【RP】神奈川フィルフューチャーコンサート川崎公演

(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)

3/21に角野隼斗氏がソリストとして参加された「神奈川フィルフューチャーコンサート川崎公演」の感想です。
ここ最近は考察内容をメインタイトルにしたnoteでしたが、今回は久々にコンサートタイトルのみ!笑
とはいえ、私の場合は色々脱線しつつの内容になるのですけど。。。


<プログラムについて>

演目を調べていたら、プログラム全てから平和への願いが溢れてきて…もう、聴く前から泣きそうに。その音楽を愛する事が平和への第一歩だと信じて、明日はコンサートを心から楽しみ&祈りたいと思ます。企画して下さった方に感謝
#神奈川フィルハーモニー管弦楽団
#田中祐子
#石田泰尚
#角野隼斗

サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用 3/20投稿

上記は前日のTweetで、今回の演奏曲は4作品です。
・ボロディン:歌劇「イーゴリ公」よりダッタン人の踊り
・ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」(1919年版)
・チャイコフスキー:アンダンテ・カンタービレ
・カプースチン:ヴァイオリンとピアノと弦楽のための協奏曲Op.105

クラシック音楽の素養が全くないので事前に音源と背景に関して調べるのですが、「ダッタン人の踊り」の元になった歌劇「イーゴリ公」のストーリーを追ってみたら…
イーゴリ公はポロヴェツ人に侵攻されると思い込んで遠征に出るものの捕まってしまい、捕虜とはいえ丁重に扱われる。その一方で、留守にした領地では2番目の妻の兄に乗っ取られそうになる。さらに、敵陣からの脱走を敵側の人から持ちかけられて…みたいなお話。
言うなれば、正義とは何か、相対的にそれぞれの立場を考える問いかけの様に感じられたのです。
しかもポロヴェツを調べてみたら、キプチャク=ウクライナを含む大草原地帯とのことでした。
そういうえばチャイコフスキーは先祖がウクライナ出身で、チャイコフスキーにちなんだ家(別荘?)が昨年爆破されてしまった…というニュースを思い出しました。
しかも、「アンダンテ・カンタービレ」を調べたらウクライナ民謡が元になていて「戦争と平和」のトルストイがそれを聴いて涙した逸話まで。
さらに、ストラヴィンスキー「火の鳥」「王女たちのロンド」の旋律はウクライナ民謡から引用とのこと。
でも、初演したのはパリで、ロシアバレエ団(バレエ・リュス)は国境を超えてロシアの芸術・文化をヨーロッパに広めました。
カプースチンもウクライナ出身でロシアで活躍、ジャズの要素を取り入れた素晴らしい音楽を作曲・演奏した事は改めて言う必要もありません。
パッと見でロシアの作曲家の曲が揃っていることは分かってはいたものの、まさかここまでロシア&ウクライナの関わりで選曲されているとは思いませんでした。

当日配られたパンフレットの解説も、深刻にならないギリギリの所でありながら、気がつく人にはわかる様な配慮がされています。

神奈川フィルフューチャーコンサート川崎公演 パンフレットより

「〜FUJI ROCK〜」でも書いたUA氏のステージもそうですし、「解釈とイノセント〜」の追記に書いた「東急ジルベスターコンサート2022-2023」で鈴木優人マエストロが「ドボルザーク:新世界」「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 第1楽章」を選曲されたのも同様のイメージ構造だと考えています。
世界の深刻な問題への願い・祈りが音楽の中で二重構造になっていながらも、そのコンセプトを表立ってに語らず、もちろん、その深刻さが音楽の質感に変な(余計な)影響を与える事はありません。
願いや祈りは表現として音楽に昇華されていて、音楽そのもののの素晴らしさを伝えることこそが、願いや祈りなのです。
(曲調の明るさや暗さとは別問題!)

私にとっては、その二重構造の表現手法自体が「芸術表現」なので、このプログラム自体も音楽とはまた別な意味で鑑賞させて頂きました。
暗喩により曲同士をつなげることで、イメージの森の中を体感していくような感覚になれるのです。
それは音楽鑑賞に、より深さと複雑さを与えてくれるとも言えますし、音楽だけではない+αの鑑賞を可能にしてくれているとも言え、古典を引用しながら新たなイメージを創造する能が好きな事と同じ理由です。
さらに、今回はクラシック音楽初心者にとっても純粋に楽しめるクラシック音楽として成立しているのです。
私は現代アートの難解さも受け入れますが、それは難解さを超えた先にあるイメージを自分が欲している為で、そうでない人にとっては「わからない」とそのまま距離を置くような高いハードルです。
そのハードルを無理やり越える必要はなく、視覚や聴覚で感じる心地よさだけで楽しむのでも十分、芸術表現に対してそれぞれのスタンスで楽しまれれば良いと思っています。
けれど、より深いイメージの森の存在を知れば多くの方はそこに行きたくなると思うのですよね。笑
誰もが楽しめる!とは言っても、マーケティング戦略としてとして最大公約数的な方法論が用いられているのではありません。
見晴らしの良い広場では誰もが参加できる楽しい音楽が奏でられながらも、その脇にはイメージの深い森があるのです。
その森の存在は誰からも見えていながらも、広場に圧迫感を与えるするほど近くはない、というのがとてもとても重要なのです。
今回の解説の絶妙な加減が、まさにそれ!
このプログラムは、世界情勢に対する芸術のアグレッシブなアプローチとしての側面を持ちながら、音楽的には誰もが楽しめる本当に素晴らしいものでした。


<コンサートの感想>

●ボロディン:歌劇「イーゴリ公」よりダッタン人の踊り
クラシックを聴かない私でも、聴いた事がある曲がいくつもありました!
しかも、本当に最初の1曲目からノリノリです。
「娘達の踊り」は、ちょっとアラビアチック。
後ろに座られている方には本当に申し訳ないのですが、もう…どうしたって自然に揺れてしまう(ちょっとしか動かないように頑張りました)。。。
やはり「踊り」ですよ、本当に。
特に迫力に驚いたのは、3曲目「男達の踊り」では、ティンパニーがダンダンと上から片手で叩いているところ。
ティンパニーって大太鼓とは違って音階のある太鼓を両手で打つというイメージがあったのですが、覆りました。笑

●ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」(1919年版)
昨年8月の「遍在する音楽会」東京フィルハーモニック管弦楽団で聴いているのですが、全然違いました!
メディアアートと一緒に鑑賞したという事を抜きにしても、今回の演奏は「バレエ音楽=踊りのための音楽」になっていたのです。
田中マエストラが作り出すノリとオケの広がりが半端ない!
もう…こちらでも体の揺れを抑えるのが大変でした。
ちなみに「踊り」の日本語の概念については<おまけ>で後述していますが、この日はすべて「踊り」の特徴が活かされた音楽だった事を実感しました。

●チャイコフスキー:アンダンテ・カンタービレ
間に休憩を挟み、管楽器や打楽器を伴わない以弦楽器のみの編成になりました。
予習として聴いていた時からその美しさに感嘆していましたが、生演奏で改めてその素晴らしさを感じました。
またもやノリのことを書いてしまうのですが、ゆったりしたテンポでも田中マエストラの指揮では美しいノリが感じられるのです(事前に予習で音源を聴いていた感覚と全く違う)。
美しいメロディによる情景とともに、そのたおやかなノリが人生の歩みとか時の流れのようなものを感じさせてくれたのです。
そして、最後のフレーズが「アーメン」という祈りに聴こえてしまったのです。
調べてみると、チャイコフスキーはロシア正教会の影響を受けた曲をいくつか制作していますが、音楽的な影響云々というレベルではないですし、予習時には全くそんな風に聴こえてこなかったので自分でも驚きました。
このプログラムを通して得た私の中の「祈り」が、そのように感じさせたのでのかもしれません。

●カプースチン:ヴァイオリンとピアノと弦楽のための協奏曲
この演奏のご感想をTwitterやnoteで拝読させていただきましたが、ご意見がわかれていました。
というか、オケ側の力不足的で演奏全体としての完成度がいまひとつ的な感じ、それをファンの皆様が遠慮しながら投稿されている印象でした。

Twitterでは、オケの演奏にグルーヴがなかったと書かれていた方が何人かいらっしゃったのですが、たぶんスウィング感のことを指していらっしゃると思われるのです(ノリが継続した結果として得られるグルーヴ=高揚感は、演者や曲調がクルクル変わるようなこの曲ではそもそも発生しづらい)。
予習で聴いていたフランク・デュプレー氏の録音、特に第一楽章でのオケのスウィング感は秀逸(クラシックとしてやり過ぎにならないバランスまで含め)だったので、これと聴き比べてしまうと「あと一歩感」は確かにあるのです。
が、<おまけ>に書いているように、そもそも田中祐子マエストラの指揮ではスウィング感は体現しづらいはずですし、他のカプースチン作品のことを考えるとビート感があればオケ側にスウィング感が必須だとも思ってはいませんでした(デュプレー氏の音楽解釈がもともとカプースチンよりジャズに寄っていますし)。

私が感じた「あと一歩感」の一番の要因は、オケ側のボリューム不足に対し角野氏がピアノのボリュームを下げてしまったことにあると考えています。
Twitterでは同じ印象を持たれた方には出会わなかったのですが(検索不足の可能性はあります)noteではほぼ同じ印象を持った方のご感想を拝見したので、やはり!と。
第1楽章はソリスト以上にオケの音楽性が重要に感じられるのですが、ボリュームも不足気味でスウィング感もありませんでした。
第2楽章は音楽自体もよりクラシック調ですし、何よりも石田泰尚氏のソロヴァイオリンの聴きどころが満載!
ヴァイオリンソロとピアノソロの会話の様な掛け合いもとても美しく感じられました。
第3楽章は、もう皆様が書かれている様に石田組長と角野氏とのノリノリの楽しいやりとりが続き、中盤のラグタイム直前に盛り上がるところはビート感マシマシ!笑
角野氏のピアノのボリュームもいつもと同じレベルにまで上がっていて、何も言うことはない位に本当に楽しかった〜!

さて、話題が戻りますが、もし角野氏がご自身の表現を抑えなかったらどうだったのか…とも考えたのです。
曲としてのスウィング感は得られるかもしれませんが、ピアノが突出する可能性があり、やはり音楽としてはちょっと違うと思うのです。
こういう時、どうしても「自己の音楽性を貫くか」「(周りに合わせて)自己の音楽性を犠牲にするのか」という二元論になりがちです。
また、オーケストラにグルーヴが無く角野氏の表現が曲全体として活かされなかった場合、過去も併せて「角野氏が弾き振りをされた方が良いのでは…」というご意見もチラホラ見かけますが、それもちょっと違うと思うのです。

角野氏の表現性は、キメラ的にどんどん自身の表現性を周りに拡張していきます。
その音楽的質感は指揮者として全体から統率をとらなくても、内側から侵食するかの様にピアノから周りの楽器演奏者に伝わり、音楽全体が変化していきます(だからと言って弾き振りを否定しているのではなくて、どちらでも良いとしそういう次元を超えた表現であるという意味)。
その結果として、全体が調和するのです。
調布国際音楽祭「ラプソディ・イン・ブルー」なんて、ノリの意味をよくわかっていない中学生の皆さんが最後には見事に変化していましたし、変化の現場は見ていませんが、NOSPRとオルソップマエストラの演奏でも、ポーランドでのリハから明らかに角野氏の表現性に皆様が集まってこられたのを感じました。
そういう二元論や既存のヒエラルキーによる束縛の及ばないところで感性や質感が広がっていくような作用が角野氏の表現性にはある、それが中道的表現と私が言っているものです。
ですから、全体の調和をとるためにピアノのボリュームを落とされたことには、実は違和感も覚えているのです。

考えられる理由としては、前日のリハーサルもソリスト+指揮者で行われた様ですし、公演自体が昼ということもあって、オーケストラ全体と合わせる時間が少なかったのかな…と。
コンサートマスターの方(若い女性)、クラシックコンサートの鑑賞回数が少ない私からみても不慣れな感じがわかるほどで、最初のチューニングのタイミングを隣のヴァイオリンの方に訊かれたり、挨拶を田中マエストラに促されたり、2部のチューニングもチェロの方に促されたり。。。
オケと合わせる時間が少なかったとしても、もしコンサートマスターがベテランの方だったら角野氏は単純にボリュームを下げるような事はされなかったかも…と。。。
勝手な想像ですが、信頼関係を築く時間がないうえに角野氏がコンサートマスター(=オーケストラ全体)を信頼し切れていなかった…という事の様に感じられ、私にとってはこれが一番残念なことでした。
あの中学生達のようにスウィング感を共有することができる!と、信じて演奏して欲しかった。
それは、神奈川フィルの皆様を信じる事と同時に、角野氏ご自身がご自身の力を信じることに他ならないからです。

とはいえ、、、これはただの理想論に他なりません。
実際に合わせる時間が少なければプロの演奏としてはリスクが高過ぎますから、きっと最善策なのでしょう。
もし角野氏がご自身の表現性をゴリ押しすような方だったら、そもそも私はファンになっていなかったですし(中道的表現ではないから)、コンサート全体があんなに楽しく感じられることもなかったと思うので、全体が楽しめるコンサートだったことが何よりも一番重要!
近くにいらっしゃった神奈川フィルや石田組長ファンの方も、皆様とっても楽しそうでしたから。
ただ、ソロツアーの様な自己の音楽性を追求する表現を期待されていたファンの方がいらっしゃったとしても、それはそれで当然とも言えます。
私にとっての角野氏は音楽家を超えた芸術家としての存在なので、音楽表現に集中されたファンの方々に比べると大きな問題でははなかった、というだけです。
もちろん、個人的にはカプースチンへの思い入れは大きかったのですが、たぶん「ヴァイオリンとピアノと弦楽のための協奏曲」を聴く機会はまたあるのだろうな…と、ものすごーく楽観的に思っているのです。特に理由はないですけど。笑
あとは…アンコールだけで「角野隼斗ファンとしては十分に元が取れた」と感じられたというのも大きいですね。笑

●アンコール「ガーシュウィン(ハイフェッツ編):3つの前奏曲より第1曲」

当日、下記のTweetをしました。

クラシックの曲は全く知りませんが、ガーシュウィン「3つの前奏曲 1」は聴こえてきた時、うわ〜〜ってって鳥肌が立ちました。この曲はピアノソロだと思ってましたが、編曲版があるのですね。本当に素敵。いつかお二方の演奏で3曲とも聴きたいです(合わせて5分だけど)
#石田泰尚
#角野隼斗

ガーシュウィン「3つの前奏曲」を今日初めて聴かれた方、 Oscar Levantの演奏をぜひ!他の音源と聴き比べると曲が違う?と思われる位かと。モノラルですがにめっちゃカッコいいのです
(角野氏は断然レヴァント寄り!)
#角野隼斗
Spotify
https://t.co/r8EqXgapif

サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用 3/21

何度も書いていますが、私が角野氏に出会う前にはクラシック寄りのピアノ演奏はレヴァントのガーシュウィンとカプースチン本人の演奏しか受付なかったので、「3つの前奏曲」を聴いた時は本当に「うわ〜〜〜!!!」となりました。
角野氏が初めて演奏されたのかと思ったのですが、昨年のツアーでも演奏されていたと他のファンの方々がnoteに書かれていたので調べてみたところ、私は東京の配信しか拝聴していないので、お初だったのです。
(2022年1月からのファンなので、その時にはツアーチケットはもうソールドアウト)
Spotifyも昨年から使い始めたこともあり、改めて他の方の演奏を比べたところ、上記に書いた様に本当に同じ曲とは思えない程。。。
レヴァントの演奏はわずか1分半でもテンポが自由にくるくる変わり右手と左手のテンポもズレているのですが、正直他の方の演奏ではこの曲自体が退屈に思えるほどに単調です(ノリの有無以前に)。
レヴァントはガーシュウィンの演奏も聴いているはずだと考えると、テンポ感が大きく歪んでいる・ズレているジャズ特有の表現にもともとの曲の面白みがあったと思われるのです。
今は細かい音も全て楽譜にするのに対して、当時は採譜の概念が違っていたのかも…などと、思ったりしました。
ただし、ハイフェッツの編曲のヴァイオリン演奏(Spotifyリンク)だけが「そうそう!コンサートで聴た曲だし、レヴァントにも近い質感」と感じられて違和感が少なかったのです。
気になってハイフェッツを調べてみたところ、長生きはされていますがガーシュウィンよりほんの少し後の年代の方、しかもローティーンからプロとして活躍しているヴァイオリンの天才!
想像するに…ガーシュウィンのジャジーなオリジナル演奏(もしくはレヴェントの演奏)を実際に聴き・熟知した上で、その音楽をより繊細に編曲した(楽譜にした)のかな…と。
バロック時代にはもっと音楽が自由だったと語られていましたが、どこまで楽譜に起こすかという感覚も時代によって変化していくことは十分に考えられます。
残された楽譜を絶対視すれば、実は伝言ゲームの様に全く違う音楽性になってしまう可能性があるかもしれません。
とにかく、25年以上レヴァント版しか聴いていなかった私にとっては、現代の演奏(角野氏以外)が余りに違い過ぎて衝撃的だった。。。

MCでは石田組長が角野氏にヴァイオリンの伴奏をあまりしない人ではないかというお話をされていたのですが、上記のことを考えると実は結構キワどい話になるのですよね。
角野氏はレヴァントの演奏の様にリズムをあえてズラされている感じだったのですが、私はそもそもそういう曲だと思っているので会場でも全く不思議に感じなかったものの、Spotifyで調べたら現代ではそんな演奏されている方は一人もいなかったのです。
となると、合わないのか合わせないのか…みたいな曲に対する解釈・認識の違いがお二方の中で発生したのかもしれない…と。
もちろん、その相違自体も音楽的にはすごく良い方向に働いていると思われ(同期・非同期の問題は前回の追記に書いていますが、その非同期の調和に近い)せめぎあいみたいな緊張感も含めて、素晴らしい演奏だったと思うのです。
曲への解釈や認識にはもしかしたらお二方に違いがあったかもしれませんが、角野氏はズラしても大丈夫!伴奏の枠を超えても大丈夫!という石田組長への絶対的頼感の上で、とても自由にセッションされていた様に感じました。
そう、ピアノはヴァイオリンの伴奏にはなっていなかったってことです。笑

●アンコール「ロシア民謡(山下康介編):黒い瞳」
すごくドラマティックなヴァイオリンなのですが、泣き過ぎない、媚びない凛とした芯を感じる所が、石田組長の真骨頂なのかも…と。
角野氏のピアノもそのヴァイオリンを引き立てつつ、時折印象的なフレーズで所々でピアノがフワーッと前に出てくる感じ。
ロシア民謡にありがちなテンポ感が変化する曲ですが、今度はしっかり角野氏がヴァイオリンに合わされて、お二方がぴったり!
こちらは完全に伴奏のピアノでしたが、とても素敵でした!

●アンコール「カプースチン:8つの演奏会用エチュード 作品40 トッカティーナ」
アンコール中のMCについては、他の皆様が詳しく書かれているので省かせて頂くのですが、石田組長がこの演奏の前に突然譜面台を倒して客席に降りられ、角野氏一人がステージに。
すると、ソロ演奏を期待した角野氏ファンからの吐息と拍手が溢れ、それが終わらないうちにお決まり様にフライング気味で始まった「トッカティーナ」。笑
テンポはいつもより早めに感じられましたが、力みがない・淀みもない。
ビート感全開で、重厚さと軽やかさのバランスとしては今まで聴いた中で一番好みだったかもしれません。
いや、簡単に「好み」なんて書いてますが、早く弾けば必然的に軽くなるし重厚に弾こうと遅くなるわけで…
どちらも良い所取り!みたいな今回の演奏が、いかに超絶的演奏なのか…ってことですよね。。。
いやはや、冷静に考えると恐ろしい。。。
ですが、何より角野氏の「楽しい〜!」パワーが会場の隅々にまで広がっていて、その幸福感でいっぱいになりました。

●全体のまとめ
当日、冒頭に記載のTweetを引用して下記のTweetをしました。

本当にものすごーく楽しかった 音楽に国境はないし、民族・文化を互いにリスペクトする素晴らしさを実感。アンコールでアメリカとちょっと日本も加えて頂きサイコー 世界中が同じ気持ちになれます様に
#神奈川フィルハーモニー管弦楽団
#田中祐子
#石田泰尚
#角野隼斗

サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用 3/21

実はこれ以外にも、私にとっては、すごく救いになったコンサートでした。
前回のnote「変位しつつある〜」の追記では、ポストトゥルース時代における将来への不安が抜けなかったのですが、それを解消してくれたからです。

私は、角野氏のようなキメラ的・中道的な個性は、この時代変化に大きな影響力を持つと考えています。
それはDUMB TYPEのような難解さがないままに「相対・双対の概念=自分達が生きている現実世界以外に何かがある」ということを実感させる力を持っているからです。
なぜかと言えば……表現者自身が主観的に音楽を心から楽しんでいる表現スタンスこそが、ポストトゥルース社会に共感を持って受け入れられるからです。

変位しつつあるクリエイティビティの射程 ~角野隼斗全国ツアー 2023 “Reimagine” /他~ 追記

上記はロジックとして書いたに過ぎず、実際にそれがどういう事であるかはわかっていませんでしたし、それを期待しながらも私自身は不安感は抱いたままでした。
けれど、この日のコンサートは上記を実際に体感したようなもので、その不安を吹き飛ばしてくれました。
(なんか「概念で書いていたのをその直後に実感した」という出来事ばかりですけど。。。笑)
この日演奏された曲は全て、ロシアとウクライナが関係しています。
このプログラムをもし客観的視点で表したら「両国が良好だった時代(厳密には語弊がありますが)の芸術から、今の世界情勢を鑑みる」みたいになってしまう訳です。
そんな事を言われても「たしかにそうかも」と思うだけで個人の心には響きません。
けれど、人それぞれの主観の中で「音楽は素晴らしい! 国境も関係ない!」と強く感動することができたら、そういう人々が一人でも多くなることこそが平和へつながる力に成り得ると思うのです。
ただし、客観的評価を重視する社会性だった場合、そう思う方々がいても「いや、音楽と政治は違うから」で終わってしまう可能性もあるのです。
でも、ポストトゥルース時代だったら一人一人の内側から大きなムーブメントになる可能性を秘めているということなのです。
私は先日までそういう意味でポストトゥルース時代を楽観視していたのですが、前回のnoteに書いたようにちょっと分断を感じてしまったのですよね。。。
でも、やはりその分断をも乗り越えることができるのが芸術だ!と改めてこのコンサートで実感することができました。
もちろん、今回のコンサートで得た共感は角野氏だけの成果ではありません。
どちらかと言えば神奈川フィルの構成力(選曲だけではなく石田組長と角野氏の共演も含め)に比重があったと思うのですが、その成果を「より多くの方に届ける」という所では、角野氏の力が大きく働いた、という事だと思っています。
個人的な問題ですが、変に考え過ぎだったものが払拭できたことに感謝ですし、何よりも音楽の楽しさ・喜びが世界中の人々に広がることで世界が変わるかもしれない!という可能性を感じることができました。
1日も早く二つの国の方々に平和が訪れますように願ってやみません。

今回のコンサートに関して、神奈川フィル公式アカウントでは特に平和への言葉を用いていらっしゃいませんでしたが、直後にショスタコーヴィチ「レニングラード」の告知では平和への願いをTweetされていました。
やはり想いをずっと持ち続けられているのだな…と改めて思った次第です。


<おまけ ノリについて>

実はおまけなのに、長文です。笑
ただし、最後に書いている「ノリの核心」については、結構本気で書いてます。
何が本気かというと、何度も書いているように「能が最もノリがある・グルーヴがある」という裏付けみたいなものだから。笑

実はコンサート当日、下記のTweetをしました。
私が勝手に思った事なので、さすがにタグをつけることは躊躇したのですが…なんと、田中祐子マエストラ(Tweetでは間違えていました すみません)ご本人から、まさかの「いいね」が?!!!!!

田中マエストロの指揮、カッコいい!って書かれている方が凄く多いのですが、能(仕舞)との共通点が多過ぎて不思議過ぎる。そもそもノリにコミがあるし、半身(はんみ)だし、タクトの角度が扇と同じ少しだけ上向きだし、指揮の動きがケプラー運動になってるし。日本舞踊でもこんなに一致しないのに。

サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用 3/21投稿

「カッコいい!って書かれている方が凄く多い」にいいねを下さった可能性はあるとはいえ、内容はある程度知識がないと意味不明のはずですし、あまりにも見当違いだったらいいねを下さる事は無いと思われるのです。
もしかしたら、東京藝大時代に邦楽・能楽専攻の方と交流がお有りだったとか?
藝大の邦楽科は幼少から邦楽を学ばれているお家柄の方が視野を広げられる為に入学されるそうなので、能楽分野で大学生というご年齢ならすでにプロ(芸能の制度として「玄人」と言えるかは場合によるかと思いますが)です。
実際のことはわかりませんが、田中マエストラの「わかりやすい・かっこいい・力強い・キレがある・ノリがある・美しい」と感じられる指揮は、能の型に近い創意工夫が凝らされた結果で、音楽に対する即興的ダンスのような動きではありません。
身長も小さめで細い体格でありながら、より力強く堂々とオーケストラ全体を圧倒するパワーと影響力をご自分のものにされる為の動きであることは間違いないでしょう。
音楽に自然に乗っているようなナチュラルにみえる動きは、実際には自然ではなく計算され尽くされたセオリー(≒型)の上に成り立つ動きです。
とはいえ、項目タイトルを「ノリ」にしているのは、見た目の動きを例にしているものの、それが音楽的「ノリ」につながっている為です。
下記ではTweetについて補足していきますが、「ケプラー運動」の前までは飛ばして読んで頂いても構わないので、小さめ文字にしておきます。

●ノリにコミがある
以前「前の息で合わせる〜」に詳しく書いているのですが、小曽根氏が演奏の合間に入れられる「ウッ」「ハッ」というものと同じです。
この時に文楽については書いていませんでしたが、文楽三味線ではそれをすごく重視していて、床(三味線と義太夫が演奏&語る別の舞台)近くに座るととても良く聴こえてきます。
音楽(語り)のリズム・ノリに合っているので、小曽根氏の間合いと同じく雑音ではなく一つの効果音になります。
どうして能や文楽でコミがあるのかを考えました。
どちらも基本的には七五調の言葉が用いられていますが、奇数後の1拍が休符になることで、文節の区切りとなり四拍子の上に乗っています。
その際、休符の1拍には本当にお休みの部分と、次の文節の事前準備となるコミが、たぶん内包されているのです。
コミがあれば指揮など見なくてもタイミングが合うのですから、そのコミを指揮に応用するのなら「合わせやすい」に決まっています。
ちなみに、「ノリに」と書いている事は後の「ケプラー運動」に関わってくるので、とりあえず「コミ」としてはここで一旦終了です。

●半身(はんみ)
修羅や鬼などの激しい曲(作品)に用いられる構えの一種で、体は必ず正面から左右どちらか45度斜めに振れています。
現代でわかりやすい例は特撮戦闘ものの構えですが、殺陣から来ている「一番の決めポーズ」です。
いわゆるモデル立ちに近いのですが、モデル立ちは細くシュッと見せる為に体を斜めにしていると思われる所、こちらは力強く大きく見せるためのポーズになっています。
比較に良い写真がありましたのでリンクしておきますが、「半身ができないジャニーズJr.」と「半身ができているスーツアクターの方」との対比になっているので、これを見れば「ダンスを習得できていても半身はできない」ということがお分かり頂けるかと思います。
(スーツアクターさん、足は短いけどかっこいい! 笑)
自然に見えてどれほど不自然な動きなのかというと、スーツアクターさんの右肘が正面からみて横に開いてますが、斜めの体に対して自然に肘を張れば普通は後ろ斜めになってしまうところ、わざわざ正面に対して横になるように見せているのです。
自然にかっこよく見えるのに、実はとても不自然な動作です。
ナンバ(現代の歩き方とは違い、右手右足・左手左足が同じバランスで前に出る歩き方)の動きからきているので、常に右足前で固定という訳でもなく半身で自由に動けるのですが、捻りやがないので…これが本当に難しい。
とはいえ、このナンバからの半身の型が力強く感じられのは日本人特有の感性ではないのもまた不思議。。。
理由は不明ですが、写真を見ればわかるように体の内側から力がみなぎっているように感じられ、誰が見てもかっこいい!と思えるポーズ(構え)になっているのです。
つまり、田中マエストラが細く小さいにもかかわらず迫力ある力強い存在に見えるのには大きな理由がある!という事です。
もちろん、右足を下げたり左足を下げたり(左を向いたり右を向いたり)自在に動かれても軸は全くぶれず半身が完全に維持されていました!
現代の日常的身体感覚ではできないので、本当に驚くべきことだったのです。
とまあ…現時点では見た目のお話ですが、「捻らない」という所が後でノリに関係してきます。

●タクトの角度が扇と同じ少しだけ上向き
これは単純に見た目だけの問題です。
「解釈とイノセント〜」の中盤で書いているように、日本では着物を「身体拡張」として認識していますが、この場合の指揮棒も同じです。
特に、能では日本舞踊の様に「捻らない」ので、肘から繋がった手と扇は真っ直ぐ構えます。
袂を美しく見せるため肘を曲げた先は手首も扇も一直線になるはずなのですが、ほんの心持ち(3度位)扇を上に向けることで、見た目は「腕と直線的に繋がっている」にもかかわらず、無意識的に「上昇的指向=勢い」が伝わるのです。
細部をより美しく生き生きと見せるこだわりのようなものですが、指揮棒がどの角度であっても「肘からは一直線+わずかに上向き」という状態が田中マエストラの指揮棒では保たれていたのです。
こんな細部にまで共通項が?!と驚きました。

●日本舞踊でもこんなに一致しない
ケプラー運動はノリの核心なので、その前に「日本舞踊でもこんなに一致しない」について。
日本舞踊は能の型に比べると、シナを作ると言うか、捻りを用いるのです。
また、能の場合は「舞」単独であるのに対して、日本舞踊は「舞」と「踊」です。
実は「舞う」と「踊る」は動きが全く違います。
舞は、能・舞楽に用いられる水平移動を重視した動きです。
一方の踊りは、盆踊りや阿波踊りなど身体に上下運動を伴う動きで、主に祭り等で大衆で一斉に同じ動きをするような場合に用いられている様です。
勝手な想像ですが、踊りの方が集団催眠みたいなグルーヴの効果を重視している可能性はありますね。
能の場合は摺足に代表されるように地面に常に重心が垂直に置かれていて、その重心軸は斜めになったり捻れたりしません。
日本舞踊の型はよく捻るのですが、田中マエストラの方向転換は捻らずに半身で対応される動きだったので、それに驚いたという訳です。

●指揮の動きがケプラー運動
さて、いよいよ「ノリ」の核心に迫る〜!(迫れるか?!笑)
そもそも物理学的なケプラー運動の詳細は、私にはわかっていません。
ただ、謡曲のお稽古で「ノリとは何か」を先生にお伺いした際のお答えが「角運動量が等しい楕円運動」というものだったのです。
(注:通常は模倣が稽古の基本なので論理的思考でご指導下さる能楽師の先生は稀有です)
ケプラーの法則も数式もわかりませんでしたが、楕円の面積が等しくなる…というのは、学校で習ったことがあったのでどうにか意味がわかりました。
改めて調べてみるとケプラーの法則の第二法則(wikipedia)というものですね。
Wikipediaの右にある動画のうち赤い楕円の(一番細長い楕円)軌道を動くBを見ると、スピードに変化が出ているのがわかりますが、このスピード変化こそがノリの正体です。
下方の説明にもあるように、万有引力とケプラーの法則は同じ(視点が違うだけ)なので、引力の影響の上で暮らしている私たちが「気持ち良い」と「弾んでいる」と感じる上下運動は、当然ながら引力の影響を受けた動きに倣っているはずです(焦点の位置や細かいところは無視して単純化したモデルとして考えていますが)。
弾むボールは上下に直線的に動きますが、基本的には極めて細長い楕円運動で、楕円の細い部分(落ちてくる瞬間と弾む瞬間)は当然ながらスピードが遅くなります。
惑星運動とは違い一つの中心焦点とした単純化したイメージですが、拍子のスピードは初速・中速・終速と常に変化していなければノリを感じないのです。
しかも、そのスピードの変化は「角運動量が等しい」という法則に倣うものである、ということです。
どれほど直線的なビートであっても、それが一定速度ではノリを感じることはありません。

能の摺足は、曲のテンポがゆっくりだろうが早かろうが、初速・中速・終速がケプラーの法則に倣いコントロールされています。
その老女が遊女の後の姿であるような場合、どれほどゆっくりに足を運んででいても、絶対にノリを必要とします。
(ノリをあえて抑える曲もありますが、今回は割愛)

田中マエストラの指揮の動きは、完全にこのケプラーの法則を踏襲していて、「ダッタン人の踊り」の早いテンポでも、ゆったりした「アンダンテ・カンタービレ」であっても、指揮棒の軌道には初速・中速・終速が制御されていたのです。
角野氏のフィンガースナップ(=円運動)はその行為自体がノリを体現しているので、音が鳴っているかどうかに関わらず、音楽表現に大きな影響を与えています。
曲中に挟まれればコミでもあり、演奏前に行われればノリへの助走みたいなものです。
ノリがあるビートやリズムが連なった結果として得られる高揚感がグルーヴですから、私がつねづね「ノリとグルーヴは能が最強」と書いているのはそういうわけです。

ところがところが、、、、
能のノリには唯一苦手なものがあるのです!
それはスウィングです。
なぜなら、スウィングの動きは捻りのある横8の字∞だからです。
体が右手左足でバランスをとっている状態(もともと捻りがある状態)だからこそ、スウィングとして上半身を左右に振り子の様に揺らすことができるのですが、ナンバのバランス(手足が同じ重心)だった場合、振り子の様に横揺れしたらそのまま倒れてしまう。。。
結果、能の運動作用は基本的に前後にしか働きません。
横方向の動きはあるのですが、顔をイヤイヤするように重心の中心は変わらず左右に体ごと振れる感じに限ります。
もちろん、「縦運動を横運動に転用する」ことはあるのですが、捻りがないことで感覚としては「揺らぎ」にならないのですよね。。。
その揺らぎを補足するかのように、タメなどテンポ自体に長短つける間合いを重視している感じがしています。

また、横ノリは中央の捻り「∞」で楕円が一旦区切れるので、一双=一組として認知され、さらなる揺らぎ感やゆったり感も出てきます。
(認知する単位が変わるのでメトリックモジュレーション的な意味で受容感覚が変わる)
ここでようやく感想にも書いた「ヴァイオリンとピアノと弦楽のための協奏曲」で不足気味だったスウィングは、田中マエストラの指揮スタイルにも関連しているという事につながってくるのです。(あくまでも個人の見解です)
とはいえ、ここまでジャズ寄りのスウィングは通常のクラシック音楽で必要とされていませんし、そもそも指揮自体をスウィングに合わせる必要性は無いので(感覚として生かすことはあっても)、まあ私がここでどうこう言うことではりません。
ただ、翌日の投稿で角野氏の演奏を「弦の厚みと共にswingする様子」と語られていた事には少々疑問を覚えました。
なぜなら、角野氏の演奏はビートによるグルーヴ感はありましたが、オケとの調和を保つためにスウィング感は抑え気味だったからです。
スウィング感が少ないことを自覚された上で効果的にビートを活かされるのと、それにお気づきではないままのとでは、まあ…ちょっと意味が違うと思われるので。。。
本来、スウィングこそは現代の身体感覚でただ自然に音に身を委ねるだけで良いはずなのですけど。。。

※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略