月は太陽の夢

 光の中に浮かんでいるようだった。青井はなじみの居酒屋の二階で寝転がり、顔に水の入ったビニール袋を乗せていた。まだ頭が回っている。階下で響くもぐらの笑い声に胃が収縮する。目をあけていたかった。微睡むには意識がはっきりしすぎていた。ただ体の自由だけがきかない。重い腕を伸ばし、散乱する光を遮ろうとする。光は手のひらを回り込み、青井をいつまでも包み込んでいた。身体が溶けてなくなるようなぬるい安堵を覚えた。
 青井がもぐらと出会ったのは土曜会という同人雑誌の合評会だった。毎月第二土曜日に徳島市民センターで催される集まりの中、ふたりは比較的歳が近いこともありすぐに意気投合した。ふたりを除くと会の平均年齢は六十を越える。合評が終わるとふたりで飲み屋へ出かけ、他の同人の無理解をなじり、互いの作品を批評し合った。ただ青井は形式上小説と呼ばれるようなものを書き始めて日が浅く、もともと口数も多くない。一方もぐらは文学部を卒業し、出版関係の仕事をしていたこともあるので、大抵の場合青井は聞き役にまわった。
 その日も土曜会の帰りであり、ふたりは新たに配られた同人誌をパラパラと眺めながらウイスキーをなめていた。青井は酒が強くない。一方もぐらはアル中であった。青井が一度訪れたもぐらのアパートでは年中出しっぱなしらしい炬燵の上をビールの空き缶が埋め尽くしていた。ある時、これ以上飲みすぎるのは良くないと思ったらしいもぐらはビールをやめ、それまで嫌いだったウイスキーを飲み始めた。すると今ではそれも好きになってしまったというのだから始末がつかない。
「青井くんのこれは私小説なんか?」
 同人誌「P.」の黄色い表紙がテーブルに浮かぶ。青井はもぐらの太い指が表紙の月をなぞる動きをみつめたまま首をかしげた。自分が書いたものがなんなのか、問われてみてもわからなかった。もぐらはウイスキーをひとなめし「実にゲッキュウテキやな」と言う。
「なんすかそれ」
「ルナティック、つまり狂気的ってこと」
 もぐらがテーブルの水滴で「月球的」と書く。青井は大小する文字をぼんやりと眺めていた。
「ガチ恋してた地下アイドルが解散する時の最後の握手会で、小説家になったら授賞式で再開しよなって約束したから小説書くんだーって。いやほんま、要約したらどちゃくそきしょいオナニー小説なんやけど、でもなんか読めたんさな」
「いや言い方ひどないすか?」
「相変わらず最後主人公死ぬし。愚行自慢は一人称小説のひとつの手やけどな、そればっかやっとったらポテンシャルは下がってく一方やで。てか今おもたけどこんな約束しても授賞式にこの子これへんくない?」
 青井はグラスのふちをなぞりながら推しである元アイドルの女の子のことを思い浮かべようとした。浮かんでくるのはなぜか自分の気持ち悪くにやけた表情ばかりである。もぐらが過去に「P.」へ投稿した「月的な自己」というエッセイの一文を思い出す。
 恋というのは自分のことを相手に投影し、相手のことが自分に反射してしまう奇妙な現象だ。自己というものは何かへのリフレクションでしかない。
 そうかもしれない。アイドルを推すことは心地いい。何の責任も負わずただ応援し、そして消費する。受け取ったキラキラした何かを自己の反射と思い込み、甘く弱い自分を許してしまう。何もできないままの自分を忘れられる。
「甘ったれた夢みてもええでしょ小説の中くらい」
「あかんあかん。青井くんはもっと真剣に生きた方がええで。それかもっととんでもない夢を見るか」
「とんでもない夢って?」
 青井は自己嫌悪を上書きしようと残りのウイスキーを一息に飲み干した。
「せやな、わしが見せたるか、とくべつに……」
 もぐらの声が遠ざかる。黒い床がテラテラと、光速で近づいてくる。目は閉じたくなかった。貧弱な想像力を思い知らされたくなかった。

「二本の足で立って歩くようなった時に人間の魂の病気は始まった。青井くん、なんでわしらの祖先は立ち上がったんやと思う?」
 青井は眠気と船酔いで病的に青ざめた顔を少し上げたが、窓ガラスに反射する自分の視線を感じ俯き直した。どこか懐かしい、甘い匂いがしていた。
「さあ、道具とかを持ち運ぶようになったからですか」
「月が遠ざかったからよ」
 涼しげな女の声が耳元を通る。青井は反射的に振り返った。すぐ近くに白い鼻があり、驚いて身を引いた。ふたりはまともに互いの瞳の中を覗き合う。女が何かを見透かしたように笑った。
「月が遠ざかったから、びっくりして立ち上がっちゃったの」
 女は軽やかに身を踊らせ、先ほどまでもぐらが座っていたはずの席へ腰を下ろした。肩にかかる髪が数束こぼれおち、白いワンピースの裾がひらめいた。青井には女が天から舞い降りたように思えた。もぐらの姿は消えていた。
「落ちてきたんじゃなくて?」
「なにが?」
「お月さま」
 女はあきれ顔でわざとらしくため息をついた。
「あのね、月は年に三、四センチずつ遠ざかってるの。落ちてきたりしない。いつか永遠に地球から離れてしまう運命なわけ。それにもし落ちてきたなら立ち上がるよりもしゃがみ込むんじゃない?」
「こう、みんなで手を伸ばして支えようとしたのかも」
 女にじっと見つめられ、青井は両手を上げたまま耳を赤くした。それから女は破裂音のような笑い声を響かせのけぞった。女の頭が座席の後ろへ落ちてしまう。青井は咄嗟に手を伸ばした。甘い匂いがした。
「きいとんのか?」
 目を開けると日に焼けた古本が鼻先に開かれていた。青井は頭を起こし、うんと伸びをした。波をはじく力強い音とともに船体が跳ねた。律儀につけていたシートベルトが腹に食い込む。もぐらは手の中でライターを弄びながらじっと待っていた。
「なんでしたっけ」
「やから、気持ちばっか切羽詰まっとってもな、傍目には無為な日々を繰り返しとるだけに見える、いくら頭の中ではずっと小説のこと考えとるとか言っても、結局何もしてへんのと一緒やとか言いよるねん」
「それはまあ、その通りのような」
「せやけどそないなこと言われんでもわかっとるのになんでわざわざ言うんと思わへん? 野暮やわあ。あんたは霞を掴もうとしとる、そんなじゃいつまでたってもなんにもならんとまで言いよった。霞を掴もうとして何が悪い」
 窓の外にはもう亀島が見えていた。津田から約四キロほど沖に浮かぶ島は絶壁に囲まれその上に木々が生い茂っている。確かに巨大な亀のように見えた。二日酔いはなかった。青井は二日酔いになったことがない。二日酔いになるほど酒を飲めないおかげだった。もぐらの妻に関する愚痴はなおも続いていた。青井は適当な相槌を打ち続けた。もぐらの妻が言うことはそのまま青井の心もえぐるような話であったのであまり真面目に聞きたくなかった。
 島の反対側へ回ると白い砂浜が見えた。その先に港があり、多くの小舟が浮かんでいることに気がついた。亀島の島民はそのほとんどが漁師であるともぐらから聞いた。釣りの名所らしく、フェリーから降りた乗客はだいたい釣道具らしきものを持参している。もぐらもよく釣りに来るらしいが今日は竿を持っていなかった。もぐらに釣りへ誘われたことはない。もぐらの交友関係についても知らない。結婚していることすら知らなかったのだ。

「そろそろ目的を教えてほしいんですけど」
 もうちょっとやから、ともぐらは肩で息をしながら返す。島に着き、先に帰りの切符を買ったもぐらは慣れた様子で民家の並ぶ方へと向かった。家々は棚田のように急な斜面に並んでおり、もうずいぶん高くまで上ってきた。振り返ると海がどこまでも続いている。波が白い泡を立て、鳶が穏やかに旋回していた。昼の月がシールのはがし跡のように薄く青空へくっついている。廃校を通り過ぎ、小さな神社の隣まできた。普通なら狛犬があるところに何故か鹿が向かい合っている。いつもなら嬉々として説明しそうなもぐらは何も言わず通り過ぎた。背中に汗がにじむ。下の自販機でジュースを買ってくるべきだった。青井は何も教えてくれないもぐらに苛立ち始めた。
 急な階段を上りきり、灯台のある広場へ出た。広場といってもベンチが一つ置かれているだけであり、目の前は高い草で覆われているので階段を上りきった達成感を強く味わえるような場所ではない。もぐらは持参したらしいペットボトルの水を一息に飲み干した。青井は黙って隣に腰掛けていた。波の音が聞こえる。島の反対側まで来たようだった。すぐ目の前は崖なのだろう。もぐらが煙草に火をつける。
「こないだ自分の書いたもんを真面目に読み返してみたんやけどな、なんかどっかで読んだことあるような言葉のパッチワークやったわ。あっちこっちで自分が気に入った言葉拾ってきて並べとるだけ。その並べ方がわしのものや言うことはできるけどな、なんか結局、なんにも書いてないような気持ちになってしもた」
 気怠げな煙が薄い青空へ吸い込まれる。青井はその行く末を見定めようとした。煙がどこで消えるのかはっきりと確かめることはできなかった。世界に馴染み、死んだように在り続けるのかもしれない。
「それがやりたかったんじゃないんすか」
「霞を食うか。せやなあ、無意識に意味を見出そうとしてまう。意味なんかじゃ人は救われへんのにな。何から救われたいんやろか」
 もぐらが笑う。空のペットボトルの中へ落とされた煙草がじゅっと震えゴミになる。存在の変化はそれくらい容易い。青井は見えない海の音を夢のように聞いていた。目に映る曖昧なものは忘れていく。
「人魚浄瑠璃っちゅーてな」
「え?」
「あいつらはわしの人生を語る。いや、うたう。わしはまるでこの世界の主人公みたいな気持ちになる。ええ気持ちや、恐ろしいくらいな。青井くん、歌舞伎とか浄瑠璃は今じゃ伝統芸能みたく言われとるがもともとは遊郭に男を引き寄せるための出し物やったんやで。ほれ、聞こえるやろ」
 青井の肩に女が頭を乗せていた。高い草の囲いが開き、海の舞台が現れた。三味線が波を操るように弾かれる。島は舞台装置へ変換された。月が夜を演じていた。野暮な太陽は雲に隠された。海から心地よい歌声が聞こえる。しかし青井にはその言葉がわからなかった。女がそっと耳打ちする。おまえには何も語ることがない。
「約束したのに」
 青井たちは廃校の窓から海を眺めていた。まばたきひとつで場面が変わる。人魚たちがサインを送ってくる。青井にはその意味がわからない。
「ごめん」
「信じてないのは君の方」
「君にまた、会いたかった。ほんとに好きだったんだ」
「いつ?」
 いつが引き伸ばされる。薄く薄く。薄めて綺麗な水になれない人間。煙草の吸殻。夜だった。世界に穴が空いていた。月は穴。月が穴。人魚たちが穴から排出されていく。しぼむ世界に取り残される。女はまだそこにいた。青井はどこへも行けなかった。何もしないことでいつまでも夢を引き延ばそうとしていた。
 女が泣いていた。女は泣いていなかった。未だ惨めな涙を流すことができる青井を、女は映しているに過ぎない。女の赤い目を神社の鹿が見つめる。鹿の目が赤く染まる。もぐらが人魚を食べていた。もぐらはもぐらではない。もぐらは夢だった。青井も夢だった。亀島も、徳島も、四国も、日本も、地球も、そして月。
 足が海水に濡れていた。暑く冷たい夜に島は沈む。青井は裸足の女を背負い、灯台へ戻ろうとしていた。暗闇の中、急な階段を上がらなければならない。泥で滑らないよう慎重に足場を選ぶ。海水はしかし、上からやってくるようだった。水の流れが増す。灯台前の階段は水銀の滝。鏡の中の月が生活を嘲笑う。青井は迷わず飛び込んだ。押し流される。彼を支えるものを彼は持っていなかった。なんとなくうまくいくような気がしていた。適当に就職し、気が向いた時だけ小説を書き、ほとんどの時間をただやり過ごした。報われるほどの何かをしたことはなく、報われないという思いだけを募らせ、自分にないものを羨み、自分にあるものを知ることもなく。現実の痛みを彼は受け止めるべきであった。曖昧な生きづらさが正当化される世界になる前に。甘やかされ突き放され細い足で狭い道を歩くのも嫌なら鍛えるのも面倒で優しい世界よりも才能の保証が欲しかった。
 魚の目を得た青井には海の底へ沈んでいく女がはっきりと見えた。暗い海の中、彼は月明かりというものを初めて知ったような気がした。長い髪が月へ吸われるように伸びていた。下半身が魚となった彼はたやすく女のそばへたどり着いた。手をとった。女が目を開く。その瞳に月が宿る。せめてキスでもさせて欲しかった。
「星たちに棲む有象無象の進歩から追放された月よ、ぼくの骨々を気化してほしい。ぼくは自身のすべての帆をあげ、お前にこそたどりつきたい」
 もぐらが灯台からラフォルグの詩を叫んだ。その時、青井は人間に落ち、女は人魚となり海の中を月へと昇っていく。香ばしい失望が彼を包む。伸ばされた手を月の光は笑ってかわす。

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