見出し画像

風を切るおじいちゃん

私はパートである。
そこの会社での勤務の仕方は少し変わっていて、時間というより仕事で区切られている。
毎日やらなければならない仕事が決まっていて、それが終わらなければ帰れない。もしくは早く出勤してやらなければならないというような状態である。

そういったわけで私は一時間早く出勤した。
いつもであれば居間の床でひっくり返ってる時間に昼食を食べ、いそいそと出かけたため、やる気はない。そこをいつも誤魔化しながら仕事をする。

寒かったのでヒートテックを着込み、コンビニでコーヒーを買った。梅雨でぶり返した寒さにぬくぬくで対応しようという腹づもりである。
傘をさすほどではない雨が降っていたので、最近買った完全防水の靴にした。三日前に始めて履いた時は靴擦れができてしまったため、絆創膏を貼り厚めの靴下を履いて防備も固めてある。

なんという万全な対策であろう。こんなにお膳立てしたら仕事があっという間に終わることは間違いなし。
早く仕事が終わった暁には甘いものでも買って帰ろう。家にいる旦那も今日はだいぶ早いのね嬉しいわと喜ぶだろうと妄想を逞しくしていると、道路の反対側から声が聞こえてきた。

「ちょっとお尋ねしたいのですが」

自転車に乗ったおじいちゃんである。
聞こえるように私も声を張り上げる。

「どうなさいましたか?」

おじいちゃんは道路を渡りながら私に事情を説明する。
道路のど真ん中で立ち止まって話そうとするので、とりあえず渡りましょうと促し、なんとかこちら側にやってきた。

「ぼくね、〇〇郵便局に行きたいんですよ」

地図で探すと徒歩10分の距離である。
道もそんなに難しくないが、何せ私も行ったことがない場所のため、口頭で説明するにも難しい。

「歩いて10分くらいなんで一緒行きますよ」

「ありがとうございます。親切な人に声かけてよかった」

おじいちゃんはとても喜んでニコニコしていた。
そうと決まれば行かねばならぬ。おじいちゃんの自転車を苦労しいしい方向転換していざ参る。

出発して10秒、おじいちゃんが自分のことを話しだす。奥さんがボケてしまって今は東京の娘のところに身を寄せているらしい。
自分は腰が痛いくらいですんでいるんだ、85歳になるんですよ。そうなんですか、すごく元気じゃないですか。そうでもありませんよ。腰が痛いから自転車の方が楽なんです。あ、そういうことだったんですね、乗ってください。

そうですかと言いながらおじいちゃんの自転車は、遠慮なく道路の真ん中で容赦ない加速をする。
私はその時コーヒーを買った自分を恨んだ。足元も以前靴擦れした靴である。防備は固めたが、恐る恐る歩いて慣らしているのだ。
今の私は「ザ・走るのには全く向いてない女」の象徴だ。

精一杯の競歩で追い縋るが、おじいちゃんはぐんぐんいく。端に寄りましょうの声は届かない。連れ立って歩く大学生風の若者を追い越し自転車で気持ちよく進む。

脳内で飼い犬に引き摺られる飼い主の図が思い浮かぶ。
おじいちゃんも犬も風を感じたら止まらない生き物なのかもしれない。
と思ったが、必死に足を動かして散歩させられてるのは私である。

ヒートテックの効果もあり、汗をダラダラ流しながら叫ぶ。
「そこ、曲がりますよおおお!左ですうう!!」
若者に二度見をされながら急ぐ。

その道は5叉路であり、おじいちゃんはそこで止まって待っていてくれた。
さてこの5叉路からは私も未開の地である。
心は探検隊、実際にはおじいちゃんを追いかけて汗を流しながらコーヒーと靴を気にして変な歩き方になっている女。

私は緊張のあまり道を間違えた。いくべき道の隣に進んでしまった。

「あなた間違えなすったね」

なぜかおじいちゃんは嬉しそうである。
そこからはしばらく一本道なのでそこは安心であったが、おじいちゃんは再び解き放たれた。
変な女は追い縋る。

途中でおじいちゃんの靴が脱げ、それで追いつくことができた。
プルプルしながら自転車に乗った状態で取ろうとする。もちろん取れない。
何のこだわりなのか絶対に降りない。ハンドルを握ると性格が変わるという人種なのかもしれない。靴は私が取って履かせた。

「どうもすみませんねぇ」

止まったついでに自分が持ってきたという地図を見せてくれた。
プリントアウトしたものだが、すごく粗い。細い道なぞ書いてありはしない。灰色のただ中にピンが立ってるような代物である。
この地図で〇〇郵便局に辿り着こうとするとは冒険者の中の冒険者だ。5叉路如きでウキウキしていた自分を恥じた。目の前の冒険者と私とでは何という違いであろう。この冒険者は85歳で風を得たスピードスターでもあるのだ、強すぎる。

おじいちゃんを追いかけ、もう一度「そこ曲がりますよおおお」をして、やっと郵便局に着いた。

「ありがとうね、あなたの仕事が遅れちゃったら申し訳ないね」と言いながらおじいちゃんは郵便局に消えていった。
帰り道は大丈夫であろうか。なんとか無事に帰ってほしい。
汗だくの私は水分を求めてコーヒーを飲んだ。
そしてその時に、もっと早くコーヒーを飲めばもう少し歩きやすくなってたなと気づいたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?