青狸

『2浪目の夏、徐々に涼しくなり汗をかく事も減ってきたが、背中に浮かぶ不快な汗だけは一向に引く事を知らない。悲願の第一志望合格を目指しひたと勉強に励む日々の中で、私はふと将来の事を考える。お世辞にも快晴とは言えぬ、ともすれば薄暗い雲が際限なく広がっているような陰惨な人生の雲行きを見上げながら、日夜重苦しいため息を溢す私の事を、きっとどこかで誰かが笑っている。将来への漠然とした不安など、今はもう遠い昔の思春期より常に頭の片隅にはあるのだが、最近はより一層強く、鈍色の重石のようにじくじくと胸を押しつぶす。

もし今年第一志望に合格しても、次は就職先で、次は年収で、次は結婚相手で、常に私は自分より優れた誰かを羨み、そして妬むのだろう。自らの怠惰を恥ずかしげもなく棚に上げ、他人の努力の上に成り立つ栄光に、あろう事か泥を塗ってやろうとすら考える。そんなこの上なく意地汚く惨めな私に、本当に幸せを掴む事など出来るのだろうか。この勉強という歩みの先に光明があるなどまやかしで、私のしている事は壊れ得ぬ壁に必死になって釘を打ち立てているようなものなのではないか。私が私である限り幸せなどあり得ないのではないか。そんな事を考えてしまい、気付けば私のペンはぴくりとも動かない。ノートに記す事が出来ないそれは、単に問いに対する解答か、あるいは幸せの具体か。確かに分かることはただ一つ。

「ダメだ。このままでは幸せにはなれない」

言葉にした途端、滂沱と溢れ出した涙で視界がぐにゃりと歪む。なんとか是正しようと力一杯ノートに爪を立てるが一度始まったそれはもう止まらない。ビリビリとノートが破れていく不可逆の音が徐々に遠くなり、代わりに聴こえるのは誰かの悲痛な叫び声。豪雨をつんざく金切り声、黒鉄色のうめき声、縊られ吊られる家畜の断末魔、ありとあらゆる不快と嫌悪と絶望と、果たしてこの泣き声は誰のものか。

うるさい。黙れ。
黙れ。
黙れ。
それでも一向に止まらない。何故か。

ああ、これは私の声だ。
私の、私に対する怨嗟だ。

自覚すると何もかもはそれまでだった。既に取り返しのつかないほどに歪み切ったどす黒い世界の中でひたすらに私は叫び続ける。枯れた声をそれでも搾り出し、喉を掻きむしり、首からは大粒の血が溢れ出し、爪はポロポロと剥がれ落ち、血だらけの身体を地面に打ちつけながら、切に希求する。幸せの在処を、その輪郭を。夢と現実はその境界を徐々に失いはじめ、途切れかける意識の中で、ふと私は最後の、最期の手段に訴える。
天啓のように降ってきた、今考えうる最善の解決策。
これしかない。これ以外にない。
朦朧とした意識の中だらりと涎を垂らしたままゆっくりとノートパソコンに手を伸ばし、白滅する世界をなんとか繋ぎ止め、震える手で検索窓にこう打ちこんだ。

「幸せ なんJ」

そして全てが解決した。星も見えなかったはずの曇天は今や花束のような彗星に彩られ、水溜りは宝石に見紛う紫色の雲を宿し、萎れた花々はそよ風に口笛の伴奏を添え、犬も猫も大地の踊りに身を任せる。望まぬものは何一つない。雨の代わりに愛しさが降ってくるような、誰かの幸せにつられて思わず優しい笑顔が溢れてしまうような、そんな幸せの中心に私は立っていた。手頃な小石を拾い上げ、何の気なしに桃色の空に放り投げると、ぱっと大きな河が掛かる。私はその河に天の川と名前を付けた。やはりなんJは偉大である。赤い服に着替え、トナカイと共に世界中の子供に幸せをお裾分けしながら、私は改めてなんJに深い感謝を捧げた。

その後私はなんJの教えを頼りに無事第一志望に合格し、今は気の合う友人に囲まれ楽しいキャンパスライフを送っている。「友達作り なんJ」で調べてみて正解だった。もちろんサークル選びも抜かりはない。「サークル なんJ」で検索したうえだ。そういえばこんな俺にも彼女が出来た。「彼女 なんJ」と打ち込むあの時間が無かったらこの幸せはあり得ない。既に「就活 なんJ」と日夜サーチを掛けている私に隙はない。この先もなんJさえあれば幸せは確約されたようなものだ なんJ   こんな事ならもっと昔からなんJを使っていれば なんJ   1浪目の予備校代も使わずに済んだ なんJ   だろう。2浪目の文字通り血を なんJ   吐くような日々も なんJ   きっと要らなかった なんJ   はずだ。3浪目の精神 なんJ   疾患も、4浪目の なんJ   自殺未 なんJ   遂も なんJ   その先の なんJ   地獄も なんJ   きっ なんJ   と なんJ…

はて、私は2浪ではなかったか。

まぁ、もう良い 

全てはこれで良い 

もう、このままで。このまま…    なんJ』

翌日の朝、実家の子供部屋で錯乱の末に首を掻き毟り失血死した8浪男性のニュースが地方紙の一面に小さく取り上げられ、そしてすぐに忘れられた。


去年書いてたやつ。

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