作品と作者、演者の思想は別

「作る作品はいいんだけどねー」で済ませたいけどできない問題

アーティストが政治的な発言をして、それをメディアが取り上げ「批判されている」と書かれ炎上する。この流れは何度となく繰り返されてきたのだが、このサイクルが増えていってる感じがする(主観なので確証はできない)

別に好きなアーティストがどんなこと言っていてもいい、と思うのは私が推しのアイドル等を持っていなくて、平沢進を愛好しているからなのだろうか。あの人はとかくわからない。何を考えてるのかわからないし、どんな主張をするのかわからない。でもそんなことに目くじらを立てるまでもない。とりあえず曲を書いてくれたら喜ぶような私だ。「それはそれ、これはこれ」と勝手になっているのだろう。

ただ、一般的にはこうならない。「こういうこと言うなんて失望しました。もう二度と聞かないです」というフレーズは聞かされたことがある人もいるかもしれない。また芸能人が逮捕されると、その人がいなかったかのようにドラマやバラエティでは処理される。クレームに配慮してというのだが、その理由は「教育上の配慮」という便利な一文で済まされてしまう。

勝手な推測だが、こういった考え方の根底にあるのは「ケガレ」という概念だろう。問題になった人自体を「ケガレ」として扱い、不浄なものとして忌避するようになる。その概念が拡張され、「ケガレ」た人が作ったものはすべて不浄なものとみなす、そういう観念が生まれ、一定層には定着しているのではないか、と。あくまでこの分野のど素人が考えたものだ、軽く受け流してほしい。

こういった概念のないヨーロッパではどうなのだろうか。ここにその議論をできる題材がある。リヒャルト・ワーグナー氏である。彼の作品は言うまでもなく有名なものが多いが、では人間性がよかったかというとそうではない。というか芸術家にまともな人を求めるのはラヴェルさん以外にはしないほうがいい。例にもれずワーグナーさんもそういう人であり、浪費癖に傲慢であったらしい。彼が絶許されているのはある投書「音楽におけるユダヤ性」というものでユダヤ人批判を行っていることである。現代においてはこの投書の影響は大きく、彼の人間性を肯定するのは反ユダヤ主義を肯定するかのように批判される。ワーグナーさんの場合いい作品を書いているので、「いい曲書くんだけどね‥‥」で済んでいる。ここには本人の思想と作品を分けて考えているのが見てとれる。

彼のために少し詳細を書いておくと、彼自身はユダヤ人と仲良くしているし、差別的であったというものはない。彼が差別主義者というわけではなく、おそらく無能に厳しかったのではと推察します。彼にとって不幸で決定的だったのはナチスがワーグナーさんの曲を好んで使用していたのもあるだろう。

現代においてもワーグナーさんのように「いい作品書くんだけどね‥‥」「いい演技してるんだけどね‥‥」という風に済んでほしいと思っている

参考文献


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