『藪の中』

ひとつの現象が、見る角度によって全然違ったりする。
ほら、よくある例として、ある物体を見て、一人は「明らかに三角形でしょ」と言い、別の人は「円に決まってる。それしかない」と言い、また別の人は「いや、円というより、楕円と言った方が正確だね」と言う。

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全員正解でもあり、全員間違いでもある。この三人は円錐という同じ物体を見ているんだけど、切り口や視点によって見え方が違う。この例では数学的に「円錐曲線(conic section)」として統一的に把握できて、このメタ認知が一応の「正解」として議論を終わらせることができるんだけど、僕らの日常には、こういう分析の枠に収まらない例が無数にある。文学では、芥川龍之介の『藪の中』がこのあたりの機微をすごく上手に描いていたと思う。
臨床でも同じような例に出くわすことがある。一体何が事実なのか分からなくて、僕は混乱する。

以下、個人の特定を避けるため詳細は変えてあります。
【診療情報提供書】
下記の患者が貴院での通院を希望されていますので、紹介いたします。
【症例】40代女性
【主訴】不安感、ジスキネジア(足の不随意運動)
【現病歴】
平成24年5月10日不安感から精神科を受診し、抗不安薬(リーゼ)を処方された。以後、精神科を転々とし、処方薬もレキソタン、コンスタン、エビリファイなど様々に変遷した。エビリファイについて、3㎎錠から6㎎錠(1日2錠服用)に変更したところ、全身けいれん、特に顎にひどい振戦が出現したことから、服用を中止。以後、抗精神病薬は飲まず、抗不安薬(アルプラゾラム0.4㎎錠)で経過フォローされていた。
当初は同剤を頓服的に使用していたが、次第に効かなくなり、1日3錠、4錠と量が増えた。服用によってハイテンションとなり、酒類(ビール等)と一緒に服用していたときもある。
令和元年12月25日、減薬しようと思い立ち、当院受診。「減薬するにはセルシンがいいとYouTubeで見た」とのことで、アルプラゾラムに代わり、本人の希望通りセルシンを処方したところ、ふらつき、認知機能低下(時間、曜日、人の名前が出てこない)、感覚過敏(人の声がうるさい)、「とにかく頭がおかしい。痴呆症になったようだ」とのことで、またアルプラゾラム(0.4㎎1日2錠)に戻した経緯がある。
現在、ジスキネジアが出現しており、歩行にも差し支えが出ています。これが本人にとって一番不愉快な症状となっています。ご高診、ご加療頂けると幸いです。

本人いわく。
「ジスキネジア、原因がわからないんです。
私、それなりに勉強しているつもりです。舞踏運動とまでは言えないな、ジストニアは固まるほうなので私とは真逆だな、ということはジスキネジアだなって。厚労省のホームページにも薬の副作用で遅発性ジスキネジアが起こるってありましたし。
原因についてはいろいろ考えています。エビリファイを飲んだ悪影響が尾を引いてるのかな、とか。あと、もともとソラナックスはファイザーの先発薬で飲んでたのに、ジェネリックに強制的に変わったんです。共和薬品のやつに。それが原因かも、という気もする。

これ、自分で録画してきました。自分の不随意運動の様子です。見てください。こんなふうに、足の屈伸みたいな動きをずっとしてしまいます。この動きが延々続きます。しかも痛いんです。20代のときにスキーをしてて転んで右足を靭帯損傷してて、そこがすごく痛みます。
薬を減らしたくて、急激にセルシン1錠にしたので、それで離脱が出て始まったのかもしれません。セルシン3錠に増やしたら、頭がボケたみたいになって。
一度脳神経外科にも行きましたが、ベンゾの離脱とかにまったく理解のない人で、話になりませんでした」

うーむ、なるほど。なかなか大変だ。ジスキネジアは「ベンゾの急な減薬による離脱症状」という理解でいいと思う。まずは栄養状態を整えたい。
食事の改善は絶対のマストとして、さらに、サプリ(ビタミンC、ナイアシン、GABA、マグネシウム、ケイ素)も勧めたい。

「先生、サプリ買いたいところですが、私生活保護で経済的にきついんです」
なるほど、そういうことなら、シナール、ペリシット、タチオン、あと、甘いものが好きなら糖質の代謝プロセスでビタミンを消耗しているだろうから、ベンフォチアミンあたりを処方しようか。

「毎日チョコレートとか砂糖菓子は多いので、栄養のアンバランスがジスキネジアの悪化要因、というのはあるかもしれません。
でも、個人的には、引っ越したせいでこういうことになったんじゃないか、と思っています。いろいろ原因を考えましたけど、この説が一番しっくり来ます。
去年、今住んでるアパートに引っ越したんですね。でもそこに住み始めてから、声が聞こえるようになりました。引っ越してすぐに、不眠になりました。声が聞こえるのは夜だけではありません。朝からずっと、です。
こういうことを精神科の先生に言えば、統合失調症、の一言で片付けられそうなんですが、私としてはそんなつもりはありません。家にいると、単純に、声が聞こえます。聞こえるのは家にいるときだけ。外にいれば聞こえません。だから、家にいたくないんです。なんだかんだ、頑張って1年間住み続けてますけど。

声は、最初、私を怒っていました。『ここから出ていけ。俺の家だぞ』と。それでいろいろな嫌がらせをしてきます。寝ようとすると、ラップ音が聞こえます。何かがバタンと倒れるような音。うちには何も倒れるようなものはないのに。ものがなくなったり、急に電気がついたりします。朝から晩まで、頭の中で声がします。
私、もともと霊感なんてあるほうではないんですよ。その私でも「ああ、これはヤバい」と思いました。ネットで検索して、除霊には盛り塩がいいと見て、ベッドサイドや玄関、部屋のあちこちに塩を盛りました。翌日に見ると、盛った塩がばらばらに散ってて、驚きました。
私、ついには夜に電気を消して寝るのが怖くなって、電気をつけて寝るようになりました。そしたら『そんなことやってもムダ』って声がする。もう、本当に怖くて。
声が聞こえるのが嫌で、私、テレビは持たない主義なので、ラジオを買いました。でも、せっかくラジオを買ったんですが、音が悪いんですね。AMもFMも。いや、これは霊のせいというより、うちが四方八方、ビルに囲まれているせいかもしれません(笑)
ジスキネジアの症状が出たとき、『気に入らないから病気にしてやった。はやく出ていけ』と言われたときにはぞっとしました。やっぱり霊のせいなんだな、と思いました。

でも、不思議な話ですけど、悪い霊ばかりじゃないんです。女性の霊もいます。その人、多分江戸時代とか、大昔の人だと思うんですけど、私にいろいろ教えてくれるんです。
たとえば私、洗濯機を持ってないので服は自分で洗うんですけど、風呂で下着を洗っていたら、『こういうふうに洗えばいい』って、もみ洗いの方法を教えてくれました。塩を盛り塩で置いていたんですけど、「そういうやり方では効かない。こういうふうに置けばいい」って、和紙に塩をいれて、糊をまわりにつけてたたんで。その霊の名前は知りません。私、勝手に"主婦様"って言ってるんですけど、その人から悪霊の除霊方法まで教えてもらいました。霊に除霊の方法を教えてもらうっていう(笑)
いや、本当にそうなんです。霊の世界も、いい霊悪い霊、いろいろなんです。
結局、神社でお札を買って、それを家の天井に張って以来、声は聞こえなくなりました。今年に入ってから、部屋に置いた塩も乱されなくなりました。お札が効いて、お札のなかに霊が閉じ込められているのかもしれませんし、どこかに去ったのかもしれません。あるいは、本当に去ったのか、お札をはがせばまた来るのか、わかりません。
現状、霊的なことで悩んではいませんが、今の家、やっぱり怖いです。鏡台があるんですが、鏡を見れません。ふと、後ろに映っていたら、と思うと」

話を聞きながら、「おもしろい」と思った。
僕は基本的に、霊なんていないだろう、と思っている。ただ、「いたら絶対おもしろいのに」とも思っている。世の中サイエンスだけでケリがつくとしたら、寒すぎるでしょ。
満たされぬ感情とか果たせぬ思い、成仏できぬ念、浮かばれない魂。そういうのが実際的な力を発揮して、リアル世界の僕らに力を及ぼすって、こんなに楽しいことないじゃないか。死んだら終わり、どころじゃない。令和の世に生きる40代女性に、もみ洗いの方法を教える江戸時代の霊が存在するんだよ?(笑)こんなにおもしろい話、ないと思う。

診療情報提供書を書いた前医の目線。患者本人の目線。僕の目線。三者の視線が錯綜して、真相はどこやら分からぬ『藪の中』。
文学作品ならこれでいいんだろうけど、僕はこの人を治さないといけない。
まずは食事の改善からだなぁ。