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ペルソナ的世界【15】

【15】森岡正博のペルソナ論─ペルソナの諸相3

 前回抜き書きした文章のなかに、「目の前の相手から受け取る独特の個性の印象(「わたし」とは全く異なるもう一人の「わたし」という主体存在の印象)」(八木雄二)という表現がでてきました。これにもつながりうる話題として、以下、森岡正博氏のペルソナ論を取りあげたいと思います。
 実は、「ペルソナ的世界」を立ちあげたのは、森岡氏が提唱する「アニメイテド・ペルソナ(animated persona)」について考えてみたいと思ったからでした。まず、この概念に至る前史、“森岡正博のペルソナ論”を構成する諸論文の概観からはじめます。

①「パーソンとペルソナ──パーソン論再考」
  /『人間科学:大阪府立大学紀要』第5号(2009年)

 この論文で森岡氏は、生命倫理学における「パーソン論」(自己意識主体に限定して生存権を持つ存在者=パーソンとして認める)を批判し、「自分たちの同類である」ことにではなく「その存在者が自分にとってこの上なく大切である」こと、すなわち「関係の歴史性」に着目する概念として「ペルソナ」を提示する。

<私との個別的な「対関係」のうえに生成してくる何ものか>

《ペルソナとは、他人の身体のうえにあらわれたところの、言語を用いない対話をすることのできる何ものかのことである。そのような対話をすることができるのは、ペルソナのあらわれる身体をもった人間と、そのペルソナを感じ取る人間のあいだに、長い時間をかけて培われた関係の歴史性があるからである。その歴史性のなかに堆積した記憶の積み重なりが、ペルソナとなって二つの身体のあいだに立ち上がり、「私とペルソナの対話」として私に感受されるものを、私に経験させるのである。したがって、ある身体にペルソナが立ち上がるかどうかは、その身体と私とのあいだの関係の歴史性に依存する。ある身体が、どんな人に対してもペルソナとして立ち現われるわけではない。ペルソナの立ち上がりは徹底的に個別であり、普遍妥当性は持たない。この意味で、ペルソナは私との個別的な「対関係」のうえに生成してくる何ものかである。》

②「ペルソナと和辻哲郎──生者と死者が交わるところ」
  /『現代生命哲学研究』第1号(2012年)

 和辻哲郎の「面とペルソナ」を踏まえて、森岡氏は次のように論じている。
 あたかも生気の吹き込まれた能面が「ペルソナ」となり、舞台上の人格の座となって肢体をふたたび獲得するように、「家族が脳死患者の身体にペルソナをありありと感受するとき、家族は脳死患者の身体を、ちょうどペルソナが受肉したものであるかのように理解するであろう」。

<「ペルソナ」としての「死者」>

《ここから、「死者」のひとつの意味が明らかになる。それは、もう生きてはいないけれども、「ペルソナ」の宿っているような人間の身体のことである。脳死の人の家族が、脳死の身体はもう生きていないと考えていたとしても、そこに「ペルソナ」を感受していたとすれば、その脳死の身体は家族にとって「死体」ではなく、「死者」であるということになるだろう。「ペルソナ」は、「死体」を「死者」へと引き上げるはたらきをする何ものかである。(略)
 「ペルソナ」としての「死者」とは、自己意識を持っておらず、実体として存在しないにもかかわらず、そこにその人が存在しているという確かなリアリティをもって私に迫ってくるような何ものかなのである。古来より「幽霊」と呼ばれてきたもののうちのある種のものが、この「ペルソナ」としての「死者」に近いように思われる。》

③「ペルソナ論の現代的意義」
  /『比較思想研究』第40号(2013年)

 森岡氏はこの論文で、(坂口ふみ『〈個〉の誕生』に多くを依りながら)西洋思想史における概念の歴史的変遷をたどり、自らが提唱してきたペルソナ概念を振り返っている。

<届いてくる声、響いてくる声に耳を澄ませること>

《森岡のペルソナ概念は、これら歴史的に脱落してきた重要な意味を、現代の文脈にふたたび取り入れようとするものである。すなわち、脳死の人との「対話」「会話」にペルソナを見るとは、脳死の人から届いてくる声、響いてくる声に耳を澄ませてそのリアリティを担保することであり…、死んでしまった人間が死者としてふたたび現われるという実感をペルソナとして捉えるとき、それは生命を与える息吹のようなものをそこに感受しようとしているのであり…、脳死の人にペルソナが現われる理由を関係の歴史性に見ようとすることはまさに存在が交わりであり関係であることを確認することである…。…神との関係については確言することはできないが、生者のみならず死者もまたペルソナとして現われて対話することができるという世界観は、何かの超越者との関係において人間の存在を捉えようとしていることにつながるように思われる。
 と同時に、西洋のペルソナ概念と相容れないように見える側面もある。それは、森岡の言うペルソナは、理性や自己意識を持たない存在者、たとえば脳死の人、死者として現われる者、あるいはロボットや人形にまで現われる。これは、キリスト教で思索されたペルソナとはまったく異質なものであろう。しかしながら、仮面から声が届いてくることや、生命を与える聖霊の動きという意味にまで遡れば、それらこそがまさに私の言うペルソナを支えているものであるようにも考えられる。》

④「人称的世界はどのような構造をしているのか──生命の哲学の構築に向けて(10)」
  /『現代生命哲学研究』第7号(2018年)

 この論文で森岡氏は、かねてから進めてきた「ペルソナ論」の試みと「独在論」の議論を「人称的世界 the personified worid」の哲学のもとに合流させている。
 以下、議論の中心をなす「人称的世界の9象限構造」(一人称・二人称・三人称の三つの主体と、一人称・二人称・三人称の三つの指示対象という二つの軸を組み合わせることで得られる区分)のうち、「ペルソナ的主体」に関連する記述のみ抜粋する。(永井(均)哲学にかかわる「独在的存在」の議論が興味深いが、ここでは割愛する。)

<そこに人がいるという否定しがたいリアリティ>

《二人称的主体(ペルソナ的主体)・・・そこに人がいるという否定しがたいリアリティでもって私に迫ってくるような主体のこと。

 …二人称的主体とは、目の前に人がいるという否定しがたいリアリティでもって私に迫って来るような主体のことである。たとえば、私が誰かと楽しく食事をしているとき、私は、ありありとした人の存在を目の前に感じ取っている。目の前に人がいるというリアリティは疑いようがなく、私はそこに人が確実にいるという前提でもって、その人としゃべったり、笑い合ったりする。そのときに目の前の人の身体に現われている主体が、二人称的主体である。私が誰かと楽しくしゃべっているとき、私はその相手の頭の中に魂やクオリアが存在しないかもしれないとか、ほんとうはよくできたロボットかもしれないと本気で疑ったりはしていない。この意味で、二人称的主体とは目の前の人の身体の背後に隠れて存在する精神的実体のことではなく、私の前にありありと現われてくるところの、そこに人がいるとしか思えないという迫力のことであると言える。それはまた「ここにいるよ」という「音波のない声」として規定することもできる。
 脳死の子どもには自己意識は存在しないと考えられるが、その子を前にした親が、自分の子どもの身体に「まだその子がいるとしか思えない」というリアリティを持つことがある。彼らは、その子の身体にまだありありと現われているその子に向かって語りかけ、その身体を撫でるのである。このときに、その親に対して現われているところの、そこにその子がいるとしか思えないというリアリティのことを私は「ペルソナ」と呼んできた。「ペルソナ」は、目の前の身体に自己意識がなくても、その身体に立ち現われ得る。能舞台では、能役者が顔に付ける木製の能面の表面にさえ「ペルソナ」が現われることを和辻哲郎は指摘した。私は二人称的主体のことを、ペルソナ的主体とも呼ぶことにする。》

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