【RP】"Cateen かてぃん" チャンネル「Spirited Away - 千と千尋の神隠し (Piano)」の幽玄性について

(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)

<幽世と現世の接点> ※この項では演奏への言及はありません
6/9(木)22:00に"Cateen かてぃん" チャンネルでプレミア公開された角野隼斗氏の「Spirited Away - 千と千尋の神隠し (Piano)」が余りにも素晴らしすぎて、しばらくはボーッとしてしまうし、手にも力が入らず何か握ろうとすると震えるしで…大変でした。
ボーッとしながらもファンの皆様の感想Tweetは拝見していたのですが、自分は何も思考できない状況なのに、的確な言葉や想いのこもった言葉で書かれていて、スゴ〜い!と思うばかり。
段々と頭がはっきりし始めて、Twitterのサークルの設定でようやく投稿できたのは約2時間半後でした。(サークルのTweetは埋め込めない為以下に記載)

夢遊病の様にボーッと2時間半。意識が戻ってきた今 #千と千尋の神隠し は「幽世(かくりよ)」と「現世(うつしよ)」の平行世界(並行世界)の「接点」で能と同種!と今更に気付く。
その美しく奏でられた音楽の幽玄さだけで。
思考ではなく、自分の反応が素晴らしい観能と全く同じだったから…
#かてぃん100万人

まず、「並行」を「平行」と書いている時点で頭が余り働いていないことがおわかりかと思います。苦笑
補足しますと、「千と千尋の神隠し」の油屋(屋号=固有名詞なので湯屋ではなくこちらで統一)が幽世である事はアニメを観た時点でもわかっていました。
ただ、「幽世」と「現世」という相容れない二律する並行世界の「特異な接点」を表現したいがための物語(たぶんストーリーよりも重きが置かれている)という事に気付けていなかったのです。
能はストーリーより質感を重視するので、私にとっては割と身近な様式だったはずなのですが、舞台設定やキャラクター設定が神話や民俗学的なセオリーに当てはまり過ぎて「こんな分かりやすくしなくても…」と、正直興ざめして世界観に入り込めなかったのです(ひねくれた性格でスミマセン)。
今考えてみると、イメージを担う設定が「わかりやすい」からこそ、物語でそれをストーリーで語らずに済んだという事がわかります。

日常領域と非日常領域との間に結界を引く文化は世界中にありますが、日本の場合は中間領域を設けた二重構造、しかも入れ子構造になっているのが特徴とされます。
千尋はトンネルと橋という二重結界を通り油屋に行きますが、その二つの結界の間にある廃墟・花園・食堂街等が中間領域です。
一方、キャラクター設定ではレヴィ=ストロースの神話構造に割と近いようで、その世界の価値基準を超越する英雄的要素を持つ千尋や、物語の転換時にのみ重要な役割を持つ(でも役割が終わったらサッと消えてしまいストーリーには深く入り込まない)善悪併せ持つトリックスターとしてのカオナシの存在などなど。。。
本来、知識はより深く鑑賞するために用いるのであって、それによって作品に入り込めないなんて…まさにダメな典型例です。

余談なので小さく記載します。(引用ではありません)
前回の「日比谷音楽祭2022 角野隼斗氏の ONGAKUDOライブを中心に」に書いた本多静六をなぜ知っていたのかというと、昔、日本文化における「概(念としての)中間領域」に興味があり、明治神宮を調べた事があった為です。
明治神宮は神宮の杜とさらに外側に神宮外苑という施設を備えています。
創建当時、聖なる存在である明治神宮は国家予算から、聖と俗の中間(=芸術やスポーツ施設としての外苑)は、俗人の信心(=聖と俗の中間)である必要性から、わざわざ国民の寄付を募って作られました。完全な外界に対して中間領域の外苑、その内側の明治神宮という構造です。
しかも、入れ子構造として外苑を外としたら、鎮守の杜という中間領域をもった明治神宮になります。その神社内(最後の鳥居内)にも外陣と内陣があり、内陣にも建物と白州があり、その建物も拝殿と本殿があり…と、延々と「外・中間領域・内」と入れ子構造になっているのです。
これは一般の日本家屋も同じで、外と敷地(庭)と家、庭と家には中間領域として戸や窓の外にある縁側や屋根(外だけれど建物の内)が設けられています。
油屋は階によって内部様式が違っていますが、階層も下方=外/上方=内として捉えられており、金閣寺(1階=外=寝殿造/2階=中間=武家造/3階=内=禅宗様式)と同じ扱いです。
また、真・行・草とある場合、先に真と草が出来てから中間領域の行の概念が後に出現したとされます。
さらに、白と黒の中間として混ざり合ったグレーではなく、相対的な視点によりどちらかの性質になるという中間、だからこそ入れ子構造が可能になるのです。
「千と千尋の神隠し」では、中間領域の花園に小川があり食堂街への入口にも階段が設けられていますが、それらもすべて入れ子状の結界として考えられ、日本文化の外・内・中間の関係性を完全に踏襲していると言えるでしょう。
ただ、ドラマとして考えると能や民話は幽世から現世に来た「まれびと」の話が多く、千尋のように幽世に行く事は「浦島太郎」以外にはあまりないかもしれません。

蛇足ですが、古くから都市の中間領域的側面を有しているのが中野区で、ダイバーシティー構想はその性質と合致していると思っています。そして、全国のご当地公式キャラの多くがその地域で生まれ育った設定にもかかわらず、中野大好きナカノさんは人形の世界(=幽世)から来たという設定です。(詳しくは「中野大好きナカノさんがちょっとコワイ意義。」に記載)

「千と千尋の神隠し」という作品世界が持つ独特の質感やイメージを、角野氏のこの作品を観ることで、私は初めて感じる事ができました
オリジナルのアニメ作品が描こうとしていたものは「異世界の様子そのもの」や「人による異世界への越境」ではなく、ましてや「オズの魔法使い」のような「異世界に行くことで日常の大切さに気づく」ものでは無いと思います。
「幽世」「現世」という世界が並行であること・二項の「特異な接点」にしか生じ得ない質感やイメージ、「特異な接点に発生する転換(反転)」を描く事がテーマだったのでは…と感じたのです。
そのきっかけを与えてくれた角野氏の「Spirited Away - 千と千尋の神隠し (Piano)」は、まさに「幽玄=物事の趣が奥深くはかりしれないこと。また、そのさま。」という言葉以外では表現できないものでした。

能になぜ「幽玄」を用いるかといえば、幽世と現世の接点にしか現れない質感にその芸能の本質があるからです。
ただし、能は幽世から訪れたシテと現世の住人ワキが中間領域(夜・生前のシテに因む場所)で出会うという設定のため、Tweetで「同種」とは書きましたが同じとは書けません。
そういう「幽世と現世の接点にしか存在し得ない質感・イメージ」が、角野氏の「表現できる限りを尽くした」素晴らしい動画作品で成されていたのだと私は思い、「幽玄」という言葉を使いました。
もちろん久石譲氏のオリジナルの音楽そのものが素晴らしいという事もあるのですが、その事については後述します。

さらにTweetでは、「思考ではなく、自分の反応が素晴らしい観能と全く同じ」とも書いているのですが、これには自分でも本当に驚きました。
倒置法を用いているからもわかるように、時系列としてはこちらの方が先なのですが…。
下記に引用しましたが、謡曲本や解説書には書いていない事を演能で直接感じ、調べてみたらその通りだった!という事がまれにあります。
それと同じ様な事が起きたのです。

能においては個人の解釈や作為を排したからこそ沸き立つ瑞々しい表現、今目の前で起こっているかもしれないリアルさで表現が迫ってくる舞台に稀に出会います。
たとえば、とある「安宅」の舞台では、どう考えても弁慶が石清水八幡の化身にしか思えなかったものの、注釈本(能の詞章は文学の分野として長い間研究され、その言葉の意味・掛詞・ダブルミーニング・比喩の解釈等が多くの本に残されている)をいくら探してもその様な事が記載されているものは一切見当たりません。しかし範囲を広げて調べると京都周辺の伝承の中から見つけられました。しかも驚くことに、演者はそんな事を全く意識せずに(解釈どころかそんな伝承の事は知らずに)演じていたとの事。
「求塚」の菟原処女は二人の男性に求婚される事を自らの罪として水に身投げし地獄に落ちる稀作で、多くがその不条理な世界を表現する舞台です。しかしとある舞台ではキリストの様に他者の罪を背負いその責を受け入れるかの表現に感じられました。元になった奈良時代の風土記の民俗学的解釈として、巫女的存在が人柱(海を鎮め他者の幸福の為に犠牲になる意)としている記述に辿り着き驚きました。これもまた、演者はその解釈を知らないまま舞台に立ったそうです。
どうして上記の舞台でそう感じたのか自分でも未だに理由がわかりませんが、もし実際にその物語の場面にリアルに立ち会った際に感じるだろう「感覚」「感情」に最も近いという確信だけが残っています。

ヤミジリさんが書かれたショパンコンクール角野隼斗氏の考察について。

先に「並行世界・二項対立の接点」そのものがテーマではないかと書きましたが、演奏後しばらくボーッとしていた後、段々と意識がはっきりしてくると、突然分かってしまいました。
以前配信されたラボ内の動画「千と千尋の神隠しの音楽について」をファンの方からご紹介頂き拝見していた所、油屋と湯屋を混乱され、コメントでは「油屋(あぶらや)」が屋号で「湯屋(ゆや)」がお店の業態という様な事が書かれていました。
なぜこんなややこしい名称にしたのかと不思議に思いつつも気に留めずにいたのですが、突然「水と油」という液体としての二項の対称関係が見えました。
この物語自体が「名前を取り戻す」というものである以上は「名前」を重視しているはずで、もしかしたら「千」と「尋」にも秘密があるかも?と調べてみると…案の定。
諸説あるうえ同一サイトで比較できるものはなかったのですが、主だったものをまとめると、下記のようになっています。

[千]
・「十」と「人」が組み合わさってできた「数を示す」
・一人でははなく集団で存在する人のイメージ
[尋]
・呪具を持つ人を表す事から「たずねる」と「手をひろげた単位・身体尺」
・一人としての人のイメージ

どちらも人や数値に基盤をおきながら「多:一」「現実:非現実」と対称的だといえます。

双子の湯婆婆と銭婆の存在も、漢字では対象的に見えませんが、ひらがなで書くと「ゆばーば」「ぜにーば」となり、後半2文字は同じで、前半の「ゆば」と「ぜに」は濁音と清音の位置が逆、母音は「えい」「うあ」となるので、「お」を外した4音のなかで下から一つ置きという法則が同じ、割と対象的にできているのです。

[湯婆婆]
ゆばーば→ゆの母音=うあ→えお
[銭婆]
ぜにーばに の母音=えい→あ

細部でここまで対称性に拘っているとなれば、それら相反する二つの存在・その接点にこそ重要な意味があるのではないか、と感じた訳です。
その上、「あぶらや:ゆや」「湯婆婆:銭婆」「千:尋」など、表面的にはその対象性が隠されているため、二つがミラーワールドではない並行世界であることを示唆していると思われます。
さらに、現実の名前が神の世界との接点である「尋」を用い、異世界では現実世界の人を表す「千」を用いる事、湯屋の屋号を「油屋」にしている事、お金に執着があるのは銭婆よりも湯婆婆であること、カオナシは黒い体に白い顔だけが浮き出て見えるなど、言葉の意味に対してそれが表すものの意味が逆という用いられ方からは、価値の逆転や転換を託す意図が感じられるのです。エピソードとしてもオクサレ様→河の神の転換が起きていますから。
唯一、ハクだけが現実と非現実の両軸にその存在があり「異界における不思議な存在」で私には解釈できませんでした。
ただ、ハクの「両世界の基準から矛盾しつつどちらにも存在する」という事が、「両世界の接点」とは別の意味で特別に感じられるのです。「希望」がパンドラの箱を開けたからこそ生まれたようなパラドックス的な質感で、
個人的には「千と千尋の神隠し」の中でもっとも好きなものです。
全体がハクくらい謎に包まれていたらなあ…と、思わずにはいられません。

ちなみに、wikipediaに書かれている○○(制作関係者)が語ったという内容、本当の事を言っていないのだろうなあ…(もしくは最終的に作品とは関係のない初期の設定のみだけ語っている)と思いながら独自解釈をここに書いていたのですが、宮崎駿が「養老天命反転地を訪れて気に入り」と小さく書いてあって、やはりビンゴだ!!!!
価値の反転とその反転が起き得る接点が作品の大きなテーマを担っているという解釈は、それほど間違っていないと思います。
※荒川修作が亡くなる前は養老天命反転地のサイトにもコンセプトが書かれていたのですが、今はありません。パンフレットを探しましたが、見当たらないので当時の感想をご参考までに。

昔「養老天命反転地」へ行った時の感想を参考に小さく記載します。(引用ではありません)

「遠近感や平衡感覚を狂わせる」という前情報を期待して行ったのだが、まったくそんな事はなかった。バランス感覚を失うというより、日常鈍感になっていた感覚が研ぎすまされてくる、と言った方が正しいのではないだろうか。
たしかに、水平垂直なものは建築物を含めてフィールドには存在しない。しかし、そこには樹木がある。植物は正直なもので、急斜面でも世程の事情(強風が吹き付けられる海岸の磯慣松など)が無い限りは天に向かってまっすぐに伸びる。建造物や地面が歪んでいたとしても、視覚的に水平垂直の感覚が麻痺するという事は無い。
オープン当時の写真と比べれてみると、園内の緑がずいぶん成長している。このフィールド内では、パビリオンの存在感よりも、植物の存在感の方が勝っていると感じられる程だ。10年経って施設が老朽化してきたこともまた、植物の存在感や自然の強さを実感させる要因の一つだろう。老朽化問題は事前に読んでいたが、それは問題点ではないだろう。エントロピーの法則のもと10年という年月を私達に見せてくれる装置になるのだから。
極限で似るものの家や宿命の家の地下は、同じものが置かれながら地上とは別の姿として朽ちていく。パンフレットには『死へ至る「宿命(天命)」を反転することを使命として』と書いてあるが、人工物はまさに死へ至っている。しかし、時にはその胎内に別のものを宿らせる。人工物や固体は死へと向かう一方で、そのお陰で命を得る存在があるのだ。この箱庭は、天命に従い反転すること無く変容していく。

表面的な設定に惑わされ、アニメではイメージの奥深さに気付けなかったところ、角野氏の幽玄な音楽から私なりに作品のテーマに辿りついた、というのがこれまで書いたことのまとめです。
それは、引用した前述の「安宅」「求塚」と同じような経験だと感じられるのです。
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の黛敏郎「BUGAKU」も、忘れていた記憶から呼び起こされた感覚としては近いのですが、自分の知識の中にあったものなので新たな発見とは違います。
まさに、知らないことなのに「わかった!」「そうだ!」と自分でも不思議なほどの実感を伴う理解で、調べてみるとやはり…と感じる出来事でした。
これは言葉で説明できないほど不思議な体験・感覚なのですが、私は今まで能以外では経験をした事がありませんでした。
しかも、翌日(土曜)にもさらに不思議なことが!!!
というか、私自身がほとんど異世界との接点にいるような感覚がずっと続いていたのです。

昔、千尋家族のようにフラフラと樹々の覆い茂った小径に入って行ったら「聖なる場所」だった、という体験をした事を思い出したのです。
確か写真があったはず…と探すと見つかりました(BUしていたHDがメチャクチャ古くて今のPCではファイル認識はできてもコピーも画像を開くこともできず、こういう時の為に残しておいた古いPCを数年ぶりに立ち上げ、それを経由して何とか取り出した)。
民俗学系授業の研修旅行だったので(自分で旅程を決めたわけではないので)記憶も曖昧、地名も忘れていました。
前日に出雲大社に行ったこと、ウミネコの生息地として有名だった事を覚えていたので、二語で検索すると「日御崎(ひのみさき)」がヒット!
朝の散歩で一人で灯台に行き、そのすぐ脇の丘だったはず…とGoogle mapで拡大すると、、、、
うわああ〜〜〜〜!!!!これはヤバイ!!!!!!!!!!

「隠ヶ丘」

「幽世(かくりよ)」と書いていましたが、「幽玄」と共に用いていたので「幽」を使用しただけで、民俗学などでは通常「隠世」を使うのです。より「あの世」に近い印象になりますけど。。。

記憶では、参道にはいくつもの鳥居が並んでいたこと、地面を見ると松ぼっくりや大きな木の実など、そのままでは芽が出なさそうな大きな実(外皮硬いので普通は土で腐ってから発芽する)から直接ニョキニョキ芽や葉が出ているのです。尋常ではない樹木の生命力にあふれていて、自分の人間としての存在が気後れしたほどです。
養老天命反転地も反転に争う樹木の生命力に感嘆しましたが、それ以上の凄まじい勢いでした。
wikipediaでは千尋が油屋に居た期間は現世で3日程度とのことで、不自然なほど車は樹々に覆われていますが、それが少し信じられるような場所です。

隠ヶ丘への参道の鳥居(いくつものあるうちの一つ)
丘自体がご神体なので、最後の鳥居(=結界)の先には建造物は何もない

写真がわずかしかないのは、撮る事自体がとても憚られて…すみません!とと心の中で言いながら慌てて撮ったためです。
ネットで調べてみると、今は階段や参道が整備され、小さいお社や御賽銭箱もあるようです。
(個人の方のブログ「隠ヶ丘」 ※httpの為セキュリティアラートが出ます)

余談なので小さい文字です。(引用ではありません)
民俗学系授業だったので後に先生に伺ったところ、先生は麓の湖で禊(水浴)してから早朝お参りされたとか(古式の正式参拝)。
後の話に少し関係がありますので、前日の出雲大社の事も少々。
出雲大社は大きい神社のため拝殿が2つあり、一般の人は外側の拝殿、総理大臣でも内側の拝殿までしか入れないと言われていたのですが、先生のツテで生徒たちも本殿のある最も内側のお白州で参拝させて頂きました。
その時、先生がオカリナを奉納演奏されたのですが(単なる素人の演奏)、演奏中にだけパラパラと雨が降り終わると止む、という事が起きました。
「出雲大社」は名前のとおりに雨の神様なので、禰宜の方が「神様も喜ばれていますね」と軽くおっしゃる程度、特に不思議なことではないという風情だったので逆に驚いてしまいました。
なんだか住んでいる世界が違うな…と思った記憶が残っています。

「隠ヶ丘」はスサノオノミコトの最期の地と言われていますが(だから「隠」ヶ丘)スサノオノミコトは、実は音楽にも関連のある神様なのです。
上記に書いたように奉納の音楽を喜ばれるというだけではなく、日本で最初に作られた和歌はスサノオノミコトがクシナダヒメへの求婚の歌とされているのです。

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を
(古い万葉仮名の表記は当て字のため上記とは違います)

和歌は今とは違いことば通りに音律を用いた歌でした。というか、文字が無い神話の時代のことですから。
さらにスサノオノミコトは母イザナミが黄泉の国に旅立った後、母を慕いずっと「鳴いていた」神で、漢字の表記は「素戔嗚尊」、音との関わりが深いと思われます。
自身がコントロールできなかった「鳴」を出雲の地で「歌」という表現様式に高めたと言えるかもしれません。(「私の勝手な解釈」と書こうとしたら、無秩序に存在するその土地の人々に国という秩序の概念を用いる事が「国づくり」なので「(無秩序な)人と土地」→「国」/「鳴」→「歌」は相似形、我ながら案外信憑性があるかも?笑)
ですから、素晴らしい角野氏の音楽が「幽世」のスサノオノミコトにまで届いた!というメッセージだと私は受け取りました。
当日のお天気は曇りでしたが、もしかしたらプレミア配信の時だけパラパラ雨が降っていたかも……笑。

6/11(土)には、この素晴らしい動画の反響もあり"Cateen かてぃん" チャンネルの登録者数が100万人を超えました!
20:30からは、当日「Singsジブリ」コンサートが行われた丹波篠山市立田園交響ホールの舞台から、緊急生配信!

角野氏が本当に嬉しそうに演奏される映像を拝見していると、こちらまで幸せになります。
下記が100万人達成時のお祝いTweetです。

#かてぃん100万人 おめでとうございます
既存の価値観にとらわれず・否定せず、それらを乗り越えるように新たな表現に挑戦される姿は、不安で不確かな未来への希望です。 世界中でその音楽が支持される事で、同時代に生きる私たち自身を信じる事ができる気がします。多謝
#角野隼斗 #かてぃん

コロナ禍や戦争などだけでなく、何が起こるかわからない将来には不安しか感じない今、私を含めて多くの方々が角野氏の音楽で救われている事と思います。
これまで成し得なかったジャンルや様式を超えた表現活動が世界中で認められれば、それを支持する人々の自由な感性と多様性を認め合う社会になった、という証にもなるのです。
昔の方が良かったと言う人々もいますが、昔よりずっと良い社会になったと、胸を張って私たち自身を信じられる気がするのです。
社会はより良い方向に向かっている…と、希望を持つ事ができるのです。

ところで、私は時々SNS等の書き込みを失敗してしまい、後で凄く後悔する事があります。
今回もそういう事があり少し落ちこみました。
こういう自己嫌悪に陥る時には、これまでも時々故佐久間正英氏のTweetを見返していました。

改めて読むと、角野氏はまさにこの通りのことをそのまま実行されている事に驚いてしまいます。
とくに「カッコいい」にこだわっているところ!
あれだけ様々な事に挑戦されていらっしゃるのですから、最初は「カッコ悪い」と思えることもきっとあったと思われるのです。
でも、「誤魔化しや妥協をせず」「カッコよく生きる」という事にこだわっていらっしゃるからこその「今」なのでしょう。
いつもはこのTweetを見るだけなのですが、この日はなんとなく数年ぶりに佐久間氏のアカウントをクリックしてみました。
すると…冒頭6つ目の投稿が亀田誠治氏のリプをRTしたものでした。

ああああ!!!!
佐久間氏が個人で主催されていたレーベルはCircular Tone Recordsというのです。
亀田氏が文中、切り拓いた「道」ではなく「轍」を使ったのは、きっとリスペクトのお気持ちがあったからではないかと。
そして、日比谷音楽祭のテーマは音楽の循環です!
しかも、ここでも円と直線という対比イメージが読み取れます(ご本人にその意識がお有りだったかどうかは別)。

改めて思ったのですが、今のように自由に音楽が演奏・コラボできる環境は、まさに先人の方々が「切り拓いた」ものだったのですよね。
昔はミュージシャンに版権がなく、レコード会社を移ったら自作曲でも自由に歌ったり演奏したりできなかったり、ましてや他のレコード会社のアーティストと自由にコラボするなど無理な話。
日比谷音楽祭YAONライブでは、角野氏の自由な表現や活動を皆様が心から歓迎されている空気が配信画面からも感じられ、とても嬉しく幸せな時間でした。
ですが、その環境は昔からずっとあった訳ではありません。
音楽業界を「自由」「多様性」の方向に導びいたという意味で、私は佐久間氏の存在は大きかったと思っていて、角野氏が活躍される現在ときっと遠いところできっと繋がっているのです。
もし佐久間氏がご存命だったら、角野氏の出現をどれほど喜んでくださっただろうか…と改めて思いました。
私は度々角野氏に「待ち人」という言葉を使っていますが、もしかしたら、角野氏のような音楽家の出現を本当に心から待ちわびていたのは、佐久間氏だったのかもしれない…と思ってしまった程です。

亀田氏のいくつか下には、岸田繁のRTもありました。
そして、さらにずっと下の方まで見ていくと、生田絵梨花氏のお名前が。
生田氏は先日penthouseが出演された番組の司会をされていましたが、佐久間氏とはご親戚です。
そして、またまた…ああああ!!!!!と。
亀田氏・岸田氏は投稿は割と上の方だったのですが、なぜかお二方のところでは満足できずに下方へスクロールを続けていた理由、それが生田氏と佐久間氏がコラボされた曲名を見た時にわかりました。

「君の名は希望」

佐久間氏があちらの世界から「そうだよ、希望だよ!」っておっしゃって下さったようで、泣けてきました。
それに気づいた時(勝手に自分が思っただけですが)、心が満たされて静かに佐久間氏のアカウントを閉じました。
「生田絵梨花×佐久間正英-予告編-」は生田氏の佐久間氏へのお気持ちをしたためた手紙が中心になっていますが、本当に感動します。(コラボ音源はDVDの付録だった為、オフィシャルなネット環境では聴けません)

佐久間氏に関しての横筋です。(引用ではありません)
最後に佐久間氏が企画されたライブがありました。
そのタイトル「生きてゆく音楽」は、佐久間氏が亡くなられた後も音楽は生きて行くという意味なのか、この状況のなかでも佐久間氏が生きて行くための音楽という意味だったのか…その答えはわかりません。
もしかしたら、もうライブは無理だという事がわかっているからこそ、メッセージだけでも私たちに伝えて下さったのかもしれません。
私は一時期音楽をほとんど聴かない時があり、佐久間氏が最もプロデューサーとして活躍されていた時期と重なっています。
晩年の3年ほどTwitterのフォロワーだっただけで、偉大なプロデューサーである事は知っていましたが実感は余りありませんでした。
unsuspected monogram(ご自身のロックバンド)や早川義夫氏とのコラボなど、どちらも100人満たない少人数のライブで拝見した印象は、どんなに偉い方であっても一般人であっても関係なく常にフラットに優しい人柄というものでした。

毎日「おやすみ音楽」を23時頃に更新され、1001夜記念の配信(全てお一人でされた→レポート)も本当に素晴らしかったです。
Twitterの投稿はウィットに富んだ軽い内容から、音楽業界の将来(今)に関する内容にまで多岐に及びました。
スタジオミュージシャンが消え、職業としての「(無名の)ミュージシャン」では生活できない社会になった時期とも重なり、多くの方が音楽業界の将来が暗く感じられるなかでも、それが文化としての音楽の衰退には至らない事、かえって自由な新しい音楽が生まれる可能性なども語られていました。
若い方々には「音楽以外の仕事を絶対にすること!」「安易に仕事をやめないこと」「それが音楽に良い結果を与える」という様なこともおっしゃっていたのを思い出し、penthouseの皆様の活動こそはまさに!と思いました。

「おやすみ音楽」は通称で、正式名称は「Goodnight_to_followers」
Twitterのアーカイブは以下にありますが1000夜更新されていた時の作品は残念ながらもう聴けません。
静かな時間が流れる氏のコメントも素敵です。
https://twitter.com/goodnight_to_f

どうやら、6/12まで私自身が幽世の接点にいるような・異界とのチャンネルが合ってしまっている状況でした。
先に書いた出雲大社の禰宜の方のように、不思議なことが当然だと信じられてしまう状態と言って良いでしょうか。。。
月曜から通常に仕事をすることで、ようやく日常にもどれた気がします。

<特異な幽玄性>
すでに1万字以上を費やしながら、「Spirited Away - 千と千尋の神隠し (Piano)」についてはまだ具体的に何も書いてませんでした。
「どれだけこの作品から大きな影響を受けたのか」という具体例と、これから書く「特異なイメージ構造」の具体例を先に記載していたためです。
(ここからはいつものトーンに戻ります 笑)

能で「幽玄」が用いられるのは、内容に関係性が深いという事もあるのですが、もう一つ別の可能性が考えられます。
それが、「Spirited Away〜」の質感を表現するために「幽玄」を用いた理由でもあり、前項で中間領域概念にこだわっていた理由でもあり、結果として特異な「幽玄」が成立した理由だと思っていることです。

日本文化においては、中間領域の概念があらゆる所に用いられています。
連歌では上の句と下の句を続けていきますが、繋げる際に前句の下の句を用いつつ自分が新たにその歌に要素を付け加えるというもので、前々句の意味からは外れて構わない、ズラしに面白みを見出すような所があります。AB→BC→CD……のように一部の要素が重なりながら続くのです。
その概念を「付合」といいます。
この「付合=重なり」も中間領域だと考えられるので、空間概念では入れ子ですが、直線概念においては部分的重なりとして認識します。
部分的な重なりがあるということは、作品として見えていない部分(=幽)の存在がその表現の前提になっていて、前作品の痕跡のようなイメージを見出すことができるのです。
私は「付合=中間領域としての重なり」がなければ、「幽玄」の奥深さには及ばないと思っています。
連歌自体が「付合文芸」と呼ばれますが、絵画でも過去作例に独自性をもたせて発展させる琳派など「付合的表現」と位置付けられていますし、茶道の銘や趣向もイメージの重なりとズラしを面白がるという意味で同類と言えるでしょう。
能も平家物語や源氏物語を下敷にしつつ原作通りの内容が語られることはほとんどありません。
原作のエピソードは前提、そこに独自視点による心理描写を行う芸能が能であり、現代における二次創作もまた似た表現構造と言えるでしょう。
当然ながら編曲作品は「付合的表現」に位置される事も、ご理解いただけるかと思います。

ようやく「Spirited Away - 千と千尋の神隠し (Piano)」について具体的に考える所にきました。
見出しに「特異」と書いているのですが、本来の「編曲」作品とは作られ方が違っています。
従来の編曲は、同じ音楽という媒体の中での付合的表現です(この作品が動画である以上は映像要素が無い=純粋な音楽作品であるとは言いませんが、イメージ変化を起こすほど大きな影響は無いと考えます)。
問題となるのは、角野氏が付合の対象として設定したのは「千と千尋の神隠し」のサウンドトラック(=音楽のみ)ではなく、その音楽を含むアニメ作品としての「千と千尋の神隠し」だったという事なのです。
だからこそ、能からその背景にある古のイメージを受け取ることと同様の事が起きたのです。
ここには表現媒体の変化・転換という作用が生じており、先に記載した通常の付合とは違うイメージの変化が起きています。

体変化における付合のイメージモデル(拡大可)

表現媒体が変わるということは、どれほどオリジナルに忠実にあろうとしても、必然的に独自性が加わるという事です。
以前も表現性における「作意」と「物理的制約による必然」を問題にした事がありますが、作意なく独自性が発揮される変化・転換が媒体変化によってなされるということです。しかも、それが積み重ねられていくのが古典文化です。
油屋と湯屋・千と尋・湯婆婆と銭婆などのように、名前と意味とを逆に設定しなくても、そのイメージは自然と奥深く複雑なものになります。
角野氏が意図されていたのかわかりませんが、この「Spirited Away〜」を単なるサインドトラックの編曲作品として位置付けなかったからこそ、アニメ作品を観ていてもわからなかったイメージが「Spirited Away〜」によって感じられたと言えるのです。
これが編曲上の「特異な幽玄性」です。

もう一つは、演奏表現における「特異な幽玄性」です。
ご自身による編曲なので純粋な再現芸術とは違うのですが、その演奏表現の志向性においては再現芸術と同類のものが感じられるという事です。
しかも、5/20配信の実験的な演奏から成立した作品表現として。

"Cateen かてぃん" チャンネル 有料会員コンテンツ「ラヴェルと複調 / Ravel and "Polytonality"」で演奏された「亡き王女のためのパヴァーヌ」

音が篭った質感を表しているのではなく、大切なものとして扱うような「尊さ」によって演奏者ですら音楽に直接触れられないような「フラジャイルな表現性」が滲み出ているのです。
(中略)
以前の「素」的な表現が演奏家として「素晴らしい作品(音楽)への愛情・信頼」だとしたら、今回は「(同じ)作曲者としての作品(音楽)への愛情・敬意」だと感じられるのです。前者の表現は能で私が感じる「直観的表現」ですが、後者は今までに感じた事がありません。
(中略)
作家視点だからこそ「素=より直観的表現になっている」というのは、「作家としての解釈をやめたのではなく作家的な解釈を俯瞰する直観的表現者としての演奏家がいる」という、メタ構造がさらに成立するという意味なのです。
(中略)
アップライトを使った『ラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」による即興』(朝日新聞海外版のみで一般公開)ではタイトルに「即興」が入っているなど、そこに作家的意図を表に出されてる事は明白です。
一方、ラボでの演奏ではより原曲の素晴らしさを伝える演奏が同様のアプローチで行われているのです。
ショパンコンクール等の一次的な直観的表現との違いを私が説明することはできないのですが、明らかに作家性が存在するという意味では朝日新聞版の「亡き女王〜」と同列にもかかわらず、その作家的視点を古典の完全な(より作品をそのまま提示する意図としての)再現演奏に用いているという事になるのです。
だから二重構造になっている…と。
そもそも「直観的表現」自体が受容的感性のなかでの能動的行為として驚異的なのですから、一体全体何がどうなって思考と感性と行為が結びついているのか。。。
「再現芸術における現代だからこその表現」というまた次の一歩を踏み出されたような気がします。

クラシック音楽鑑賞の初心者向方法論と芸術鑑賞の指標化〜東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第352回定期演奏会より〜

この時に演奏された「亡き王女のためのパヴァーヌ」では、再現芸術であるにも関わらず作家的視点になっている=二重構造と書きましたが「Spirited Away - 千と千尋の神隠し (Piano)」では実際に編曲が行なわれているので、当然作家的視点が強いはずです。
しかし、編曲作品の演奏において再現芸術の表現性が感じられるという…ラボ内の演奏とは逆の意味で二重構造を持っているようなのです。
どうしてそのような表現に至ることができるのかはわかりませんが、唯一の鍵として考えられるのが、「オリジナル作品へのリスペクト」ではないかと私は思っています。
しかも、久石譲氏の音楽そのものへのリスペクトと、アニメ作品としてのリスペクトが二重に働いているので、そのパワーは倍増し、表現の豊かさは倍に広がります。
結理由を感情的問題にしてしまうと客観的考察ではないように思われるかもしれませんが、「クラシック音楽鑑賞〜」に書いたように、直観的鑑賞に情動的同調(=好きという感情)は必須です。
であるならば、直観的表現においても必須であるということで、さらに直観的な編曲と名付けることができるのであれば(編曲行為としては同類のためその違いを名称として事は不可能に近いですが)同じように好きという感情が必須になるはずなのです。
前述の媒体変化によるイメージ転換とともに、恣意的解釈が少ない表現において角野氏のオリジナリティが最も発揮された理由は、オリジナル作品に対峙する際の「敬意と愛情」にあると言えるのではないでしょうか。

前ラボでの「亡き王女のためのパヴァーヌ」の演奏に対して、私は上記の引用部分で「二重構造」と書きましたが、作曲・編曲/演奏の二重構造として認識すると…その意味は間違いです。
作曲・編曲/演奏を俯瞰で意識するメタ認知であり、逆に「作曲・編曲」と「演奏」という表現性においてはボーダーレスになった、というのが正しかったかもしれません。
ご本人の編曲作品にもかかわらず「再現芸術のような表現性」と書くと、即興性やオリジナリティが抑えられたかのように解釈されてしまうかもしれませんが、そちらの意味ではありません。
編曲を含めた自作を演奏する場合、悪い例としては自己の所有物としての「我」のようなものが表現から感じられる場合があるのですが、そういう事が一切感じられないのです。
他者作品へのリスペクトとある種のメタ認知による間接的性のようなものが、演奏表現において極めてフラジャイルな「作家視点だからこその素=より直観的表現」と書いた質感を成立させているとでも言えば良いでしょうか。。。
私はガーシュウィンの演奏よりもレヴェントの演奏の方が好きだと書いた事がありますが、レヴェントのガーシュウィンへの想いだけでなく、演奏者が変わることで作品の再解釈が必然的に成立することでイメージ転換による増幅が起きているからかもしれません。
これは「表現媒体の変化による付合」と同様の効果といえますが、そのような表現性を一人のなかで成立させてしまっているような感があるのが、本当に驚きなのです。
「離見の見」は演奏時のことだけですが、編曲時にも「離見の見」的な意識が働いているとでも言えば良いでしょうか。。。
しかも、先も書いたように「離見」の視点は一つながら、演奏者の視点と編曲者の視点(演奏中に即興表現を行う事も含めて)がボーダーレスに感じられる所のです。もう…驚異的。

これが見出しに書いた「特異な幽玄」で、まさに「物事の趣が奥深くはかりしれない」。。。
しかも、私はそれを説明するために「幽玄」を用いた訳ではなく、オリジナルアニメの奥深くにあっただろう「幽世」のイメージをピアノの演奏をきっかけとしてオカルティックなレベルで受容してしまったのです。
私にとっては角野氏のこの作品自体が「千と千尋の神隠し」で描かれていたような「幽世・現世」の「特異な接点」と言えるかもしれません。
「概念として書けるけれども実際の表現として成立させる事とは別」という事はこれまでも度々書いていますが、またしてもヤラレました。。。
YouTubeやSNSという媒体自体が現実と非現実の接点と言えなくもありませんが。。。

実はここまで書いてきたものの、私はプレミア公開時に一度この作品を拝見しただけでした。
以前、「素晴らしい鑑賞は一生の宝物のような奇跡的結晶」と書いた事があったのですが、この素晴らしい鑑賞体験を観能のように結晶化できないものか考えた末のことです。
冒頭に書いたように「発見」という行為は一度しか成立しない以上、二度目以降の鑑賞体験は同じものとはなりません。
二度目以降の鑑賞で最初の体験を上書きしないためには、一度目の鑑賞体験を自分の中で固定した後に再視聴する必要があると思ったのです。
そして、鑑賞体験が結晶化した後に再視聴すれば、二度目以降の鑑賞は最初の体験を呼び起こすスイッチにも成り得るのではないか、と。
その体験を固定するために鑑賞時の感覚を何度も思い起こすような事をしていたため、「幽世」とのチャンネルが繋がりっぱなしになってしまったのかもしれません。笑

という事で…たった今、2回目の視聴を行いました。
結論から言うと…1回目と同じようにドキドキ&ギューっとなった後にボーッとしました。笑
実験は成功っぽいのですが、その後の影響があまりにも大きいので、どれほど好きでもそう簡単には視聴できなさそうです。
ファンとして良い事なのか、悪い事なのか。。。泣くしかありません。

そして、あああああーーーーーー!!!!!!!
またもや気づいてしまいました。
角野隼人氏こそが、相対的に移りゆく中間領域概念を具現化した存在だという事を!!!!
私にとって「中間領域」について考える事はライフワークみたいなものでしたが、まさかまさかこんな答えに辿り着くとは考えてもいませんでした。
そっか…だから私にとって角野氏は「待ち人」だったのですね。
佐久間氏のように音楽に対して思い入れがあった訳ではないので、なぜずっと「待って」いたのか自分でもわからなかったのです。
再視聴時にも色々とチャンネルが繋がってしまった感があるので、これはやはり特別な時しか視聴できないなあぁ。。。。。泣泣泣

<追記>
冗談ではなく、また「幽世」とつながったような感じになってしまったので、「現世」に戻るまでを書かせて頂くことにしました。
自分のために書いているため、角野氏とは余り関係ありません。

ntoe公開翌日、義理の姉妹一周忌の日取りを決めたと連絡が入り(「高木正勝氏「Rama」〜」に記載)、「幽世」との接点になってるならこちらもご縁があっても良いのにな…と、なんとなく思っている所がありました。ただ漠然と思っていただけです。
16日発売の高木正勝氏のソロコンサートチケットの購入を忘れていた事に気づき、17日の朝に購入したのですが、同日中に菩提寺の都合で日程変更の連絡が来ました。
コンサートの前日の土曜に法要・日曜にお墓参りというスケジュールになったのです。
法要の日に重なったらコンサートは行けませんし(17時開演)、法要とお墓参りが土曜であれば日付は違います。
義理の姉妹を偲ぶ日と高木氏のコンサートが重なる唯一の条件に決まったので、もしかしたら「一緒に聴く!」というメッセージかもしれない…と、また涙腺が。。。
こういう不思議な事は本当に嬉しいですし、今後もずっと高木氏の音楽を楽しむ時は彼女を思い出すことにもなり、それはとても幸せな事だと思っています。

けれど、「幽世」に繋がったようなボーッとした感覚と、ちょっとした事で感情が大きく揺れ動く状態は余りにも負担が大きくて。。。
これはどうしたらよいか…と困っていたところに、小曽根真氏のライブ「MAKOTO OZONE featuring NO NAME HORSES "THE BEST"」の配信を拝見することができ、ようやく生還できました!!!
というか、そういう実感が湧きました。
ヤッタ〜〜〜!!!
冒頭から、小曽根氏ご自身が「ラストにやる曲」とおっしゃるほどにアクセル全開!!メッチャかっこいい!!
エリック・ミヤシロさんのトランペットも本当に素敵。(今回聴いてもやはり、ガーシュウィン in F のソロを演奏してほしいと改めて思いました!!)
もちろん、 NO NAME HORSESの他の皆様もそれぞれソロがあって、その一体感・信頼感が溢れる音楽から「生きてる!」と感じられ、ようやく戻ってきた!って気がしました。笑

ここで終わったら良いのですけれど、どうも本来の自分に戻ると余計な事を色々と考えてしまうみたいで…苦笑
もう……小曽根氏のピアノが変化されていてビックリしたのです。
ラボ動画「ラヴェルと複調 〜」に最後に演奏された「亡き王女のためのパヴァーヌ」に驚愕したことは引用で前述していますが、小曽根氏も「素=より直観的表現」になられているように感じられ、本当に驚いてしまったのです。
このラボの動画が公開されたのは5/20で、角野氏がこの表現性で公に演奏された事はありません。
なぜ?小曽根氏が??と思ったのですが…
あああ、、、、、小曽根氏もラボの会員ででいらっしゃいました。笑
しかも、復調の話題で小曽根氏のお名前を出されていたので、人づてにお耳に入ってこのラボをご覧になった可能性が。。。
しかも、終演後にファンの皆様が1stの角野氏に関するTweeetを様々RTしてくださっていて、その中に「僕が尊敬する若きピアニストが来てくれてます」と小曽根氏が紹介されたそうなのです。
今までも「親友」とおっしゃってくださった事はありますが「尊敬」という言葉を使われたことはありませんでしたから、あの角野氏のような「素」的な表現が小曽根氏から感じられたと思ったのは、たぶん勘違いではないだろう…と。
ただ、それは小曽根氏の表現としてのもので、角野氏の真似では全然ありません。しかも曲全体ではなく部分の効果的表現として用いられていました。

私は下記のTweetをしました。

小曽根真氏とNo Name Horsesのライブ、配信で拝見しましたが本当に素晴らしかった!ソロのPandoraやhomeの所々、角野氏に近い表現(真似ではなく)に感じられる所も。1stでは「僕が尊敬する」とまでおっしゃったとか。 まるでグスタフ・クリムトとエゴン・シーレの様。
http://www.diegoro.net/contents/04.html

上記ではクリムトとシーレの師弟関係が書かれていますが、美術史的にはクリムトがシーレの影響を受たと認識されているほどです。
けれど、それがクリムトの芸術性を損なうものではないですし、大成後に若いアーティストをリスペクトしそれを自身の表現に活かせる事の方が人としてすごい!
偉大なクリムトと同じ小曽根氏の「人間力」のようなものが、私を現実世界に引き戻してくれた要因の一つでもあった気がします。
改めてアーカイヴを聴き直すと、3曲目でも特に弱音のところからあのなんとも言えない「素」の質感が感じられます
ですが…Pandoraは、本当に本当に素晴らしくて。。。
OZONE Till Dawnのときも拝聴したのですが、全く別の曲としか感じられないほどでした。
そして、2ndのアンコールはOZONE Till Dawnと同じく塩谷悟氏。お二方の息の合った演奏は本当に楽しかったです!
OZONE Till Dawnは今後本格的に企画として始動するとの事ですから、ますます楽しみです。

Twitterでは、配信が始まる前から1stに角野氏がアンコールにシット・インされた事が話題になっていましたが、個人的には配信のある2ndにご出演がなくて本当に良かったと思っています。
それでこそ私の推し「角野隼斗だ!」と、心から誇らしく感じるほど。
もし配信時に出演されていたら、ステージ中やその後の話題が角野氏に行ってしまいますし、私自身も小曽根氏やNO NAME HORSESの皆様の演奏をこれほど堪能できなかった可能性があります。
1stに出演され、ストーリーズですら一切語られない人柄を心から尊敬します。ファンになって良かった!と、改めて思った日でもありました。
※6/21 配信アーカイヴ終了後に1stのシット・イン動画が公開されました。
こういう所、本当に尊敬&大好きです!ありがとうございました。

そして、ようやく『映秀。 一夜限りのプレミアライブ「赤裸々」』も拝見。
冒頭、弾き語りで始まったギターが、なんと、大・大・大好きなHummingbird!(このギターしか名前はしらない 苦笑)
ハチドリの羽音をイメージするような少しビリビリと響く音と、可愛らしいさえずりのような高音、ピックガードの美しい模様も、このギターの存在そのもの全てがHummingbirdという名に象徴されています。私にとっては他のギターとは全然違うのです。
このライブ中に使用されていたギター全て(たぶん2本)がHummingbirdなんて、映秀。氏は相当お好きなのですね。あの独特の音が生きるように演奏をされていて…感涙。
Jazz AUDITORIAのとき、どうして映秀。氏の歌に違和感があったのか、実は角野氏とのデュオのときに、もしかしてドラム&ベースが合わなかったかも?っと思っていたら.最後の編成までありませんでした。どうしてそう思ったの不明ですが、、、
ああああ……でも、Hummingbirdと映秀。氏の歌は本当に合いますね。Hummingbirdが花に寄り添っている感じがします。
ちろん、角野氏とのピアノの繊細な響きとととも性抜群です!
象眠社との演奏でもHummingbirdが響いていてアンサンブルが素晴らしかった。エレキベースが入ったら、こうはいかないのだろうな…と。
角野氏の演奏は安定のすばらしさでしたが、私が書くよりずっと素晴らしく他の方がご感想を書いてくださっているので。
あっ、でも一つだけ。
あの「素」的な表現が部分的に凄く効果的に用いられていて、成程…と。
小曽根氏の用い方とも違っていて、なんだかお二方のご関係そのもののを象徴しているような。。。

(追記は現実に戻る為のリハビリです。すみません。)

次に「Spirited Away - 千と千尋の神隠し (Piano)」を視聴するのは、法事直前の予定です。それまでお預けですが、拝見できる日がくるのを楽しみに過ごしたいとおもいます。


※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略