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進撃の巨人を読みました

今更ながら進撃の巨人を読了した。34巻、とりあえず一周。この間小説を知り合いに勧められて一冊ななめ読みして以来、本をざっと読むことに抵抗がなくなった。

ぼく自身はデリケート人間で、15歳だかの時に実写版の進撃の巨人が公開されて、高校の友達と一緒に見に行ったら、冒頭に巨人に人がバクバク食われるシーンがグロくて早々に退散した。それは怖くて仕方なかった。人が食われるなんて、ぼくの脳の処理が追い付かなくて、どう受け止めたらいいのか分からなかった。
進撃の巨人の展示も地元でやっていたので見に行ったけれども、何も影響されなかった。それよりも新設した市内の美術館の大きさとモダンな建築の方が印象に残っている。

あまつさえ諌山先生の地元、日田には趣味で訪れたこともあるが、「閉塞感」というものは何も感ぜられなかった。あー、いい田舎だな、日田の天然水が美味しい、というような、非常にあやふやな感想を抱いて観光を終えた覚えがある。

しかし進撃の巨人は面白い作品だった。もし日田に今度訪れたら、また違うことを思うのだろうか。何かをするためには何かを捨てないといけないという覚悟、これは実生活でもたぶん真理なのだろう。他人をあまり優先しすぎると「お人よし」という烙印を押される。

ぼくはお人よしという言葉は一種の不名誉な言葉だと思っている。外からすれば優しい人のように見えるかもしれないが、ようは外に振り回されやすいだけであり、自我がないだけであり、それは相手にとって浸食しやすいだけなのだ。自我があって、人と物の関係、つまり人が物(オブジェ)に対して一方的に振るう暴力の関係ではなく、人と人の関係、つまり一方が暴力を振るえば他方も振るうかもしれない緊張感、つまり〈対立関係〉を孕む一種の恐ろしさを人間のアイデンティティに考えている。人間同士の関係に入るとは、傷つけ、そして傷つけられることだと思う。

自分の意志を達成するために何かを捨てる、その覚悟は必要なのだが、残酷ゆえにそれ単体では受け入れられない。好きな物への夢中や、覚悟があってはじめて、知らず知らずのうちにか、もしくは知ってか、何かを切り捨てていたりする。自我あってこその取捨。


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