母なる視点

俺を見る山本の目はやさしい。
山本の見る世界の中で、俺が俺として生きる。
山本の感じ方。それが母なる視点。

めちゃくちゃテンションの高い時に、これ日記のネタになるな、と思ったことがある。

寝て起きて、寒すぎる朝、毛布の中でうだうだしていた時。俺のいいにおいがした。
それを山本になったつもりでかいだ。
めちゃくちゃ興奮した。めちゃくちゃテンションがあがった。
嗅覚の感度が何百倍もはねあがった。
山本も俺のにおい好きなんだなあと、この興奮は表現しきれない。
満ち足りた。今のこの感じだけで生きていけると思える幸福感があった。

おそらくこれだ。母なる視点。
これが俺の無意識にないんだ。
俺はどう?と聞いて、「大丈夫」と返ってくる視点がない。
俺はどう?「特別だよ」
俺はどう?「大丈夫」
俺はどう?「かっこいいよ」
これがないから、俺は甘えが消えない。甘えたことがない。
この視点、この感じ方が出来なくて、無意識に人に甘えようとするとき、嫌な絡み方になる。
俺は受け入れられているという感じ方がないから。
俺は大丈夫じゃないという感じ方だから。
そういう視点で生きているから。

だから俺は、母なる視点を、俺は大丈夫だという感じ方を、意識に乗せて生きていくんだ。
と、いうことを書いた時、そうすることで俺はうぬぼれてのぼせ上がるのではないか、という感じ方をする。
まさに今これ、この感じ方。これが俺の無意識なんである。
この無意識を意識する必要がある。

俺はうぬぼれる奴なのか、ということだ。
これを意識すれば、俺のどこがうぬぼれる奴なんだ、と思える。
俺がいつ自分に都合の良い考え方をしてのぼせ上がったんだ
そんなエピソードはあったかねえよ
俺は地に足の着いた考え方をする奴だよ。現実的な考え方をする奴だ。
五次元とか持ち出すが、今ここで五次元を挙げたのがいい例だろ。
五次元は現実的ではない、ということは分かってるよ。
だから俺は、都合のいい解釈でのぼせ上がらねえよ。

何をやってんだ俺は、一人で。誰に反論してるんだ。
一人で、現実をずっとこんな風に生きてきたのが俺である。
だから無意識に生きていると、人からの反応としての俺しかいなくなる。
俺は、うぬぼれる奴になる。
だがそんなエピソードは無い。


俺に好意的に接してくれる人がいた。
その人は、入り口のシマを飛び越えて、俺を頼ってきた。
やべえ嬉しい。なんで俺。
俺は仕事していて、他の人は暇そうにしているのに。
俺が詳しそうに見えたか?話しかけやすそうだったか?
俺が一番解決してくれそうだったか?ああいいよ、俺に任せろよ。

後日、俺だけじゃなく、違う人にも頼っていた。
ああ、俺だけじゃないんだ。俺は特別ではないんだ。
俺は何でもない、どうでもいい奴で、ただ利用されたんだと。
だから人からの好意に浮かれるな、喜ぶな。そういう感じ方をする。

でもよかった。これでよかった。
ここで気づけたからよかった。俺は特別ではない。
特別などと思ってはならない。そう思っては、勘違い野郎になる。
そうならなくてよかった。よかったよ、俺は大丈夫。気づけているから。
俺はおかしなことなどしない。勘違い野郎にはならない。

俺の中に「俺は勘違い野郎なのだ」という感じ方があった。
どこでそうなったんだ。俺が勘違いをしたことがあるか。
俺が「自分は特別だ」と思い上がったことはあるか。
そうやって人に絡んで、「勘違い野郎」と事実そうなったことはあるのか。
そんなエピソードはない。
俺は何もしていない。何も。


梱包材の、プチプチを潰していってるような気分だ。
無意識が膨大すぎる。
そりゃそうだ。何年もこの感じ方で生きてきたんだから。
全部見つけて、全部潰してやる。

これが自我の確立でもあると感じている。
俺の中に、確固たる俺が出来ていく。

山本から見た視点はとても心地がいい。
こんな心地よい感じ方をしてもいいのか。
いいんだよ、俺は大丈夫だから。ちゃんと出来てるから。
出来てなくても、特別だから。
涙が出てくる。こういう感じ方が今までなかった。
あー、明日の顔の仕上がりも最高になるな。フハハ。