ツイッター

ツイッターをやめて2週間が過ぎた。
今年の3月に始めて、8月のツイートを最後に更新していない。活動期間は半年ほど。その間、フォロワーは3万人近くまで増えた。
ン十万人、ン百万人のフォロワーを擁するインフルエンサーがざらにいるツイッター界隈にあって、3万人というフォロワー数は、別段特にどうということもない。
ただ、僕が何か一言つぶやけば3万人に声が届くというのは、なかなかすごいことだ。街中で何か大声で叫んだって、せいぜい10人に聞こえる程度だろう。遠く県外、日本の端っこ、果ては世界の裏側にいても僕の声が届く、こんな拡声器は他にない。

別にフォロワーを増やそうと思ってツイッターを始めたわけではないし、「コロナ脳を減らしてやろう」などという世直し的大義があって活動していたわけでもない。
ただ淡々と、粛々と、自分が有益だと思う情報を、つぶやき続けた。主には海外情報を、ときには健康情報を、ごくまれにロン(愛犬)の情報を笑
フォロワーが増えたって、何ら気負うところはない。僕は僕の思うところを勝手にツイートするだけのこと。気に入ったらフォローすればいいし、嫌ならアンフォローすればいい。来る者拒まず去る者追わず。その自由さがツイッターのいいところだ。

そんな具合に毎日のようにツイッターを更新していたのに、突如、休止する形になった。
なぜか?
いろいろな憶測があるかもしれないけど、理由は単純。
表現の自由を拘束されるのが嫌だったから。
僕のアカウントは、いつの頃からかツイッター社からシャドーバンされて、ツイートがフォロワーのタイムラインに表示されなくなったり、検索してもヒットしにくくなった。ツイッター社が僕ごとき一介の医者のつぶやきをそこまで危険視してくれるなんて、光栄なことです笑
でも、僕にはこの状況がこたえた。「当局の制限のなかでのみ言論の自由が許される」というのが何とも不快で、我慢できなかった。

「アンチのコメントが苦痛だからやめるんじゃないの?笑」とごうちゃんが言う。
いや、そもそも匿名のアンチコメントなんてハナから無視してる。ていうかアンチの人たちって、ツイッター上で匿名性が担保されてると本気で思ってるのかな。
やめるのはシャドーバンがうっとうしいから。拍子抜けするかもしれないけど、本当それだけ。
「リーチを制限されていたとしても、母数が3万だよ。影響力としては充分じゃないの。やめるのはもったいない。絶対続けた方がいいよ」
いや、そういう問題じゃないんだ。たとえば、マラソンが趣味の人がいるとする。神様みたいな絶対的な存在から「お前な、今後走るときは左足に2kgのウェイトつけて走れ」って命じられたら、どうかな。走って走れないこともない。でも、何だかバカらしくなって、走るのやめちゃうんじゃないかな。

なぜシャドーバンされたのか?
理由はうすうす分かっている。タブーに触れたからだろうなぁ。
「原発、ワクチン、薬(抗精神病薬、ステロイドなど)に対する批判はタブー」というのはマスコミ関係者の常識。この常識はツイッターにおいても当てはまる。

原発事故で実際に痛い目を見てさえ、原発のデメリットがこれ以上ない形で明らかになってさえ、原発は今日も普通に稼働している。単純に、狂気だよね。
同様に、ワクチンや薬でどれだけの被害が出たとしても、その有害性が明らかになったとしても、物事は何も変わらないだろう。
それどころか、状況はもっとひどくなる可能性がある。ツイッターもフェイスブックもグーグル(子会社のYouTube含め)も、すでに検閲や検索順位の恣意的操作を行って、不都合な情報を人々の目に触れないようにしている。アメリカではコロナ禍によるロックダウンに反対する集会を呼びかけたアカウントが凍結された。「タンザニアの大統領がPCR検査にパパイヤやヤギから採取した検体を提出したところ陽性反応が出た」という記事は、ググっても出てこない。検閲が今後もさらに強化されることはほぼ確実だろう。

以前もどこかに書いたけど、僕は自分のクリニックを開業する前、真剣に海外移住を検討していた。原発をなくせないこの国に愛想が尽きたから。英語ができるから言葉の壁は大して問題じゃない。どこの国でもやっていけるだろう。とにかく原発のない国に移住しよう、と思っていた。しかし、家族の事情などでどうしても日本を脱出できないとわかったとき、僕は覚悟を決めた。この国で生き続けよう、と。そして自分のクリニックを開き、自分のできる範囲で人々を救おう、と。

今もこの覚悟は変わらない。
そう、物事は何も変わらないかもしれないし、今後ますますひどくなるかもしれない。今日も原発が稼働し、今日も薬害で多くの人が死んでいる。
それでも、決してニヒルには陥らない。僕の診察室に来てくれた人に、栄養の重要性、薬のリスク、ワクチンの危険性を伝え続けよう。拡声器は使わなくてもいい。目の前の患者ひとりひとりに、僕の声で語りかける。その積み重ねで、世界が少しでもよくなればいい。

ツイッターを始めたのには、はっきりしたきっかけがある。患者A氏に勧められたことだ。「先生、そろそろですよ」と。直感というか霊感というか妙に冴えた人だから、僕も素直に「確かにそうかなー」と応じた。
僕がツイッターをやめた後、A氏がまた来院して言う。「大きな役目を果たされたと思います。ただ、これで終わりではなく、またいずれ復活してください」
うーん、もう別にいいかなって思ってるねんけど。
「noteは、それはそれで有意義だと思います。2,3年前のツイートを読み返しても仕方ないですけど、先生のブログは2、3年前のものでも読み返す価値がありますから。そういう意味でツイッターは賞味期限の短い消耗品で、ブログは財産ですね。ただ、また時期が来ればツイッターに戻ってきてください。先生の情報発信で救われる人が必ずいます」
そんなに買いかぶられても困るんよなぁ^^;