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【RP】パシフィックフィルハーモニア東京「第152回定期演奏会」の新しさとは 〜「趣向」と人為的自然〜

(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)


本編

<はじめに>
10/4にサントリーホールで行われた藤森範親マエストロ指揮、角野隼斗氏によるパシフィックフィルハーモニア東京「第152回定期演奏会」についての感想です。
毎度のことながら、どこから書けば良いのか本当に悩みます。
タイトルも悩みましたが、やはり最終的にたどり着いたのは、直後に感じた印象の「新しさ」かな…と。

「ピアノと管弦楽のための協奏曲」からは真の新しさを感じました。グルーヴ・変拍子・ジャズの影響等…事前情報が一掃されるほどに自然で、且つ革新に満ちた世界。「惑星」と組まれたことで、イメージがより広がった様に感じます。
#10月4日アデス日本初演角野隼斗とPPT
#飯森範親PPTの惑星
#角野隼斗

10/5(サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)

8月に落合陽一氏による現代アート的演出が行われた日本フィルハーモニー交響楽団の「遍在する音楽会」を拝聴しているのですが、どちらが真に新しい表現かと問われば、迷わずPPT「第152回定期演奏会」だと答えます。
なぜなら、「遍在する音楽会」は現代アートの方法論・文脈を引用したクラシックコンサートなのに対し、PPT「第152回定期演奏会」はクラシック音楽のコンサートとしての新しさが感じられたからです。
音楽という表現性において真に新しい意味を持つものは後者です。
(だからといって「遍在する音楽会」のような音楽表現を否定するということではなく、こういう様々な取り組みはもっと広がって欲しいと「芸術ファン」としては心から思っています。)

実は、元々の音楽の趣味が変拍子やメトリックモジュレーションを多用したジャズ系の音楽(クラシックはほとんど聴いた事もなく、スタンダードジャズも同様)だったこともあり、飯森マエストロと角野氏の対談が公開された時点では、リズムのズレの面白さについても書いてみようかと思っていたのですが。。。
まあ、実際には全く違う次元の音楽だったということで、またもや私の予想は覆されました。笑

<「趣向」でつなぐ新しさ>
いつもは能や世阿弥のイメージ構造と比較する事が多いのですが、今回は圧倒的に茶道、利休ですね。
まず、見出しで用いている「趣向」ですが、一般名詞ではなく茶室の室礼や道具の取り合わせに用いる「趣向」を指すため「」を付けました。
茶道に傾倒されている落合氏の「遍在する音楽会」の演出よりも、今回のコンサートの方が断然「茶会」っぽい!笑

今回のプログラム構成は、個々のイメージの内側から一部を重ねて連続性を持たせる構造で、連歌の「付合い」であり茶道の「趣向」と同様の展開だと感じられます。
かてぃんラボ(会員制有料コンテンツ)では、アデスの「ピアノと管弦楽のための協奏曲」(以下ピアノ協奏曲)と「惑星」の関係性について、「宇宙感がある」と、飯森マエストロとお話があったことが示されました。
イメージ・質感が主観的な共通認識によって導きだされた「宇宙感」で、たぶん、演奏会の曲目が決定した後に「後付」で行われた連想ではないでしょうか。
ラボ内の角野氏によって「ピアノ協奏曲協奏曲」は更に「ワームホール」として見立てられ、ファンの中では今回のプログラム全体の宇宙的イメージが強調されました。
一方、直前に公開された飯森マエストロの動画では、宇宙的イメージを「第142回定期演奏会」でのメイソン・ベイツ氏「マザーシップ」との関連性で語らっていらっしゃいるのですが、演奏会の回を跨いでいる上に宇宙が引用されている文脈的違いを考えれば、まさに「付合い」的な繋がりです。

当日配布されたプロジェクションマッピングに関する飯森マエストロのテキストを拝見すると、プログラムは「新しさ=初演」に拘りをもって組まれていたことが窺えます。
「マザーシップ」の「現代作家による新作・初演」が、「惑星」と「ピアノ協奏曲」に分離され、今プログラムに体現されていると考えられるのです(プログラム決定時の思考を追う意味ではなく、曲目から受けるイメージとしての解釈)。
もとから宇宙的イメージを想定して「ピアノ協奏曲」と「惑星」が組まれたのではなく、後に宇宙的イメージで結びつけられたと思われるこの「後付」か結構重要なポイントです。
なぜなら、レヴィ=ストロースの「プリコラージュ」が「手元にあるものを組み合わせて利用する」事に重点を置いているからで、手持ちの駒の中から結びつけられイメージは結合には必然性や法則性が不要で何の制約もない為、増幅・増殖します。
これが「趣向」のイメージです。

企画もののコンサートではプログラム全体にテーマが設定されている事があり、曲にはテーマへの結びつきに客観的な必然性が必要ですが、「趣向」としてつながった曲のイメージ結合には理由付けは不要です。
全体に「テーマ」を設定した場合、誰もが納得する理由が必要なのに対して、「趣向」では「なんとなく」「勝手な想像」「個人的思い入れ(共通の思い出がある=イメージの隣接性)」等でOK。単なるイメージ遊びでしかないのですから。
この「趣向」に似たイメージ感覚が、今回のプログラムには感じられました。
※趣向については末尾の「おまけ」に補足を記載

私はそういうイメージ遊びが大好きなので、その遊び感覚が出てしまったのが下記の tweetです。
この時は、イメージの結びつきが自分の中で起きた感動をそのまま投稿しており、その正誤を問うものではありませんでした。このプログラム全体がその方向性ありそう…ちう解釈すらも存在しない段階です。

うわ〜〜〜!!
さっき仕事中に初めてアデス「ピアノと管弦楽のための協奏曲」を聴いたら、なぜ最終日に再度「I Got Rhythm」が演奏されたかわかった!第一楽章って、どう聴いても「 I Got Rhythm」じゃん。。。
(違っていたらすみません)
#仕事中なのに投稿の衝動が抑えられない
#角野隼斗

9/20(サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)

その後、9/28にファンの方が「ピアノと管弦楽のための協奏曲」と「 I Got Rhythm」の関連性が考えられるレビュー記事をシェアしてくださり、「オープニング テーマは、ガーシュウィンの「I Got Rhythm」のシンコペーションのフレーズと比較されています(google翻訳)」とありました。
このことで、上記のtweetに改めていいねやレスして下さる方々もいらっしゃったのですが、ネタ投稿としてのお遊びとはちょっと受け取られ方が違ってしまった様で、、、、
この記事をご紹介くださった方は「感じるのは一解釈」と書いていらっしゃったように、私もイメージ遊びとして「一解釈」「正誤の問題ではない」と思っていました。
とはいえ、その引用には納得できるキリル・ゲルシュタイン氏、ガーシュウィン、アデス氏の文脈は存在していると思われます。(この微妙な関係性が後の音楽的表現にも関わってきます)

ですから、一つ目のレスでは、イメージ遊びとして自分の中で繋がったことが面白い!という事を目的としている旨をお伝えしています。
二つ目のレスでは、私のイメージ遊びと角野氏の「次演目への繋がり」を同レベルで扱って良いとは思えず、思わず書いてしまいました(前回のnoteで「プロセスへの介入」として否定した事に該当するのでいつもは思ったとしても公にする事はない)。

初めて聴いたアデスの協奏曲から「I Got Rhythm」が聴こえてきてすごく驚きました!!
でも、NOSPRツアーのアンコールになぜこの曲だけ2回演奏されたのか?という疑問が解けた(気がした)方が嬉しかったかもしれません
皆様、アンコールの予想(リクエスト)や答え合わせに盛り上がっていましたね。リアルタイムは参加できませんでしたが、終了後に千穐楽の答え合わせににだけ参加させて頂いた感じです。

9/29のレス(サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)

勝手な想像ですが、ご自身のリストにも非掲載ですし、NOSPRツアーのアンコールはキャンディードで終わらせたいお気持ちお有りだったのでは。次演目への繋がりからは、逆にこのツアーへの特別な想いを受け取らせて頂きました。

9/29のレス(サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)

しかしながら、私の中では「ピアノ協奏曲」「惑星」間のイメージは益々増幅し、楽しくなっていきました。
コンサート前にこんなにワクワク楽しかったことなんて初めて!笑

訂正:「海王星」合唱のfade outは「ドアを徐々に閉めてゆく」と解説発見。Lienさんとラボ情報を重ねると、全演目が「ワームホール」で繋がれその扉が食器棚と舞台に有る。って「どこでもドア」 か!?
http://shinkyo.com/concert/i239-2.html…
#10月4日アデス日本初演角野隼斗とPPT
#飯森範親PPTの惑星
#かてぃんラボ
※10/2に投稿した際、「海王星」と「冥王星」を間違えていたため削除して訂正投稿しました。

10/3(サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)

扉=ドアを共通項にして、全く関係が無い「協奏曲の始まり」と「惑星の終わり」を繋げています。
音楽性の比喩と舞台上の演出(?)的なものを繋げているので、もう何でもアリ!の状態。笑

オーケストラの音が角野氏のピアノの抑揚と一体となって渦巻く波の様。予習中音源の質感と違っていてビックリ!!飯森マエストロの「化学反応」というお言葉は正に。
で、宇宙の化学反応って事は「生命誕生」まで行っちゃうとか!?
#10月4日アデス日本初演角野隼斗とPPT
#飯森範親PPTの惑星
#角野隼斗
飯森マエストロの引用RT

10/3(サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)

これは「生命誕生」を「胎動」の比喩として用いたもので、アンコールを予想している投稿です。
予想は外れましたけど、言葉遊びとしては結構気に入っています。笑

飯森マエストロの動画や配布物を読めば、「新しさ」「新作と古典の共存=多様性」に全体のテーマを置く可能性は十分に考えられます。
けれど、テーマの代わりに「趣向を紐解くヒント」の様なものがさまざまな媒体や発信者から分散的に提示されている事が面白く、ファンも主観的にイメージを膨らませつつ記事や音源などのシェアが熱心に行われていた様に思います。
もし制定されたテーマが前面に出ていたら、これほどイメージが広がることはなかったのではないでしょうか。
また、公式タグの公募・設定も、SNS上のファンのモチベーションに大きく影響したと思うのですが、「#10月4日アデス日本初演角野隼斗とPPT」「#飯森範親PPTの惑星」というタグはあまりにも長すぎて…実際に用いるには文字数制限との格闘という余計な苦労が必要になってしまいました。
本来であればもっと盛り上がって欲しい感想時のTweetでは、文字数を要する為か使用頻度が少なかった様に思います。

一方、「惑星」の演奏中に施されたプロジェクションマッピングやライティングなどコンサートの趣向(一般名詞)については、「クラシック音楽と映像の融合、再び。」「時代性を追求し、既存の芸術表現にとらわれない。」と、その意義や意図・コンセプトがと配布物に書かれているのですが……
「遍在する音楽会」を経験している身としては、音楽と映像の融合に特別な新しさは感じられませんでしたし、既存の芸術表現にとらわれないという程大袈裟なものにも感じられませんでした。
もちろん、マイナス面がなければこれでも十分に面白い演出・趣向だと思うのですが、送風音(プロジェクターの冷却?)に対しての厳しいご意見も散見され、考え所なのかな…と。
こういう類のものは、予算をかけた仕掛けに圧倒的な勝利が見えている訳で、逆に予算をかけなければそれなりの成果しか得られません。
音楽以外の演出やコラボレーションに用いる予算が大きくなれば観客やオーケストラ団体の負担は大きくなり、その必要性・必然性は「新しさ」「既存の芸術表現にとらわれない」という理念と天秤にかけた場合、どうなのかな…と。。。

芸術表現は、受容の仕方・受け手のスタンスによって印象が大きく変わってきます。
そういう意味で考えば、プロブラム全体を通した「趣向」は視覚的趣向と同等かそれ以上に、鑑賞時のイメージに影響を与えた可能性があります。
公演直後に配信された飯森マエストロのSpaceでは、更に余韻を楽しんだり地方でコンサートに行けなかった方々と喜びを共有したり、「事前に楽譜を見ないで決めていいた?!」となど、驚きの情報まで!笑
これはまさに改名時のスローガンでもある「グローバルな多様性を受け入れて発信・発進」という事に他ならないのではないでしょうか。
このグローバルが、平面上だけではなく宇宙的な三次元的視野でもっと広がって欲しい!と改めて思いました。

ちなみに、私が視覚的趣向で面白く感じられたのは曲に対するカラーのイメージングで、曲調とリンクすることでより感動が大きくなる場合もあれば、「天王星」は勇ましい部分もありながら青が使われている所に「魔術の神」だからなのね…と思ったり。その音楽と表題とをカラーが埋めている解釈性を感じた所です。
音楽に別媒体の表現を足すような新規性とは違う「新しい芸術表現」の可能性はきっとあると思われますので、音楽家による「既存の音楽表現にとらわれない表現」を多方向性で探って頂きたいと思っています。
(前述の予算とチケット代と視覚イメージの出来とのバランスが気になるだけで、視覚的趣向を否定している訳ではありません)


<革新的な「人為的自然」>
どこからどういう風に書いたら良いのか本当に悩むのですが…結論を先に書いてしまうと、「人為的自然」とは、ポーランド国立放送交響楽団日本公演ツアーの感想に書いた「“refined beauty(洗練された美)”はそれを意識しないところから発するからこそ美しい」の、一形態であるという事です。
ショパン「ピアノ協奏曲第1番」では、角野氏の「人為性(メタ的な)表現アプローチで[意識しない所から発する表現性]を成立させていた」と感じた訳ですが、アデス氏「ピアノ協奏曲」では、「人為的に設けられた世界観のなかで[意識しない所から発っせられたものと同種の質感]を成立させる表現だった」と感じられました。
人為性が角野氏の表現にあるのが前者で、人為性が作品そのものにあるのが後者、逆転しているのです。
二つの音楽的表現性は全く違いますが、「音楽に対する人間の思考や解釈=人為性=近代性」と、「音楽から人間が無意識的に得られる感覚=自然性=原始性」がオーバーラップするところに「表現の核心」があるように感じられます。
そして、表出した表現としてコントロールされたオーバーラップ部分こそが「人為的自然=革新的な現代性」です。
(自分の生涯テーマが「中間領域」である為、その部分を極端に強く感じている可能性は否めませんが…)
単純に「オーバーラップ部分」とせず、「表出した表現としてコントロールされた」と付けたのは、その人為性と自然性の重なりが特殊なバランスにないと成立しない表現だからです。

トーマス・アデス インタビューをコンサート直前10/2にファンの方がシェアして下さったのですが、その画面は以前も見た記憶があり、調べてみたら別のファンの方が6月にシェアしてくださったものでした。
曲を聴いていない6月時点では意味がわからず、内容も全く記憶から抜け落ちていました。
/2に読むと、リズムの複雑性に潜む原始的な身体感覚や間合いを厳密に楽譜に置き換えらる手法が、彫刻家の創作過程=完成作品のイメージを持った上で削る行為に喩えられているのだと感じられますした。

その夜、飯森マエストロから投稿された角野氏のリハ動画を拝見すると…

ゲルシュタイン氏の演奏と全く違う事に驚き、その質感の違いがどこから生まれているか…と、大きな疑問を覚えました。

そして翌日、角野氏のこのTweetによってその疑問は解けました。
改めて曲のタイトルを考えてみれば「ピアノと管弦楽のための協奏曲」なのです。
でも、ゲルシュタイン氏の演奏はオーケストラよりもピアノが立ち上がっています。
私はクラシックの知識は全くないので、ショパン「ピアノ協奏曲第1番」はオーケストレーションが弱い、ピアノ中心になり過ぎているというという評価があったということに「えええ???」だったのですが、ショパン「ピアノ協奏曲第1番」よりも、ずっとずっとゲルシュタイン氏が演奏されたこの曲の方が、ピアノ中心の曲として感じられます。
それに対して、角野氏のリハーサルでは「ピアノと管弦楽のため」というタイトル通りの曲である事がはっきりわかるのです。
角野氏ご自身が「複雑性にばかり気を取られていたけど、合わせてみると改めて気付く」と発言されている事から、曲自体が持っている「ピアノと管弦楽のため」という音楽性は、実際にリハーサルを経て獲得されたことが窺えます。

その意識でアデス氏のインタビュー読み直すと、実は違う意味で解釈できてしまうのです。

アデスにとって、作曲とは音楽上の混沌を正しくオーガナイズすることである。

作曲というのは、取り組んでいる時は抽象的な作業でもあります。私がオーガナイズしようとしている素材は、ある意味本質的に混沌としたものなのです──まるで私たちの周りの空気と同じように。そうした混沌の中からいくつかの塊を取り出し、オーガナイズするわけです。
(中略)
曲の正しいバージョン、すなわちマスターはどこか外に、あるいは私の内部にすでに存在していると近年ますます思うようになりました。それは私が曲を書く前から存在し、私の仕事はそれを正しく記すことなのです。

トーマス・アデス インタビュー「作曲とは本質的に混沌としたもの」

あきらかに、「周りの空気のように本質的に混沌とした素材」「塊を取り出し、オーガナイズする」方が重要。
完成作品のみをアデス氏がイメージしていたら「塊を取り出し」で終わってしまうのですが「オーガナイズする」という後工程が書かれています。
アデス氏の「本質モデル」が作品の完成形ではなく「周りの空気」「本質的に混沌としたもの」だということなのです。
後の「マスターはどこか外に、あるいは私の内部にすでに存在している」というその言葉とあわせると、そこに形而上学的なエイドスやイデアのような本質モデルの存在を認めていることが読み取れます。
前述の彫刻家の創作行為を比喩として用いていたのは、後の感覚を「頭がおかしいと思われるかもしれませんが」と書かれているように、わかりづらかったからかもしれません。
っていうか、全体のタイトルが「作曲とは本質的に混沌としたもの」なのですから、この部分こそが主題であることは間違いないでしょう。

最も驚くことは、が、角野氏のリハの演奏とTweetでそれらの事がスッと納得・理解できてしまうことなのです。
ゲルシュタイン氏の演奏を30回以上聴いてもわからなかったのに。。。
(ラジオのノイズや受信機にも喩えられていたので、元が作品の完成形ではなく混沌の「本質モデル」であることも伝わってくる)

そして、角野氏ご自身もオーケストラと演奏するまでは想定されていはいなかったこと、それが「芸術の飛躍=芸術の聖域」で、これこそが芸術の芸術たる所以!!!
現実に、それが立ち顕れた創造の瞬間を目にできる喜びは言葉になりません!!!
(実は私がラボ内の最後の演奏が最も好きな理由でもあるのですが、この瞬間には完成された表現とは違う「神の啓示」のような特別な光が放たれています。笑)

実は当日の角野氏の演奏からは、ゲルシュタイン氏の演奏から得ていた「I Got Rhythm」を感じませんでした。
感じられたのは、その音楽としての必然性だけです。
けれど、それはゲルシュタイン氏とガーシュウィンの文脈を否定するものではなく、「言われればそうかも」というイメージの重なり、用途に最適な転用=「見立て」に近い感覚でした。
角野氏であればガーシュウィン「I Got Rhythm」をイメージする演奏を、アデス氏の楽譜の中で表現されることは可能なはずですが、曲の解釈としてオーケストラとのアンサンブルの中で最も美しく自然な表現性を選択されたのでしょう。

「見立て」が成立した状態は「言われなければわからないほど自然」というものが最高です。(言われてわかる、という所がイメージ遊びになる訳で、その面白さにはクイズ的な要素も含まれる)
そのままでわかる人もいるかもしれませんし、わからない人もいるかもしれませんが、用途を主体に考えられた転用である以上、その状態が最適であれば良いのです。
一方、引用・転用を目的にするとその作品からはオリジナルからの文脈に意味があり、それが読み取れることが重視されます。
角野氏の演奏においては。「I Got Rhythm」の文脈が読み取れるモチーフは、引用ではなく音楽全体の中で自然なものとして用いられているということです。

ファンの方がシェアくださったアデス作品の評では、「大衆を惹き付ける要素」「いい曲だと率直に思わせる力がある」「音だけのエンターテインメントとして高い完成度を持っている」と、自然に響いてくる音楽表現として書かれています。
ものすごく複雑な楽譜による人為的な用法も、作品全体からは必然的な自然さで成立しているということです。
たぶん書かれた方は楽譜を見たことが無かったのだろう…と思われ(飯森マエストロもそうだとおっしゃっていましたし 笑)、だからこそ音楽本意の自然さにも気づくことができたのかもしれません。笑

また、アデス氏が語られていた「周りの空気」「混沌の中からの塊」という言葉からは、複雑性がもつ全体イメージとしての抽象化があり、グルーヴや複雑なリズムもその一部として、和声やフレーズやそれぞれの楽器による質感やありとあらゆる音楽要素として、同列に扱われている作品のように感じられました。
「ピアノと管弦楽のための協奏曲」であること、転用時の曲の世界観に馴染んでいる表現で冒頭のテーマを奏でられているという事を考えても、角野氏の演奏表現の方がアデス氏の「曲の正しいバージョン」に適っているだろう、と推論することができるのではないでしょうか。
(ファンの贔屓目が無いとは言いませんが…)

で、「アデス氏って利休じゃん。。。」となる訳です。笑
何を書いているのかさっぱりお分かりにならないかもしれませんが、
イメージ遊びでこの「混沌」と「オーガナイズ」とを結びつけた結論だと、そういう結論になってしまうのですよね。笑
(もちろん、事前にコンサートプログラムから「趣向」を感じていたことが影響している主観的な結びつきですが)
人為的に洗練された美でその自然を再現しようとした所が、私にとっては利休的表現に思えるのです。
この抽象化は、部分抽出としてのデフォルメではなく、人為的にコントロールされた混沌・自然性にあるのです。
その音楽に存在する人為性と自然性の絶妙なギリギリのバランスが…もう、なんと言って良いのか…こんな音楽は今まで体感したことがなく、革新的としか言えませんでした。
それこそが、私がこの「ピアノ協奏曲」という音楽作品から感じた一番の魅力だったのですが、この特別な魅力は角野氏の演奏があって初めて聴衆に伝わったのだと私は思っています。
※利休の人為的自然については末尾の「おまけ」に補足を記載

しかも、これが可能になったのは前回のnoteに書いたように、NOSPRとのショパン「ピアノ協奏曲第1番」で感じた表現性の獲得があってこそ!ではないかと。。。
「外側から内側全体に対して間接的に行うコントロールは、表現者の解釈の中にはあるものの(中略)ソリストの意識しないところで行われている=作為が無い、というイメージ」(前noteより)は、今回その作用が反転され、「混沌をオーガナイズするという作為性の強い音楽作品の中から、その自然性をオーケストラ全体の中で響かせる解釈表現として行った」と考えられるのです。

<項の冒頭を再掲>
ショパン「ピアノ協奏曲第1番」では、角野氏の「人為性(メタ的な)表現アプローチで[意識しない所から発する表現性]を成立させていた」と感じた訳ですが、アデス氏「ピアノ協奏曲」では、「人為的に設けられた世界観のなかで[意識しない所から発っせられたものと同種の質感]を成立させる表現だった」と。
人為性が角野氏の表現にあるのが前者で、人為性が作品そのものにあるのが後者、逆転しているのです。

作品と表現性の関係が逆ですが、どちらもその芸術性に「コントロールされた解釈の内に無作為的な表現性が取り込まれている」と思われ、私には、お二方が作品を通して共鳴し合っている様に感じられました。
アデス氏指揮による再演という次元ではなく、角野氏への新作が期待できるほどに。。。

ちなみに、私の実際の演奏についての感想ですが…実は細部の記憶がほとんど無いのです。
余りにも「体験」としての感覚が強過ぎたといいうか、音楽鑑賞の域を超えていたというか。
第一楽章のオーケストラと絡み合いながら、所々浮き出るピアノの質感の面白さ。
第二楽章では、今までに聴いたことのないような胸に刺さる繊細なピアノの音とオーケストラの響き。
第三楽章のクライマックスではオーケストラと一体にうねる様に上昇する音楽の渦。
上記はどうにか記憶には残ってはいるものの、圧倒的に私を支配していたのは「人為的自然性から発せられた抽象表現そのもの」を感じている感覚でした。
説明が難しいのですが、陶酔感に溺れるような非日常的な空気感に身体が沈むような、もしくは浮遊するような感じです。
一方で、身体的には自分の呼吸が邪魔にすら感じられ、まさに「固唾を飲む」という状態。
音楽の意味を考えることも音の質感を味わう余裕もなく「聴覚」の意識も薄れてくるよう陶酔感に溺れました。

この感覚は何かに近いかも…と記憶の糸を追っていくと、思い当たる展覧会がありました。
2005年に行われた「杉本博司 時間の終わり」展(リンク先は浅田彰氏の評)です。
自分の展覧会経験の中でもベスト5には入る素晴らしさで、滞在時間は5時間半を超えました。(若冲やフェルメールの様な混雑による長時間滞在ではない)
「海景」の部屋は真っ暗で宇宙空間のようなマットな質感に写真作品だけが浮かび、池田亮司氏のテクノノイズ系の音楽が流れていました。が、音楽というよりも環境音に近いものでした。
その作品世界に沈み浮遊する感覚、一点を観続けていると知らないうちに30分以上経っているような鑑賞体験は、「ピアノ協奏曲」の鑑賞体験に近かったのです。
全体でわずか20分程度の演奏だったにも関わらず。。。

で、上記浅田氏の評を改めて読んでみると…おおおおお!!!!!

「リアリズムの極致がミニマリズムの極致と一致する——このアクロバットが杉本博司の「海景」の核心なのである。」
(中略)
「永遠※」と一致するという文字通り歴史を超えたシンボリックな円環図式が、リテラルに 実現される。
※展覧会のタイトル「時間の終わり」との対比

REALKYOTO 「写真の終わり——杉本博司「時間の終わり」展の余白に」
初出雑誌(『文學界』2005年11月号)の版元、株式会社文藝春秋の許諾を得て転載・公開

そう!!!
これーーーーーーーー!!!!!!!!!!
前回のnoteで「角野隼斗氏はこのパラドックス的な方法論・コペルニクス的転換を、21世紀の新たなクラシック音楽の表現としてこのコンサートで試みた」と書いたものは、まさにこういうことです。
「リアリズムとミニマリズム」は、今回度々用いている「混沌と抽象」「自然と人為性」とも言い換えられます。
微妙にその対象は違っていますし作用の関係性が逆転することがありますが、とにかくその「対極のアクロバットな作用」こそが「“refined beauty(洗練された美)”はそれを意識しないところから発するからこそ美しい」の構造性と一致するのです。
展覧会会場では、新作能「鷹姫」(アイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェイツ「鷹の井戸」が原作)の上演もあり、ケルトと日本や現代のテクノノイズと能という対比、タイトル「時間の終わり」でありつつテーマは「永遠」で、この展覧会全体を通して対極の同時提示が行われていました。(杉本氏の能への傾倒は後に新作能を自作してしまうほどでしたが、まあ…素人はそこまで足を踏み入れない方が良いですね。。。苦笑)

演奏の感想にはより宇宙そのものというよりも、もし宇宙空間に居たら感じるかもしれない感覚だった為、その抽象度を高めるため「宇宙」を入れていませんでしたが、この仲介ワードがなかったら、「時間の終わり」展にたどり着けていなかったのだとも思います。

そして、前述の「作用の関係性が逆転する」について。
人為性と自然性の関係がショパン作品とアデス作品の表現では逆になった事は書きましたが、アンコールの「I Got Rhythm」と「ピアノ協奏曲」の関係性も、たぶん逆転されています。質感表現までも含めて!!
「ピアノ協奏曲」の演奏では「I Got Rhythm」を感じなかったと書きましたが、実はアンコールの「I Got Rhythm」からも、私は「ピアノ協奏曲」を感じませんでした。
気づかなかった時点においては、角野氏のJazzyな「I Got Rhythm」は「ピアノ協奏曲」のモチーフとの違いを明確にさせるためのものだろう…と、物凄く単純に思っていたのです。
ところが、「ピアノ協奏曲」のモチーフが引用されているという皆様の反応をSNSで確認して…気づいてしまいました。。。
「ピアノ協奏曲」と「I Got Rhythm(角野氏編曲)」での関係性を逆転させていたのでは…と。
「ピアノ協奏曲」のモチーフを用いながらも、質感は完全に「I Got Rhythm(角野氏編曲)」に寄せていたということです。
Jazzが持つノリを軽やかに生かした表現の中に、アデス氏の現代音楽的なモチーフを取り入れつつ(引用というよりも質感を変えているのでやはり転用に近い「見立て」として)演奏されたのでは?と。
末尾に「?」がついているのは、第一楽章冒頭のテーマとは違い私自身が「ピアノ協奏曲」のモチーフに気づけなかったからですが、気づけなかったことが「転用・反転作用」の証と言えるかもしれません。
これ、考え様によってはアデス氏への挑戦状かもしれませんね。
「どっちもできますけど?!」みたいな。。。笑
「営業的アピール」とも言えなくはないですが、でも、対等感が滲み出ているから、やはりガチっぽい感じがするのですよね。
小曽根真氏との関係みたいに。笑
もちろん、大きなリスペクトと共感が溢れていることがその演奏から感じられます。

ああああ……もう、シームレスやフラットを超えて、本当に自由自在、縦横無尽としか例えようがありませんが、それは「凄まじい経験」「地獄まで墜ちて」という段階を経て辿り着くことができる特別な場所なのでしょう。
本当に尊敬の念しかありません。

そして、このことは別の大きな、かつてない音楽鑑賞に繋がっているように思われるのです。
直後の演奏直後の角野氏と飯森マエストロの御感想(動画)飯森マエストロの御感想を拝見すると、グルーヴや楽しさを感じていらっしゃいます。
ファンの方も、それらを感じられている方と私の様に曲そのものの自然さを感じられている方とに別れているのです。
これはどちらが正しいかということではなく、この曲と表現性がその両極性を成立させていた為だと考えるのが妥当なのではないでしょうか。
考えられる、という仮説で書いているのは、私自身が「リズムやグルーヴが突出しない全体的な曲の自然さ」という方向で鑑賞しているため、「リズムやグルーヴに意識が向かう体感的な楽しさ」については、予想するしかないからです。
ですが、これこそがこの作品(今回上演された角野氏+飯森マエストロ+PPT版)の「革新性」そのものなのです。

まさに、
「“refined beauty(洗練された美)”はそれを意識しないところから発するからこそ美しい」

そして、かてぃんラボでは下記のようにもおっしゃっていました。

クラシックで培ったものが他のジャンルで生かすことができるのか アンド 他のジャンルで培ったものが他のジャンルで生かすことができるのか この二つをひたすら追求してる それが世界的にみても僕のアイデンティティになる

かてぃんラボ(有料コンテンツ)「アデスについて (6分の2拍子って何?) / 全国ツアーについて」

これをみると、両極的なものを同時に表現するという「コペルニクス的転換」も「アクロバット」も、すでに角野氏の思考概念の中にはあったと読み取れるのです。
上記からは「あんど」として常に両軸から「生かすこと」を思考されていることが窺えますが、普通の思考は一方向に深く行われるものなので、同時に逆作用を考えことは極めて特殊だと思われます。
この状態でアデス氏の作品に出会ったからこそ可能だったのが今回の表現であり、だからこそアンコールでは即座にその関係性を逆転させることができたのではないでしょうか。

更に面白いのは、角野氏と飯森マエストロは意図しているその音楽表現の方向性が違っていただろう事です。
でも、それもまたこの両極性という極めて稀な質感を成立する一要因と言えるかもしれませんし、もしかしたらアデス氏はそこまで想定して曲を書かれていたかもしれません。
というか、現代アート的な考え方をすれば、その偶然的組み合わせ自体が作品表現の大きな要素として当初から想定されているということが言えてしまうのです。
こうなってくると…「芸術表現の解釈は受容者の自由」という考え方自体も(クラシック音楽においてはこれ自体も新しい考えかもしれないのに)、メタレベルでその概念自体が揺さぶられるというか。。。。
もうね、私的には完全に音楽を超えた現代アートの領域に突入しているのです。
しかも、この現代アート的な鑑賞を行うには、事後に演奏者・観客に関わらず様々な人の感想を見聞きする、という所までがセットになってようやく成立するのです。
あああ、、、なんだか本当に新しい時代が来つつある!!!!

角野氏がどうしてこの様な表現(私からすればと日本文化との共通性を感じるもの)を体現できるのかはわかりませんが、ゲームやYouTeubeなどのサブカルチャーの混沌世界と、ある種の型や様式を持つ古典音楽とを幼少期から同時に両方浴びてこられた結果なのかもしれません。
ただし、型や様式はそれを用いる人の感性と技術に大きく依存するものですし、時代によって再解釈=洗練化が行われるものでもあります。
アデス氏の作品自体、引用としてすぐにわかるものではなかったとしても、古典や先例の再解釈と位置付けることは可能でしょう。
※「型」については末尾の「おまけ」に補足を記載

新たな音楽表現が出現した瞬間に立ち会えた幸せ!!!
これはもう…歴史の1ページが刻まれたと言えます。
私は以前、FUJI ROCK FESTIVALのライブに「伝説」という言葉を使ったのですが、今回は迷わず「歴史」という言葉を使います。
これほどまで素晴らしい完成度で革新に満ちた音楽世界を完成させるため、角野氏だけでなく飯森マエストロやPPTの皆様がどれほどの熱意と信念と労力をかけて取り組まれたのか。。。
それは予想不能な不確実な伝説などではなく、なるべくして起きた歴史という言葉こそが相応しい。
本当に本当に、関わられた全ての皆様、素晴らしい音楽をどうもありがとうございました!!!!

この革新に満ちた音楽は早速10/16のNHKブラボーオーケストラで聴くことができます。できました。
アンコールまでもが放送されるそうですから、「I Got Rhythm」「ピアノ協奏曲」の反転させた関係性も含めて味わうことができそうです。
コンサートでは聴く行為よりも体験としての感覚が優っていたので、ラジオで聴いたらもしかしたら全く別の印象で聴こえてくるかもしれません。
でも、そういう特性を持った音楽作品だということ。
もう、今から聴くのが本当に楽しみです!!


<ホルスト「惑星」の感想>
最後に簡単ですが「惑星」の感想も。
冒頭の「火星」のところ、弦のスタッカートみたいな?音が生でないと感じじられない音で、音質そのものに感動しました。
木管楽器空気感のある音も録音には収録されていませんが、惑星の空間の広がりを音質で表現していた様にもいます。
また、コンサートマスターの塩貝みつる氏のソロのヴァイオリンが本当に優しく温かくて。。。
ジェンダー的な偏った解釈につながる可能性もあるのですが、だからといってジェンダーとは無関係とは思えず。。。
全体を包み込む様な温かみは、やはり女性特有の感性の様に感じられました。男性でも優しさは感じられるのですけど、ちょっと種類が違うのですよね。。。
ヴァイオリンは女性奏者が多かったようなので、「水星」のユニゾンみたいなところもすごーくあたたか味を感じました。
あと、弦楽器が小さいボリュームになるところかすれ感みたいな質感がとっても面白かった!
「木星」は超有名ですが、生で聴くと体に直接感じる高揚感が本当にすごい!これはもしや、パイプオルガンの効果?最後のクライマックスに至る音圧たるや圧倒されました。
「天王星」は先に書いていますが、マーチの様なリズムがノリノリ。ついうっかり体が動いてしまいました。

「海王星」だけは少し別扱いです。
非現実的な夢のような世界で、合唱の間接的な質感がもう…なんとも言えないというか、、、ステージで歌われていない音の効果が本当に特別でした。
海王星のコーラスについて、前述したお遊びのTweetに貼った記事「ドアと合唱の問題」に、とても興味深いことがたくさん書かれていました。
コンサートでは、2階の下手ドアが最初に開き、徐々に閉まる段階で上手ドアが開き、また閉まっていきます。
記事では、フェードアウトのためにはドアを閉じるだけではなく合唱者「銘々が「自分の脚」を使って移動してゆく」という説明がありました。
これを事前に知っていたことで、今回は合唱者が下手扉側の奥に居て、開く扉を変えることでドアとの距離を調節していた、ということもわかったのです。
また、副指揮者の重要性についても書かれていましたので、ステージに合唱団の皆様と一緒に上られた際、心からの拍手をすることができました。

「遍在する音楽会」アイヴズ「答えのない質問」では、質問役のトランペットが2階客席(モニターが点在していたので舞台正面側は客入れ無)で演奏され面白かったのですが、個人的には音楽表現に直接関連するこういう演出の方が、プロジェクションマッピングよりも「新しい」気がしてしまうのですが、うーん、、、クラシックコンサートにほとんど行った経験がないからでしょうか。

そして、「ピアノ協奏曲」と「惑星」とを扉で繋げていた私自身のイメージにより、このプログラム宇宙が円環として繋げられたような感覚。もしくは、扉から顕れていた別次元の存在との接点が扉が閉まって無くなった、という様な不思議な終了感を得ることになりました。
やはり、イメージ遊びって鑑賞に大きな影響を与えると思います。

<おまけ 日本文化に関する補足>
■趣向について

<趣向の一例>
十三夜だったので、室礼もお道具もそれに合わせてくださったお稽古でした。先生のお道具はお稽古用が多いですが、こういうイメージ遊びの中でお茶を楽しむひとときが何よりも幸せです。

□お軸「月 清千古秋」(月だけが大きく描かれている)
→本来、月のお軸は9月中で終わることが多いけれどあえて使用。

□お茶入 瀬戸焼「文琳(りんごという意=丸い)」
→すでにりんごに見立てて名付けられた茶入れですが、今回は丸い形を丸い月に見立てて取り合わせ。

□お仕覆(茶入を包む袋)「望月間道(望月宗竹好みの縞の意)」
→「望月」は人名なので直接「月」とは関係がないものの「月」が使われているので月のイメージは増幅。更に満月ではないものの「望む月」なので十三夜にもしっくりくる(十六夜であれば興醒め)。

□お茶碗 西岡 小十作「絵唐津(錆絵)」
抽象的な勢いのある筆線が描かれた井戸型茶碗。
線画を芒に見立てて月をイメージすると「武蔵野※」の風情。
※芒と月が描かれる道具の絵柄(銘)を「武蔵野」と呼ぶ。

□お菓子は「月うさぎ」(一◯庵の羽二重餅は至福!)

□玄関のお花入「杵」
→茶室の室礼ではありませんが、玄関のお花入までも月うさぎに繋がる杵。

■利休の人為的・洗練された自然美とアデス氏の関連性。

「花は盛りに 月は隈なきをのみ 見るものかは」(徒然草)
 
花は満開の時だけに見るものではない  
  →寂しさや余白(想起)を愛でる自然観=寂びの元となる自然観
月は隈のない満月だけを見るものではない  
  →不完全さに美を見出す自然観=侘びの元となる自然観

徒然草の自然観を保ちつつ洗練された美意識として抽象化された概念が侘び・寂びだと考えられます。
しかも、この侘び・寂び(=人為的に抽出・抽象化した自然性)を現実の表現として成立させる為の恐ろしい程の工程・手続きが、角野氏をもって「引き受けた事を途中で後悔した」と言わしめるアデス氏の複雑・難解な楽譜と重なりました。笑

利休の侘び茶のために長次郎と創り出した楽焼、やわらか味のある肌質や手づくねによる不完全な形そのままの質感が特徴ですが、低めの焼成温度で一つず焼く全く新しい焼き方だった様、当時は「今焼」と呼ばれていました。
(諸説ありますが、後年秀吉の聚樂第の庭焼きから「楽焼」になったとも…)当時主体になりつつあった日本の焼物ではなく中国系の焼物からの影響が大きく完全な独創でもなく。。。
その完成をみるまで利休の意に適うまで、どれだけ長次郎は苦労したのだろう…と(アデス氏の凄い楽譜を思い浮かべてしまう 笑)。
でも、そのお陰で一椀の中に宇宙を感じるような黒楽ができたわけです。

小間の茶室への露路は山寺への道の趣が意図され、樹木の剪定も自然さを残して行われています。
秋は一旦すべて掃除をした後に樹木を揺すって新たな美しい落ち葉を散らすと言われていて、まあ…この程度なら理解の範疇なのですが、「全ての葉を一枚ずつ拭き清める」という恐ろしいことも伝えられています(やはりアデス氏のすごい楽譜に通じる?!)
先生から聞いた話なので本当かどうかわかりませんが、それが信じられるほど、利休の自然は人為的だということです。

人為的に作られた空間や道具から自然を抽象化・洗練した美を感じることで、さらにそれを経由して、自然の本質的な美すら感じとることができる(想起する)ということではないでしょうか。
しかも、それを表現として成立させるためには壮絶な苦しい道のりがあるという…苦笑
ということで「アデス氏って利休じゃん。。。」になりました。笑

■型について

日本文化には複雑性やカオスを人為的に洗練化させる表現性=型が沢山残っています。
能は言わずもがなですが。笑
昔、華道(一番古い流儀)を、ご高齢の先生に習っていたことがあるのですが、ガチガチの型の中に本当に自然そのものの有り様が表現されたお花をいけて下さる先生でした。
9つの役枝の型の形にするためには、枝を傷つけたりワイヤーをかけるなどものすごく人為的な整形行為をするのですが、型があるからこそ自然(季節だけでなく、枝もの草もの花ものなどの多様性も含めた草木の出生)が普遍的に抽象化された表現になるのです。
華展では、大きなスペースに(役職は引退されていましたがそれなりの先生だったので)普通サイズのお花を展示されているのですが、もうその周りの空気感が全く違う!
型のなかで木も花も草も野山に生えているそのままに存在し、それが周りにふわ〜っと伝わっていくのです。
華道自体に興味があった訳ではないので、先生が亡くなられてからは全く離れ忘れていましたが、今回久しぶりに思い出しました。
これを書くために流儀のサイトで作品をチラ見してきましたが…受け継がれる方々の問題も大きいなあ…と。

一方、現代の華道家の方が「大木でも自分の感性に適うのは一枝だけ」「その一枝を探す為に山をめぐり時間をかける」と豪語されていたのを拝見したことがあるのですが、これは単なる自然の搾取でしかありません。
人類が希少価値の高い資源を取り尽くすこととやっていることは同じです。
人為的自然は、そういう行為に至らずに済む自然利用の形式でもあります。

また、日本文化の型は、その型だけではただの「形」です。
その型が人為的自然性が感じられる表現として成立するには、表現者の感性と技術に頼るところが大きいのです。
「型」を制定した人はその中に人為的自然性を表現できる感性と技術があったということに他ならず、その感性と技術がなければ再現性も低くなるということでもあるのです。
その一方で、感性と技術があれば型が不要なのでは?という問いも発生するのですが、「洗練化」には歴史上無名な人々の手を経てこそ達成できる「美」も存在するのです。
それこそが、長年培われてきた古典表現の現代的意義の一つなのですが、同時に創作者の発しただろう瑞々しい感性と技術なくしては本来の美も遠ざかるということでもあるのです。
複雑性やカオスを人為的に洗練化させた表現として型を成立させるのが難しく、だからこそ、その表現の会得・体得には日本のどの芸能・芸道でも多くの時間を必要とするのでしょう。

追記1

ようやくこのnoteを書き終えたので「BBC PROMS JAPAN」の動画を観たのですが、もうすでにプログラムのイメージ構成で「趣向」的な組み合わせをされていらっしゃいました!笑
02:15頃から
「ゲーム音楽はゲーム音楽として聴かれることが多いわけですけど、そうでない音楽と一緒にプログラミングすることによって何か違う見え方になるんじゃないかという思いもあって‥」
またもや「やられた」感。
メッチャ悔しい!!!!!!!!!!!! 苦笑

ちなみに、この場合はテーマに合わせて演奏曲を決められているので、前述で私が否定的に書いたことだと思われるかもしれませんが、ズラしの要素を大きくしている、イメージの結びつきに制約を儲けていないなど、後付と同様の自由度が高いイメージ結合を決められたテーマからのプログラム構成に用いているということになるのです。
更に一枚上手ってことですね。。。
(マジで悔しいかも!!!)

追記2

上記の感想で疑問視していた、2つのことを「ブラボーオーケストラ パシフィックフィルハーモニア東京1」の配信で確認しました。
一つ目は「ピアノ協奏曲」でグルーヴを感じるのか、人によってもしくはその時々によって感じ方が違うのか。
二つ目は「ピアノ協奏曲」で「I Got Rhythm」を感じるのか、アンコールの「I Got Rhythm」で「ピアノ協奏曲」を感じるのか。
コンサートの時の比較で最も条件が違ったところは、「ピアノ協奏曲」には「I Got Rhythm」のモチーフが感じられる前提で聴いていたのに対し、アンコールの「I Got Rhythm」では「ピアノ協奏曲」の影響がある事はわからずに聴いていたということです。
これでは条件が統一されておらず、正しい比較はできませんから、アンコールの「I Got Rhythm」に「ピアノ協奏曲」の影響があるという前提で聴く実験を行いました。
ただし、一度の経験では事前に何度も予習で聴いていた「ピアノ協奏曲」とは違いますので、数日・数回にわたり聴き比べています。

●「ピアノと管弦楽のための協奏曲」
配信時に聴いた「ピアノ協奏曲」の印象ですが、「I Got Rhythm」の関わりだけで言えばコンサートで聴いたもの(上記記載)と同じです。
音があまり良くないので(最近はFMラジオやステレオテレビより断然YouTubeの方が音は良い!)、残念ながら第二楽章の胸に刺さるような繊細な表現は7割以下になっていました。
一番重視していた本編で疑問視していたグルーヴを感じるかどうかについては、回数を重ねながらリズムを意識的に聴きましたが、やはり感じませんでした。
コンサート直後に余りにも多くの方が「グルーヴ」と書かれていたので、何が原因なのか…と、改めて検索してみたのですが、なんとgoogleのトップで表示される結果が私の認識とは違っていることを発見!

この、Weblio辞書の冒頭に記載されていたのは「小学館デジタル大辞泉」で、開くと下にWikipediaの意味も掲載されているのですが、検索結果には表示されません。
日常的にグルーヴのある音楽に接している者としてはWikipediaの意味で認識していたため、齟齬が起きていたのではないでしょうか。

グルーヴ(groove)とは音楽用語のひとつ。形容詞はグルーヴィー(groovy)。ある種の高揚感を指す言葉であるが、具体的な定義は決まっていない。語源は(アナログ)レコード盤の音楽を記録した溝を指す言葉で(中略)
アクセントが数学的なその位置よりも微かに前や後に置かれる事がある。どの程度先走るか、遅らせるかは楽曲により、ジャンルにより、ミュージシャンにより、またその場の状況によって違ってくる。(中略)演奏家同士がアンサンブルを行う際は、お互いにこのズレを読み合ってバンドとしての「ノリ」を作り出すのである。

whikipedia「グルーヴ」

反田恭平氏のラジオ「ピアノジャズ」では、小曽根真氏がジャズのリズムについて「よれている」「なまり」と語られていました。
そのリズムの「よれ」によって生み出される高揚やうねりがグルーヴです。
アクセントやリズムをズラす複雑な楽譜によるノリは感じられるのですが、その結果生まれる「高揚感」には今回の演奏は至っていません。
実は、リハの第一楽章最後の角野氏の演奏にはグルーヴがあり、実際のコンサートではより抑えられていた様なのです・
直後は余りにも皆様がノリやグルーヴとかおっしゃっていたため、正直最初にnoteを書いた時には自分の感覚に自信がなかったのですが、ラジオとリハーサル動画とを聴き比べれば、それは一目瞭然です。
たぶん、「ピアノと管弦楽のための」というタイトル通りにオーケストラと一体となる演奏、「クラシック然」とした端正な表現を目指されたと考えられるのではないでしょうか。
ノリだったら一つの音の中に緩急を感じるかどうかという躍動感も含まれますので、ご感想にあったグルーヴを単独に発生する躍動感の一つとして解釈すれば十分に納得できます。

実はここで、もう一つ面白い事を発見!
昨日の仕事中に手持ちの曲をランダムに流していたら、カプースチンの「瞑想曲」で「うわ〜アデス!?」となってしまいました。
もちろん、アデス氏の「ピアノ協奏曲」の方が後なので「瞑想曲」にアデス味がある訳ではないのですが、「瞑想曲」からアデス氏の「ピアノ協奏曲」が聴こえてくる〜〜!!笑
途中の不協和音の重なり方や異質なフレーズ同士の繋げがり方など、改めて角野氏の演奏を聴くと、ガーシュウィン「I Got Rhythm」よりもむしろカプースチン「瞑想曲」に近いと感じられるほどでした。
よろしければ配信中に聴き比べをどうぞ。
※あくまでも「イメージ遊び」としてお楽しみください。

ただし、同じ曲でありながら、ゲルシュタイン氏の演奏を聴いても「瞑想曲」風味は感じないのです。
あくまでも角野氏の演奏のみが「瞑想曲」につながるという事。
浮遊感や沈んでいく感覚や陶酔感など…
もちろん、私が大のカプースチンが好きという事が最も大きな理由ではあるのですが、アデス氏のインタビューにあった「周りの空気と同じような混沌を正しくオーガナイズする」や、角野氏がこの曲にイメージされた「宇宙」も、「瞑想=目前の世界を離れて思索する」に質感が通じます。
どう考えても「I Got Rhythm=リズム感を得た」には繋がりません。
人間が感じる(勝手に受容する)イメージって本当に面白い!と改めて思いました。
ちなみに、これもまた聴き方によって聴こえてきたり聴こえてこなかったりするのですが…その理由は以下に記載しています。

●アンコール「I Got Rhythm」
今回「イヤホンで集中して聴く」「スピーカーで流し聴き」の2条件をそれぞれ日を分けて4回行いました。(月曜はショパンのピアノ協奏曲第1番のプレミア公開のためお休み 笑)
なぜ日を変えて複数回行ったかというと、音楽を聴く際には「慣れ」が鑑賞時の印象に大きく影響を与えると考えているからです。※後述

配信当日の結果ですが、イヤホンで集中して聴いた後に流し聴きを行った所、「イヤホンで集中=アデス味は感じない」「スピーカーで流し聴き=アデス味を感じる」という結果になりました。
実際のコンサートでは最初の「やかんの太鼓の音」を認識できていなかった事も大きく、この結果は、それらが既知となった事でアデス味を感じられる様になったのだと思いました。
ところが、翌日お休みをして火曜日に再度イヤホンで集中して聴いたところ、またもやアデス味を感じませんでした。
もちろん、「やかんの太鼓の音」もわかりましたし、アデス的な不協和音が混ざっていることもわかるのですが、「I Got Rhythm」の影響があるという前提で「ピアノ協奏曲」に「I Got Rhythm」を感じなかった、というのと同じ類です。
それよりも、よりjazzyで軽やかな角野氏特有の「I Got Rhythm」の質感が音楽全体を満たしていたというです。
そしてまたスピーカーで流し聴きをすると「アデス味」がわかるのです。
その後、3回目は集中と流し聴きを逆にしましたが、同じ結果でした。
ちなみに「瞑想曲」も真剣に集中して聴くと余りアデス味は余り感じず、仕事中に聴き流していた所「わあ〜!すごくアデスっぽい!」っとなったのです。笑

この結果から考えられることは、私が集中して鑑賞する際には音楽的なものより質感を受容している、ということです。(アデス味を感じる人が集中していないということではなく、私の聴き方として、ということです。私の聴き方の方が異質ですので誤解がありませんように)
まあ、これは単なる聴き方の問題なのですが、驚くべきことは角野氏の
「一つの曲の同じ演奏が聴き方によって二方向に分かれる」という表現性です。
本編では既存の音楽モチーフの影響を引用か見立てか…と比較していましたが、そのバランス感覚が本当に絶妙というか、なんとも言葉では表現しづらい。。。
まるで騙し絵の「妻と義母(wikipedia)」と言った方が良い程で、いやはや、こんな演奏ってありえるの?!という様な驚きでした。
さらに「ピアノと管弦楽のための協奏曲」とアンコールの「I Got Rhythm」との関係は、地と図とが逆転して見える「ルビンの壺」の様です。
「対極のアクロバットな同時提示」が曲そのものにおいても、本編とアンコールとにおいても、二重に(種類は少し違う)起きていると言えるのではないでしょうか。
私にとっては、こうやって色々なことを感じながら聴けるということが、角野氏のピアノこそが唯一無二だと感じられる所で、まさに音楽に限定されない広い芸術表現だと思う大きな理由です。

※補足説明
私は大好きなYouTube動画をあえて頻繁に観ないのですが、それも同じ理由からです。
「鑑賞の方法論」でも書いていますが、完全な初見では元の知識がなさ過ぎて鑑賞に不足が生じますが、記録作品として同じ演奏に慣れ過ぎてしまえば鮮度を失うので、そのバランスをとても大切にしています。
記録媒体による上演芸術を、再現可能というメリットを生かしつつ「一回性の体験」という特性できるだけを残して鑑賞したい…という欲張り鑑賞なのです。
もちろん、私自身も愛着を持って繰り返し聴く音楽もありますし、楽しみ方は色々です。

追記3

Proms Japan公式サイトで公開されている動画では一部カットされていた箇所が、クラシックちゃんねる「角野隼斗×BBC Proms ロングインタビュー in London」内「角野隼斗氏単独インタビュー:現地で感じたものを自身のProm4でどのように生かしたいか(頭出し)」では公開されており、「一見両立し得ないように見えるところの両立」についても、深く言及されていました。
このことは、「ピアノ協奏曲」の角野氏の演奏の中には「対極の同時提示」という概念が当初からあったことを示しています。
私は度々、概念を表現にできる凄さについて言及してきましたが、まさか今回もそうだったとは…本当に驚いてしまいました。
私のこれまでの理解は、楽曲そのものに「対極の同時提示」という志向性が感じられる為、角野氏がオーケストラと調和した演奏を目指した結果、ゲルシュタイン氏の演奏では感じられなかったその特性が伝わってきた、というものでした。オーケストラと合わせることで見出された表現性、ミクロアップ的な志向が強いものだと考えていた訳です。
ところが、この動画からは事前に角野氏の中には「対極の同時提示」が存在していたということがわかり、概念から表現に落とし込むマクロダウン的な志向性を前提とした表現でもある、と裏付けられたのです。
つまり、初演という機会に成立した偶然且つ特別な音楽ではなく、良い意味で再現可能な新たな音楽表現の一つでしかない、と言えるのではないでしょうか。

そして、わずか数秒の重要な部分が公式動画ではカットされていた事や、公式動画は公式サイトからしか見られない(限定公開設定でYouTubeからは検索ではたどり着けない=必然的に閲覧数は減る)事からは、この音楽イベント全体を盛り上げる事やそのコンセプトをより多くの方に伝える事よりも、広告代理店の管理重視の姿勢やプロモーションの定型(動画は短めが良い)を踏襲する安易さを感じてしまいました。
今の日本では、厳選クラシックちゃんねるnaco氏にこのインタビューが委ねられ公開されたことを、幸運だと思わなければならないのかもしれません。
ロングインタビューの公開、本当にどうもありがとうございました。


※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略