半径1m
今日は鬼越トマホークのラジオを聴きながらハローワークに行って、待合スペースで番号を呼ばれるまでの間ラジオで繰り広げられている会話にマスクを深く被って人知れず泣いちゃった。これだからラジオはやめられない。息苦しい世の中、世間、村、家族、兄弟姉妹、学校、その他色々に苦しみながら、一筋の希望を胸に夢に挑戦して、例えば憧れの人と一緒に仕事ができるようになったとか、憧れの人に結婚の報告ができたとか、そういう話を聞いて私はね、坂井ちゃんよかったねって嬉しくて泣いちゃうし、同時にあぁ自分には夢があるんだなって感じるわけです。今こんな場所に座って順番を待っているし、実は夢なんてなくて思い込みで本当は自分には何もないんじゃないかってくらいたくさんの時間と自由を確保したのに生気がないし、本当にダメだ。でも坂井ちゃんの涙ながらの話に鎧で守った奥の奥の中井が共感して、そうだよねそうだよねって頷いていて、祈るようなメーデーに応えようと決心したのに何躊躇してんだよって理性の中井も心の中井もツッコミをいれています。何が足りないんだろうか。
その後ラーメン二郎を食べて(チャーシューが普段より明らかに薄かった)芝生を眼前に構えたカフェでアイスコーヒーを飲みながら水野学さんのブランディングデザインに関する著作を最初から最後まで一気に読んだ。
これ図書館で借りていたけど手をつけていなかった本で、翌日に返却しなければいけないものである。明日という明確な締め切りがハッキリしていると、急に謎のやる気が漲ってきて一気にやってしまう。とはいえ今回は本を読むだけだけど、経験上、難易度が高い行為でも締切が他者から定められていて今やるしかないという場合の集中力の昂りは我ながら目を見張るものがある。他者はうざいのに、自分を奮い立たせてくれるのは時に他者なのだ。
じゃあ常に他者を同伴していたら良い、というわけにいかない。独りを渇望しているし、時に他者の存在を息苦しく感じる。消え去りたい。
そんなこんなで帰宅してもう一冊、明日が締め切りの佐藤卓氏の本を読破した。その2冊を手で掴んだ状態で図書館まで歩き返却ポストに投函する。こうした営みに触れて、蝉の鳴き声や木漏れ陽の落ちる公園を前にして、あぁ自分は矮小なただ一人の生き物に過ぎないんだなぁといつの間にかすり減り始めた足元のビーチサンダルを前へ前へ繰り出しながら思うわけです。そういう場面でも直面しない限り、自分は特別なんだみたいな幻想が抜けきれない酷い有様を晒していることを忘れながら生活している。恥ずかしい。書かない方がいいんだこんなことは。でも今日はそんなことを感じた。
図書館に返さなきゃいけない本を一生懸命読み終えるとか、手で触れれる範囲くらい近くて自分を大事にしてくれる人に誠実でありたいとか、ライブに来てくれる人とか、本当に近い物事にしか心からの興味が湧かない。遠くに飛ばすの、マジで向いてない。目の前の貴方、のためにアクションする時に私は活きるっぽいんだけど、誰でもない空想のでも確かに届けたいそこの貴方に刺さるようにコツコツピコピコやっている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?