人生はすばらしい

ここ2年ほどはコロナ関係の記事を書いてばかり。でも別に、僕はそういうライター稼業じゃないですからね(笑)
本業は医者です。医者で、日々臨床現場で経験したことや思ったことなんかを文章にまとめる。そういうのをコツコツとやってきたわけです。
でもコロナ関係の情報発信が注目されて、フォロワーが急増し、本を出版したり、国を相手に裁判したり、全国各地を講演して回ったり。明らかに、人生が一変しました。
仕事だけじゃなくて、プライベートでも変化がありました。3年前、僕は一人暮らしでした。でも今、5人家族(僕、妻、ロン、ツモ、赤ちゃん)です
コロナで職を失ったりコロナワクチンで健康(あるいは人生)を失った人がたくさんいる中で、僕は逆に、多くのものを得た格好です。
しかしこういう変化を「文句なしにすばらしい」と肯定していいのかどうか、実はあまり確信がありません。開業当初、クリニックは閑古鳥でした。僕は患者に飢えていました。でも暇なおかげで、思う存分栄養療法の勉強ができたし、ブログ記事を念入りに推敲する余裕がありました。一人身で寂しかったけれど、誰の人生も背負っていない気楽さがあった。食うに困らない程度稼げればそれで十分。でも今はそうではありません。ありがたいことに多忙で、ブログを書く時間を捻出するのも一苦労です。食わせる家族がいるから、家計を支えないといけない。責任を背負うことになりました。
確かに、コロナをきっかけに僕は多くのものを得たけれども、コロナの前と後で、幸せの総量はそんなに変わらないような気もするんですね。

いずれコロナは終わる。僕にとって、いわば“バブル”がはじけるわけです。でもそれはそれで全然いいと思っています。
僕はこの2年間コロナ関係の記事ばかり書いてきました。それは、人々がそういう情報を求めていることが分かっていたからです。noteの管理画面で「ビュー」を見れば、どの記事がよく読まれているのか(あるいは読まれていないのか)が分かるのですが、バズる記事はコロナ関係ばかりです。
でも僕は思うのですが、すぐに役立つ情報は、すぐ役立たなくなります。刺身みたいなもので、鮮度が命。1年も経てばコロナ関係の僕の記事は誰も読まなくなると思う。
というか、実は僕は、自分の記事って読めないんです。恥ずかしくて(笑)
もちろん、文章を書いてるときは本気ですよ。一生懸命ウンウンうなって言葉を紡ぎだしている。しかしひとたび記事が完成して人目に付くところにアップすれば、もう見れない。開高健だったかな、「文を書くということは恥をかくということだ」と言ってて、まさにそういう感じです。
ただ、いくつか例外があります。「我ながら重要なことを言っているな」という記事があって、ふとしたときに読み返したりする。

コロナ前後の人生の変化を「文句なしにすばらしい」と肯定していいのかどうか、確信がない、と先に言いました。でも、我が子が生まれたことについては「文句なしにすばらしい」と断言したいんです。そう断言するためには、どうすればいいか?
恥ずかしながら、僕の過去記事を紹介します。
『実験』https://clnakamura.com/blog/1110/
『愛の必要性』https://note.com/nakamuraclinic/n/neb25eb75e0d0
「子供に愛情を注ぐ」とはどういうことか?この問いに対するヒントが、これらの記事にあるような気がします。

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赤ちゃんが泣いている。おなかが減っておっぱいが欲しいのか、それともオムツが汚れて気持ちが悪いのか。とりあえず、抱き上げてみる。

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すると、それだけで泣きやんだりする。肌の触れ合いとか注目とか、赤ちゃんが求めるのはミルクだけではないんですね。こんなことは世の母親なら誰でも知っていることなんだろうけど、僕は本当に無知だったな。というか、僕よりも犬のほうがよく分かっています

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ロン(2歳3か月)やツモ(8か月)が赤ちゃんに対してどう反応するか、不安がなかったわけではありません。犬のほうでは歓迎のつもりでも、力加減を知らないせいで、飛びついてしまっては一大事。慎重に引き合わせたところ、ロンもツモも、問題なく受け入れてくれた。
僕が風呂に入ってて、妻が台所で食事を作ってて、誰も赤ちゃんの相手ができない。そういうときに、犬が赤ちゃんのそばに寄り添ってくれる。しかも、ただそばにいるのではなくて、完全に赤ちゃんを「守る」意識なんですよ(笑)笑っちゃうんだけど、でも仮に本当に不審者が来れば、こいつらは赤ちゃんを守るために体を張ると思う。赤ちゃんが泣いていれば、顔をぺろぺろなめる。大事なことは本能で全部分かってるんですね。

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人間は本能が退化している。だから、知識で補うしかありません。
乳児はしっかり肌を離すな
幼児は肌を離せ 手を離すな
少年は手を離せ 目を離すな
青年は目を離せ 心を離すな

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これ、誰が言ったのか知らないけど、すばらしい教えだね。乳児は肌でものを考え、感じる。乳児期のスキンシップはこの上なく大切だ。

さて、赤ちゃんの名前をどうしようか。
僕は太陽こそがすべての源だと思っている。だから、名前に多少なり太陽を取り込みたいと思っていた。「日」とか「陽」とか「輝」とか。お日さんが持つエネルギーにあやかりたいなと。
一方、妻は「4月生まれだから桜稀(おうき)なんてどう?」
「おうき、か。医者的には嘔気をイメージして、ちょっとね。あと、生まれたのは4月後半で、桜としては遅くない?」
「いや、北海道はちょうど桜の見頃だし、別におかしくない」
などと、あれやこれやと議論した。

名前を決め、出生届を出し、あれやこれやの必需品(哺乳瓶、よだれかけ、オムツ、ベビーベッドなど)を買いそろえた。
こんなふうにして、ひとりの人間を家に出迎え、家庭が営まれて行くんだなぁと思いました。父親になって初めて、自分に子供が生まれて初めて、見えてきた感覚があります。

思春期のアイデンティティクライシス、っていうのがあるでしょ。僕はあれに完全にやられてしまって、高校生のときに「自分とは何か?」「人間とは何か?」「存在とは何か?」ということが不思議で仕方なかった。だから、大学には迷わず文学部に進学しました。大阪大学文学部ドイツ哲学科を卒業しました。卒論は『フッサールの現象学理念の解読』。でも当時小泉改革の真っ最中で、就職は超氷河期。「文学部卒じゃ食えねえよなぁ」と思って、勉強し直して医学部を再受験した、という経緯があります。だから、僕はもともと文系なんです。それも、「存在とは何か」みたいな、実学から一番遠い分野をやってました。一円の得にもなりゃしない分野で、学徒動員なら真っ先に戦場に送られるところ(笑)
十代から二十代前半は「なぜ生きるのか?」と真剣に悩んでいました。でも今は「どう生きるのか?」ばっかり考えてて、ずいぶん不純な、計算高い人間に成り下がってしまいました(笑)
当時書いた日記とか雑文を今読んでも、意味が分からない記述が多いし、意味が分かっても共感できない。あの当時の切実さと知的水準の高さで哲学することは、もう今の僕にはできないんですね。妙な医学知識はいっぱい増えましたが、哲学する能力はすっかり退化してしまいました。
先日、僕には自分の子供が生まれました。別の存在を、作ったわけです。自分の存在の意味も分からない自分なのに
不思議な感覚です。今ならあの、アイデンティティクライシスに悩んでいた高校生の頃に、もう一度戻れそうな気がします。哲学することに夢中だった十代の感覚に。

「人生はすばらしいのだ」と教えたい。
どういう子供に育てたいか、というのを折に触れて妻と話し合う。
「芸術系がいいかも。才能がないと厳しいかもしれないけど。自分の感性で生きていける子になって欲しい。ロジックでできることなんて、たかが知れてる。いわゆる“勉強”はあまりさせたくない」と僕が言うと、妻が
「2匹のゴールデンを“お兄ちゃん”にして育つんだから、犬の気持ちが分かる子になると思う。将来は訓練士にしたい」
すばらしいアイデアだと思った。警察犬の訓練士とか、収入はさほどではないかもしれないけど、犬とのコミュニケーションが仕事になるなんて、最高の人生じゃないかな。

というわけで、将来うちの子は犬の訓練士にすることに決めました(笑)

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