそうですね」
「乗れるようになったらなったでびゅんびゅん下るからそれも危険なんですけど」
「そっちのが危険ですよ。無事でよかったです」
 詩織が家の方を向いたまま笑い声を立てる。それから、鼻水をすする。
「適合するキャリアの方がなかなか見つからなくて。もう間に合わないんじゃないかと思ってたんです。だから本当に、感謝してます。おばあちゃん、この家に帰りたいってずっと言ってたから、どうしても見せてあげたかった。心配ばっかりかけてごめんなさいって、ずっと言いたかった。ありがとうって、大好きだよって」
 あなたはじっと、肩を震わせる詩織とその向こうの家とを目に映し続けた。それはとても懐かしい景色だった。小さな詩織は、大きくなっても小さな詩織だ。かわいいかわいい孫娘。

 医療用防護マスク、ゴーグル、キャップ、手袋。厳重な感染防護具に包まれた詩織はそっと祖母の痩せ細った手を撫でる。人工呼吸器をつけ横たわる祖母に意識はない。隣で同じように祖母の手を撫でる母の顔は、防護服ごしで涙や鼻水が拭えないためにひどい有様となっている。詩織は祖母の白い顔を見つめる。その目の中に、あの日の景色が焼き付けられていることを願う。未来は私たちが紡いでいくからね。詩織は祖母の手の中にそっと、あの日拾ったシーグラスを握り込ませた。

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