夢と現実

ときどき嫌な夢を見る。何かひどいデタラメを吹っ掛けられて、僕は怒っている。理屈で反論したいけれども、なぜかうまく言葉が出てこない。もどかしく思って、テーブルを強く叩いて抗議の意思を示す。何なら殴り合いのケンカになってもかまわない。ふと、「これは夢なんじゃないか」と思って、首を左右に激しく振ってみる。意識がふわっと水面に引き上げられて、はっと目を覚ます。「ほら、やっぱり夢だった」
夢を見ている途中で夢だと気付く。誰しも経験があることだろう。夢の中の口論やケンカで思うように言葉が出なかったり手足が動かないのは、身体的には「眠っている」からだ。これで、実際に大きな声を出したり動いたりできたとすれば、それはむしろ病気で、恐らく『レム睡眠行動障害(RBD)』の診断が下る。高齢者のRBDはパーキンソン病との関連が言われている。
最近こういう悪夢の頻度が多いから、僕も将来パーキンソン病になるかもしれません(笑)

「夢と現実の区別がつかない」ということは、精神科的にはたとえば解離性障害を疑うところだけども、実際のところ、本当の意味で「夢と現実の区別がつく」人というのは、いないと思っています。
哲学的には、今僕のこの理性が認識している現実世界について、それが夢ではないと断定する根拠はどこにもありません。僕らにできることはせいぜい、ただ変化によって(悪夢から覚醒して初めてこれまで夢を見ていたことを知るように)、現実と夢の境目を一瞬感知することができるだけです。

実際僕は、今僕の目の前で展開されているコロナのさまざまなデタラメについて、現実感が揺らぐ感覚をしょっちゅう感じます。自分は今悪夢を見ていて、布団の中で見る悪夢が首を振れば雲散霧消するように、はっと目が覚めた瞬間にすべての不条理が消えるんじゃないか、と。

健康な11歳男児(持病はアレルギー性鼻炎のみ)が、3回目のワクチン接種の当日に死んだ。
デマでもフェイクでも何でもない。単なる事実です。
上記のように、読売新聞など大手も報じた。
しかしワクチンの推奨は止まない。マスコミは形式的に「報じた」だけで、全然騒がない。健康な子供が接種したその日に死んだ。明らかにワクチン死でしょうが!因果関係不明とか言ってる場合か!
国会議員も厚労省も騒がない。淡々と何か別の仕事をしているようだ。何をしているのか知らないけれども、ワクチンによる現在進行形の大量虐殺、これを早急に止めるように動くこと、これに勝る重要度の仕事って他にないでしょう?

おかしい。
政治がおかしい。メディアもおかしい。
おかしなことが多すぎて、現実感が薄れていく。僕の周囲が透明のゴムみたいなので覆われていて、声をあげても身動きしても、一切何も届かないんじゃないか。夢の中にいるような不条理と無力感。

でも怒りは本物なんだ。
体の内側から湧き上がる、強い怒り。
原理上、夢と現実の区別がつかないとしても、僕が今感じている、この怒り。その感覚は紛れもなく本物で、嘘偽りの余地がない。

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言った。すべての存在を疑うとしても、思惟する自我の存在だけは疑えない。
デカルトが「思う我」を認識の根本に据えたように、僕は「怒る我」を基準に置こう。「我怒る、ゆえに我あり」
子供にコロナワクチンを推進する人々を許さない。
子供にマスクを強要する人々を許さない。

そして、

茶番に付き合ってるバカな大人たちを、しっかり軽蔑し、しっかり嘲笑するようにしよう。

僕は一時期、マスクしている人たちを「気の毒な情報被害者」だと思っていた。僕が彼らに対して抱いていた感情は、”哀れみ”だった。しかし、コロナ禍が始まって3年が過ぎ、今なおマスクを続ける彼らに対して、見方が変わってきた。
彼らはそもそも自分の頭で考えるつもりなんて、ない。マスクしろと言われればするし、ワクチン打てと言われれば打つ。多分、死ねと言われたら死ぬだろう。言われるがままに4回目を打って、5回目を打って、というのは、そういうことだろう。3年バカであり続けているのだから、これからもずっとバカだと思う。
でもこういう多数派のバカな大人たちが社会の空気を作っている。それで一番割を食うのは子供なんだ。
大人が勝手に死ぬ分にはかまわない。もう何十年も生きたんだから十分でしょ。でも子供だけは守らないといけない。そのためには、言わないといけない。

お前らの延々着けてるその小汚い顔オムツは、はっきり迷惑なんだと。子供にとって最悪の手本なんだと。


子供にPCR検査受けさせている親も救いがたい。これ、虐待だからね。

マスクさせてるってことは、唾液が超危険ってことでしょ?唾液にウイルスとか大量に含まれててやばいぞ、って設定でやってるんですよね?じゃ、なんで鼻の奥に棒をぐりぐり突っ込んで検体採取する必要があるのか?唾液で十分でしょうが。

僕はとにかく、子供を守りたい。
以前にも書いたけど、我が子が生まれて以後、僕は世界の見方が変わりました。たとえば、子育てがなんと楽しいことか、またどれほど手間がかかることか、初めて知りましたし、子育てを経験した世の親に敬意を持つようになりました(その子育てが成功したか失敗したかは別にして)。そして、子供のためにいい未来を残してあげたいと思うようになりました。
コロナの諸問題についても、まず、子供ファーストで考えたい。子供がマスクなんてしちゃいけないし、ワクチンはもちろんダメ。でも、子供を守るには、結局のところ、大人が変わる必要がある。「大人はどうでもいい」と言ったけれども、子供は大人を見て育つのだから、結局、大人の救済が子供の救済につながる。
だから、話が通じないバカな大人と対話する努力も継続する必要がありそうだ。

究極的には、コロナ禍の本質に気付かないといけない。マスクはウイルス対策などではない。上からの言いつけを守らせること。国民をコントロールするためだ。
これについては、以前『ロスチャイルドのメッセージ』として紹介しました。
https://note.com/nakamuraclinic/n/n4a6a23277da0

どうせマスクするなら、ここまでやるなら認めます(笑)
もちろん、写真のこの人は皮肉でやってるんだよ。
今日「マスクがないなら入店できません」だったのが、明日には「ワクチンを打たないと仕事はありません」になり、やがて「マイクロチップを入れないと人権はありません」になっていく。
だから、「たかがマスク」じゃないんだ。マスクがどうのこうの、は枝葉末節ではなくて、ここできっちり争わないといけない。簡単に妥協しちゃいけない。

マスクの妥協は、ワクチンの妥協につながっていく。


ちゃんと怒ることって大事だ。人間関係においても、何事においても。
関係性が悪化することを恐れていつもうすら笑いを浮かべていたら、相手からなめられてしまう。不愉快なときにはきちんと不愉快を表明する。当たり前のことのようでいて、けっこう大変なんだ。ちょっとした勇気と、かなりのエネルギーがいる。黙っているほうがずっと楽だろう。
これは個々人の関係だけではなく、国との関係においても言える。マスクのデタラメ、ワクチンのデタラメ、PCRのデタラメ。抗議の声をあげないと、国はどこまでもつけあがる
去年と今年の超過死亡、あわせて20万人に達するかもしれない。
国を増長させた結果がこれだよ。国民がワクチンで死んだって、政府は屁とも思っていない。
このあたりを思うと、やはり、現実感が希薄になりそうな感覚に襲われる。
政府がおかしくて、メディアがおかしいのに、ふと、おかしいのは僕のほうじゃないか、という気がしたり。
でも、夢なんかじゃない。多くの遺族と直接お会いして話した。ワクチンを打ったことへの、後悔、悲しみ、怒り。
彼らのそういう感情を思うと、僕に必要な感情は、明らかに、怒りだと思う。僕はもっと怒らないといけない