浅井一彦とゲルマニウム

授業の内容なんてろくすっぽ覚えてないくせに、先生が授業中に話していたどうでもいい雑談を案外覚えていたりする。たとえば生理学の教授がこんなことを言っていた。「私は茨城出身だが、もともとの先祖は江戸時代に福井から茨城に移住してきた。ダシの味や方言などに福井の文化の名残りがある」

茨城と福井は歴史的につながりがある。
初代福井藩主結城秀康を始祖とするつながりがある一方、

古河藩と大野藩の関係性もあって、茨城と福井をつなぐ縁の糸は一本ではないようだ。

アサイゲルマニウムの創始者浅井一彦先生は、生まれは満州だけど、育ちは茨城で、水戸高校の出身。墓は福井県にあり、今も浅井先生の命日(10月22日)にはささやかな祭祀が行われる。
浅井先生の先祖をさかのぼれば、戦国武将の浅井長政に突き当たる。
長政は福井県の戦国大名で、浅井家の3代目にして最後の当主。善政を敷き、北近江の戦国大名として勇名を馳せたが、1570年姉川の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、1573年北近江の城が陥落。長政の家臣は相次いで織田方に寝返り、同盟関係にあった朝倉家も撤退。信長は朝倉家を滅ぼし、これにより長政の本拠地小谷城は包囲された。信長は降伏を勧めたが、長政は拒否。妻のお市と娘を逃がし、自害を選んだ。享年29歳。

浅井先生の生き様の必死さとか激しさを見ると、浅井先生は浅井長政の生まれ変わりだったんじゃないかと、僕は半ば本気で思っています。

1934年浅井は財閥商社(大倉組)のドイツ駐在員としてベルリンに派遣された。1943年シャロッテンブルグ工科大学を卒業し、エッセン公立石炭研究所に入所し、石炭学の研究に打ち込んだ。
1944年11月22日ベルリンは猛烈な空爆を受けた。敗戦の気配が漂うドイツには英米の爆撃機を迎え撃つ空軍機はすでになく、街に大量の焼夷弾がまき散らされた。この1日の空爆がベルリンに与えた損害は戦争中で最大で、45万人の市民が家屋を失った。
浅井が住むアパートの地域も激しい爆撃を受け、人々は地下室に避難した。しかし4階建てアパートの屋上にも焼夷弾が落ち、建物全体が大きく揺れた。このままではアパートが燃え上がり、地下室にいる全員が焼死するかもしれない。そんな不安に駆られていたとき、若い女性が悲鳴をあげた。
「娘がいない。屋上に残してきてしまった。誰か助けて」
その女性は洗濯ものを取り込みに屋上にあがったとき、空襲警報で慌てて逃げ出し、娘を置き去りにしてしまったらしかった。
老夫婦が浅井に向かって拝むように話しかけてきた。「私たちは年寄りと女子供だけで、どうすることもできません。どうか、娘さんを助けてください」
浅井は勇気を奮い起こして立ち上がった。
非常階段で屋上へ上がると、屋上の隅で膝を抱えて泣く少女がいた。駆け寄って抱きあげたとき、焼夷弾がアパートの屋上に落ち、アサイは少女を胸にかばって本能的に体を伏せた。
激しい爆音とともに炎が吹き上がり、周囲に火の海が広がった。着ている洋服が燃えそうだった。浅井は少女を抱いて火から逃げた。
しかし気が付くと、アパートの3階が燃えている。炎が階下から燃え上がって来るようでは、逃げようがない。このまま屋上にとどまれば焼け死んでしまう。
浅井は覚悟を決めた。少女をきつく抱きしめ、石畳の道路に飛び降りた。うまく足から着地できたと思った瞬間、衝撃のあとに襲ってきた激痛に浅井は意識を失った。

気が付くと見知らぬベッドに横たわっていた。起き上がろうとして右の太腿に激痛が走った。主治医が言う。「大腿骨が折れているので手術が必要です」
「一緒だった少女は?」
「奇跡的に無傷だったようです」
「どうしてここへ?」
「退役した将軍から連絡が入り、衛生兵が運び込みました」
「将軍?」
「私にも詳しいことは分かりませんが、あなたが4階から飛び降りて気絶したのを見ていて、すぐ軍に連絡したようです」
入院中のある日、主治医が興奮を抑えきれない様子で浅井のベッドに駆け寄ってきた。「総統からこれが贈られてきました。剣付鷲十字章の勲章です。フォルクスワーゲン1台もプレゼントされました」

医師は箱のふたをうやうやしく開き、大きな勲章を取り出し、浅井に手渡した。
「勲章?」
「ドイツ軍人に与えられる最高位の勲章です」
「なぜそれが私に?」
「退役した将軍があなたを見ていました。炎のなかから一人の少女を救出しようとするあなたの姿を一部始終見ていたのです。将軍はあなたの勇気に感動しました。すぐに司令部に報告し、ヒトラー総統に勲章を贈るよう指示しました」
剣付鷲十字章はドイツ軍人にのみ与えられる勲章である。それが日本の、しかも一民間人に授与されるというのは異例中の異例である。
「私はあなたのような患者を持って幸せです。完全に回復されるまで、どうか十分に休養してください」
医師は赤らんだ頬を輝かせて握手を求めた。


以上は1944年の出来事である。
時は流れ流れて、2017年。
中村宜司さんの話。「2017年外務省から当社に連絡がありました。一体何事かと思いましたよ。『また何かヤバいことでもあったのか?!』と(笑)
外務省の職員がこんなことを言うわけです。『ユダヤ人の親子がアサイカズヒコという人を探しています。戦火のドイツ、燃え盛る炎のなかで、自分たちを救ってくれた紳士がいた。何とかして探し出し、あのときのお礼が言いたい、と』
それでお答えしました。『それは確かに、当社の創設者浅井一彦だと思います。浅井はドイツ滞在中、様々な人を救ったということを伝え聞いています』
すると後日、ユダヤ人ホロコーストセンター(Jewish Holocaust Centre)というところから感謝状が届きました」

「我々は浅井一彦博士の勇敢な無私の行動に対し、深い感謝を捧げます。博士は第二次大戦中、二人のユダヤ人女性(Hannelore Hauserとその母Margarete Brummund)をベルリンのアパートで守ってくださいました。彼の記憶に幸あれ」

ヒトラーから勲章を受けたことは、今の時代では「ナチスに加担していたのか!」などと批判の種になりかねない。
そうじゃないですから。
浅井先生は愛の人だった。炎に飲み込まれそうな少女を捨て身で守った。そこにはユダヤ人もゲルマン人もない。ただ、人間愛。それだけです。
僕としては、「戦国武将が現代にタイムスリップすればこんな感じだろうなぁ」と妄想します。
そして、浅井博士が生み出したアサイゲルマニウムは、病気に苦しむ多くの人を救い続けている。
そんなアサイゲルマニウムを多くの人に広めるお手伝いをしていることを、僕は誇らしく思います。


浅井ゲルマニウム研究所の志柿松作社長とこうちゃん。年の差84歳(笑)