脚気と母乳育児

ビタミンが医者から目の敵のようにされている現代の日本では想像もできないことだけど、百年前の日本はビタミン研究で世界の最先端を走っていた。1911年には鈴木梅太郎が世界で初めて「ビタミン」の概念を提唱した。ただし、この功績が認められたのは日本国内のみであり、様々な事情により、国際的に認められることはなかった。
世界で最初にビタミンを発見したのは、カシミール・フンクということになっている。このポーランドの研究者が1911年「米ぬかに含まれるある種の化学物質が欠乏により脚気が起こることを発見」し、この物質を「ビタミン」と命名、世界初のビタミン発見者として科学史に名前を残すこととなった。
ふーん、ヨーロッパの研究者がいきなり"米ぬか"に注目するとはね。大したオリジナリティだこと。
アドレナリンの発見者(高峰譲吉)が、その発見の功績を認められず、それどころか「彼は私のアイデアを盗んでいった」と誹謗中傷されたり。アメリカの医学会では、高峰譲吉の命名した"アドレナリン"の名称は決して使用されず、"エピネフリン"と呼ぶ教育が徹底されている。
百年前は差別意識がすごかったんだろうね。黄色人種(=黄色い猿)が学問的に大きな成果を上げることは、白色人種にとって許しがたいことだった。
現在では昔ほどの露骨な差別はないと思うし、高峰譲吉の功績を正当に評価しようという声もあって、ヨーロッパでは"アドレナリン"の名称が使われつつあると聞く。
日本の教育も、別に全部が全部欧米に合わせる必要はなくて、「ビタミンの発見者は鈴木梅太郎だよ」ってはっきり教えてもいいと思うんだけど。カシミール・フンクだと教えてるのは、いったい誰に対する忖度なの?不遇の高峰先生に敬意を表して、"エピネフリン"ではなく、"アドレナリン"って呼ぶようにしませんか?「日本の科学技術は百年前からすごかったんだ」という教育がちょっとぐらいあったほうが、勉強してて楽しいんじゃないかな。

さて、百年前の日本のビタミン研究はすごかった。この背景には、日清、日露で脚気による大量の死者を出した苦い経験がある。陸軍軍医総監森林太郎(作家の森鷗外)は「脚気は感染症である」と強硬に主張し、「脚気はある種の栄養失調であり、米ぬかを食っとけば治る」とする海軍軍医高木兼寛の主張を一切認めなかった。結果、陸軍では両戦争を通じて、火器・銃砲による死者よりも栄養失調による死者のほうがはるかに上回ることになった。

脚気に悩まされたのは明治の軍人ばかりではない。"江戸わずらい"の異名があるように、精白技術の進歩とあいまって江戸を中心とする都市部で白米の多食による脚気が頻発した。しかし脚気は江戸幕府の終了とともに姿を消さなかった。それどころか、精製糖質を多食する現代において、"隠れた疫病"のように広まっている。

画像1

当院では採血の際にビタミンB1を測る。驚かされるのは、潜在的脚気の多さである。たとえばこの画像のような、分かりやすい脚気はなかなかお目にかからない(し、現代の医者はビタミンについてあまりにも無知だから、分かりやすい脚気患者が来ても、多分見落とす)。一見栄養状態に特に問題なさそうな人でもビタミンB1値が非常に低いものだから驚かされる。

画像2

こういう人の問診をしていると、まず間違いなく甘いもの好きで、食事も乱れていることが多い。逆に、精製糖質の摂取を控え食事をきちんと摂るようにすれば、血中のビタミンB1濃度はすぐに正常化する。同時に様々な不調も改善するものだ。
こういう人は、脚気に気付くことができてラッキーだった。
たとえば若い女性がこの潜在的脚気を気付かないまま放置し、妊娠したりする。実はこれが一番やばいんだ。
なぜ、脚気のままで妊娠することがよくないのか。古い論文のなかに、すでに答えがある。

『ビタミンB1欠乏による母乳中毒』
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2286425/?page=1
「中国の乳児死亡率は高い。1939年香港の統計によると、中国では出生1000人あたり、345人が死亡する。つまり、3分の1以上の児が生後1年以内に死亡する。夜寝ているときや背中におぶっているときに、いきなり呼吸が止まり、真っ青になって死んでいることに気付く。
現地では悪霊が子供を奪っていくのだと信じられていた。母親たちは魔除けとして窓にお札を張ったり乳児に毛皮の帽子をかぶせたりして、我が子を必死に守ろうとする。
一体乳児の死因は何なのか?
「悪霊のせい」という答えに飽き足らないのが現代科学である。学者は科学のメスで果敢に切り込んだ。
この問題に最初に科学的な回答を与えたのは、1888年Hirotaらの仕事である。彼は脚気女性の母乳を飲む児に一連の症状が起こることを初めて発見し、これらの症状を"乳児脚気"(infantile beriberi)と称した。これ以後、この分野は日本人研究者の独壇場で、多くの画期的研究(たとえばIto, 1911 ; Asakura, 1932 ; Takamatsu, 1934)が知識のフロンティアを切り開いてきた。
彼らの知見をまとめると、こうである。"ビタミンB1欠乏女性の母乳は、単にビタミンB1が不足しているだけではなく、ある種の毒性物質を含んでいる"。
その機序はいかなるものか。
ビタミンB1が欠乏すると、ある種の補酵素が減少し、炭水化物の代謝不全が起こる。この不完全な"炭水化物酸化物"が全身(組織、器官、体液)に蓄積する。産後女性であれば、母乳にもこの酸化物が混入することになる。
この酸化物の具体的な組成は?単一にこれ、とは言えないが、乳酸、アセト酢酸、グルクロン酸、グリセルアルデヒド、アセトアルデヒド、ジヒドロキシアセトン、メチルグリオキサーなどである。これらの物質のほとんど(乳酸は除く)は、ピロ亜硫酸塩結合物質(BBS)であり、ビタミンB1欠乏状態ではこの血中濃度が3~4倍増加している。ビタミンB1の投与によりBBSはすみやかに正常値まで低下する」

脚気のままで妊娠、出産すると、母乳のビタミンB1含有量の低下のみならず、ある種の毒性物質を含む母乳になってしまう。こういう母乳を飲んだ児は、脚気になる。脚気の何が怖いといって、突然の心停止(脚気衝心)である。かつて香港の乳児死亡率が非常に高かったのは、この乳児脚気が原因だったわけだ。

母乳育児が礼賛されている。これ自体はけっこうなことだ。確かに、母乳は人工乳よりも、総じて栄養価的に優れている。しかしその前提として、授乳婦に脚気があってはならない。脚気授乳婦による母乳育児は、むしろSIDS(乳幼児突然死症候群)のリスクである。

潜在的な脚気も怖いが、しかし一番怖いのは、こういうすでに百年前に知られていた知識が、現在の医者にまったくと言っていいほど知られていないことである。産婦人科医で、採血の際にビタミンB1をオーダーする人がどれくらいいるか?恐らくほぼ皆無だろう。
僕らは何となく、時代の進歩によって科学的知見が集積しそれだけ医学も"より良くなる"と思っている。でも実際は全然そんなことない。
知識は、退歩する。医者は、劣化する。
ビタミンの知識がある百年前の医者のほうが、現在の医者よりはるかに質が高く優秀だった。