政木和三1

政木和三(まさきかずみ;1916~2002)は、生涯のうちに3000件以上の発明をした。そのなかには、自動炊飯器、瞬間湯沸かし器、自動ドア、CTスキャン、ソナー(魚群探知機)、エレキギター、嘘発見器など、現在の我々の生活に不可欠なものも含まれている。
しかも、驚くべきことに、彼はその発明特許のほとんどすべてを放棄した。
ある発明品を生み出したら、ひとまず特許庁に出願する。認可されれば、特許庁から「3年分の特許料を納めよ」という通知が来る。しかしこれを無視すれば、無効処分となる。
はなから特許を放棄するつもりなのに、それでも一応特許申請するのは、特定の企業による剽窃を防ぐためだった。政木はただ、自分の発明が人々の幸せに貢献することを願った
長らく大阪大学工学部センター長として働き、定年退官したあと、日本の五大家電メーカーのトップ5人が、政木のもとを訪れて、こう言った。
「政木先生、長年ありがとうございました。先生の発明品を無償で製品化して販売してきました。先生が特許申請された段階で、我々はすぐにその発明品の研究をし、製品化の準備をするのが常でした。というのは、特許が認可されると、先生がそれを全部放棄されるということを知っていたからです。先生がそれらの発明を全部ご自身の権利にされていたら、どれほどのロイヤリティーがあったか、ご存知ですか?おそらく、5千億円はくだらなかったと思います」
何千億円だろうと、金に興味はない。ただ、発展途上にあった日本の産業界に対し、自分の発明が少しでも役に立ったことが、政木は何よりうれしかった。
「そんなお金はいりません。生活できるだけのお金があればいいんです。それに、私は瞬間に発明できます。瞬間にできるものでお金はいただけません」
モーツァルトが一瞬の天啓によってメロディーの着想を得たように、政木の頭には発明のアイデアが瞬間的に浮かぶのだった。

政木の発明を、いくつか見てみよう。
阪大の航空工学科で学んでいたとき、空気に“ねばり”(粘性)があることに気付いた。これは当時としては常識外の発想だった。しかしこの粘性は、飛行機の飛行メカニズムの根本にかかわっていた。機体に空気が当たると、空気の流れに速度の差ができるのは、空気に粘性があるからだ。そこで政木は、機体に当たる空気の流れを可視化しようと考え、熱線風速計を発明した。これにより、機体の空気抵抗がブラウン管で観察可能となり、その後の航空力学の発展を下支えした。
自動炊飯器の発明は、政木が結婚した1943年のこと。妻が食事の支度中、ご飯を炊くときにガス台の前で炊き上がるのを待ってガスを止めていた。妻の労力の大変さを思い、何とかできないものかと考えた。そこで、まず、ご飯が炊けるときの釜の中の電気抵抗を測定した。炊き始めから沸騰するまで、抵抗にほとんど変化はないが、炊き上がる瞬間に電気抵抗が10倍以上急変することを見出した。電気抵抗の変化は、そのまま熱伝導の変化となることを突き止め、この原理を応用して、電気抵抗の急増したときにガスが止まるような装置を作った。これが、世界最初の「自動炊飯器」である。
醸造学科で学んでいたとき、バクテリアの中には摂氏90度の熱湯の中でもどんどん繁殖するような、常識では考えられない菌種がいることを知った。酒造りに必要な麹菌を調べていて、麹菌の繁殖に最適な温度は摂氏55度であることを発見した。そこで、炊いた米の温度を55度に保ち、そこに麹菌を入れて甘酒を作ると、それまで熟成に一昼夜かかっていたのが、わずか1時間でできた。この温度だと他の菌はまったく繁殖せず、麹菌だけが繁殖し、おいしい酒ができる。政木のこの発見により、現在日本の酒造りのほとんどは摂氏55度で行われている。
エレキギターを発明したのは学生時代。大阪の劇場である歌手の舞台を見に行った。ギターのなかに小さなマイクを入れて、演奏しながら歌っていた。しかし雑音が入って耳障りで仕方なかった。「もっといい音が出ないだろうか?」
ギターの弦は鉄線だから、磁石とコイルを使えば電気が発生することに気付いた。そこで、マイクを使わずに磁石とコイルで弦の振動を音にしてスピーカーにつなげた。すると、クリアな大音響が出た。「電気ギター」と名付け、実際に阪大工学部で演奏したところ、学校中で評判になった。戦後、外国人バイヤーがこれを商品化し、これがきっかけで世界中に「エレキギター」が広まった。

その業績の偉大さを考えれば、「日本のエジソン」として誰もが知っていてもおかしくないはずだが、残念ながら、現実はそうではない。政木和三の名前を聞いても、ほとんどの人にとって「誰それ?」という感じだろう。
なぜ、こんなに知名度が低いのか?
そもそも業績と知名度は相関しないものである。エジソンがあれほど持ち上げられ、テスラがほとんど無名なのは、結局のところ、政治手腕の有無やマスコミのスタンスに帰着する。マスコミは、ある段階から「政木を持ち上げない」と決めた節がある。
もうひとつには、スピリチュアルなことを言いすぎたせいではないか、とも思う。
政木は輪廻転生を自明のものと考えており、自分が熊沢蕃山(1619~1691;江戸時代の陽明学者)の生まれ変わりだと信じていた。また、因果応報を信じていた。著書にこうある。
「前世で残虐な行為をしたり悪徳をはたらいた人は、現世でその償いをしなければならない。そうしないと、必ず前世の報いをうけることになる。因果応報はどこまでも続く。それを断ち切るには、きちんと償いをし、同時に自分の人間性を高めていくように努めなければならない」
近未来が見える、とも主張していた。すでに1943年には敗戦を予知していたし、昭和天皇の崩御する1か月半前には講演で亡くなる日を予言していた。自身の発明した未来予知の道具(政木フーチ)を使い、「自分は1979年1月末に死ぬと決まっている」と予言していた(これは外れた)。
「人類は過去に4回滅んでいる。物質文明の発達により、滅亡を繰り返した。今、5度目の滅亡の危機に瀕している」「1万4000年前、ムー大陸は日本と陸続きだったが、6000年前に水没した」「3億6000万年前、木星と火星の間の軌道を回る地球によく似た惑星からUFOが地球に飛来し、これが今地球に住む人類の先祖である」
こういうぶっ飛んだ主張をしたところで、政木にとって実質的なメリットは何もない。むしろ、発明家としての名声を自ら貶めるリスクさえある。しかし、これらはすべて、彼が「分かった」ことだった。

なぜそんなことが分かるのか?すべて、「生命体」が教えてくれるという。
「生命体」は政木の著書に頻出する言葉で、彼の人生観を紐解くキーワードである。「第六感」、「虫の知らせ」、「無意識的行動」などは、すべて自分の中にある「生命体」からのメッセージだと政木は考えていた。
自身の発明、あの世の仕組み、生きる意味、人類の歴史、近未来の予知など、すべてこの「生命体」のインスピレーションによるものだと政木は言う。
たとえば敗戦の予知について。
すでに真珠湾攻撃に端を発する日米戦争が始まっていた1943年、政木は誘導弾を発明した。これは、現在の誘導ミサイルの基礎となる画期的な発明だった。ちょうどこれを発明してまもない頃、ふと、「この戦争は負ける」ということが政木には分かった。理屈ではない。ただ、とにかく、彼には「分かった」。大本営発表が日本の優勢を大々的に報じていた真っ最中の時期だった。
日本の敗戦を知ったからには、放っておけないのが政木の性分である。すぐさま上京し、紹介状も何も持たずに、強引に首相官邸に乗り込み、時の総理大臣東条英機に面会を求めた。
面会を許され、東条に直々に訴えた。「このままでは我が国は敗戦します。甚大な被害の起こる前に、早々と降伏するのもひとつかと思います。しかし何としても勝利を求めて戦争継続するということであれば、私の発明した誘導弾が一助になろうかと思います」
その2日後、東条英機が招集した陸海軍の重鎮が居並ぶ前で、政木は自分の提案を発表する機会を得た。提案が認められ、政木は沼津の兵器研究所に行き、所長と会って誘導弾の製造計画について打ち合わせた。政木は著書のなかで回顧している。
「しかし結局、誘導弾は製造には至らなかった。もし戦争があと半年長引き、製造が間に合って第一線で使用されていたら、自分は戦犯として東京裁判で裁かれていただろう」

戦後、政木の誘導弾の技術は、他の実用化されなかった日本軍の技術(Z兵器、細菌兵器など)とともに、アメリカに回収された。戦後も、自動炊飯器の技術が米軍に軍事転用された。
人々を幸せにするべくして作った自らの発明が、軍拡競争に用いられている。政木の胸はどれほど痛んだことか。

参考
「この世に不可能はない」(政木和三著)