脚気

「飽食のこの時代、脚気(ビタミンB1欠乏)なんてめったにかからないだろう」と思われるかもしれないが、決してそんなことはない。人間は、たった一晩で脚気になる。たとえばこんな症例報告。
『一晩大酒飲んだ後で発症した胃腸性脚気とウェルニッケ脳症』
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6739701/
30歳の健康な男性。ある晩、調子に乗って酒を飲みまくった。ビール3缶から始まって、テキーラ2ショット、ついでにウォッカも1ショット。さらにダメ押しでウィスキーも2ショット。
ショット、という単位がいかにも欧米でイメージしにくいけど、ショットグラス≒養命酒をはかる計量容器サイズ、と思っておけばだいたい近い(笑)

アルコール換算

この男性、ビールジョッキに換算して8杯飲んだことになる。どうですか、この量。「いうほどでもないやん」と思った人、なかなかの酒豪ですね(笑)
しかしこの男性は地獄を見ることになった。まず、翌朝ひどい二日酔いに見舞われることになり、症状は軽快するどころか二日後には吐き気、のどの違和感を生じるなど増悪の一途。これはヤバいと思い、病院受診。しかし治らない。結局男性は、大量飲酒して以後2か月の間に、なんと、救急受診11回、入院3回、さらには腹腔鏡下で胆嚢摘出手術まで受けた。
そこまでしたのに、治らない。吐き気が治まらず、実際に吐く。ご飯を食べるどころじゃない。拒食症みたいになって、体重減少が止まらない。

最初の1か月、「難治性の食物逆流だね」と言われていた。「お酒で胃腸が荒れている。おなかにやさしい食べ物を食べているうちに、そのうち治るよ」と。固形物は受け付けなかったが、ぎりぎり野菜ジュースのようなものなら飲めたから、それで何とか命をつないでいた。それが2か月目に入る頃から、ジュースも飲めなくなくなり、水だけ飲めるという有り様になった。2か月目の3週目に入る頃からは、なんと、水さえも飲めなくなり、ついに食欲が完全に消失した。ちょうど2か月が経つ頃には、男性は1日に10回ほど胆汁混じりの嘔吐をするようになった。胆嚢摘出手術まで受けたが、手術はこの男性の症状(吐き気、嘔吐、拒食症)軽減にまったく効果がなかった。
男性はこの2か月で体重が23kgも減少した。118kgから95kgになった(誰だ、「今までが太りすぎだったからダイエットになってよかったんじゃない?」などと言うのは!)

主治医は「胆汁が逆流するせいで食事がとれなくなっている。だから胆嚢をとってしまえば万事解決、食事がとれるようになるだろう」と考えていた。しかし手術を終えて10日後(大量飲酒から8週目頃)、やはり食事がとれず、そればかりか複視(ものが二重に見える)が出現するに至って、「これはただごとではない」と事態を深刻に受け止め始めた。

「困ったときは、一人で抱え込まない」これは医者の世界も同じである。神経内科にコンサルし、この患者を別の角度から見てもらうことにした。「上記難治性患者につき、対応に苦慮しております。貴科的にご高診お願い申し上げます」
さて、診察。意識清明。見当識もクリア。手術後だが、腹部の痛みもないという。ただ、食事がとれず、胆汁混じりの嘔吐だけが続いている。外眼筋の麻痺がある。これが複視の原因だろう。MRIを撮り、さらに眼科にもコンサルしたが、頭蓋内病変、眼疾患、いずれの可能性も否定的だった。

「一体この病気は何なんだ?」主治医、救急医、胆摘を行った外科医、神経内科医、眼科医、全員が頭を抱えてしまった。「アルコール多飲を契機に発症した若年男性の拒食症。こんな奇病は見たことがない」「症例報告ものじゃないか」「精神科へのコンサルはまだか?」
そこにふと通りかかった栄養療法実践医、「どうしたんです、先生方。みなさん悩んでおられて。どれどれ、どんな症例ですかな。ちょっと拝見。ああ、これは脚気ですね。チアミン500㎎静注。2、3回すれば、それで話は全部解決です」

万策尽きた医師たちである。その助言に基づいてチアミンを注射した。「どうです、見え方は?」「いや、やっぱりぼやけて見えますね」効果なし。もう1本、チアミン500㎎を注射。「どう?」「うーん、特に変化はないです」やっぱりダメじゃないか。落胆が医師の間に広がった。
しかし奇跡が起こったのは、患者が6時間眠った後のことである。目覚めた後には、ものがクリアに見えた。複視はすっかり消失していた。あれほどしつこかった吐き気が嘘のようになくなり、何日ぶりだろう、何か食べたいという思いがふつふつと湧いてきた。
男性はこの三日後に退院した。

この症例はなかなか教育的である。ひとつには、一晩の大酒で脚気(ビタミンB1欠乏)が生じ得るということ。もうひとつは、医者がいかにビタミンに無知であるか、ということである。
救急を11回受診し、3回入院し、胆嚢までとってしまった。それでも治らず、『原因不明』。はっきり言うけど、バカ医者が何人集まってもバカのままだよ。たまたま脚気に気付いた医者がいたからよかったものの、この男性、死んでいても不思議じゃない。胆嚢をとられた程度で済んだのは不幸中の幸いだった。
ビタミンという概念をほとんど持たないままで臨床をすれば、患者がどういうふうにあちこちをたらい回しにされ、医療で体を無茶苦茶にされていくか、上記はその典型的な症例だと思う。
あと、蛇足ながら付け加えておくけど、上記の話の後半はだいぶ脚色してます(笑)そもそも、一般的な総合病院に栄養療法実践医はまず存在しない。他の先生方から「変な医者」としてずいぶんにらまれるだろうし、点数の稼げる薬や手術ではなくビタミンなんかで患者が治っては病院経営が揺らいでしまうので、事務方からもにらまれる。居心地悪いことこの上ないので、本気で栄養療法やりたい先生はみんな独立開業することになる(だから市中病院で「脚気」を指摘する先生はますます少なくなる)。
そもそも上記の症例は、患者をファーストタッチした救急医にビタミンの素養があればその時点で終わっていた。「大酒飲んだ後の食欲不振?脚気じゃん」点滴にチアミンを混注。それで終わり。胆嚢とられることもなかっただろうに。
ビタミンに対する医者の無知のせいで、患者は不必要に苦しむことになる。いい加減こんな医療、勘弁してほしいよね。