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ペルソナ的世界【5】

【5】感覚質・体験質・人格質─クオリアとペルソナ・続々々

 クオリアの働きを「情報の圧縮」と見る茂木健一郎氏の議論は、ベルクソンの「凝縮説」[*]に通じています。平井靖史氏は『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』において、ベルクソンのこのアイデアを精錬もしくは拡張しています。以下、その第1章「時間で解くクオリアの謎──物質の時間と意識の時間」から、関連の個所を抜き書きします。

○ベルクソンの哲学は、マルチスケールというあり方を人類史上初めて本格的に組み込んだ、まったく新しい時間概念を提唱するものである。(41頁)

○ベルクソンは、クオリアに関する随伴現象説(脳が感覚クオリアを生み出すという仮説)を熾烈に批判し、「時間の観点」からクオリア生成の問題(心身問題)にアプローチした。(45頁)
 まず、「体験の時間」=「持続」を「計測の時間」から区別し、前者の時間体験が「特定の時間スケール」によって制約されている──私たちは速すぎる(電磁波レベルのミクロな)変化も、遅すぎる(天体レベルのマクロな)変化も「流れ」として体験できない─という事実が、意識の成立条件に関係していることを明らかにした。(48-49頁)
 次いで、「持続」が多元的であること、ただし単に複数の時間が「並行して」走っているというだけでなく、ミクロからマクロまで多層的なスケールの時間(マルチ時間スケール:MTS)が同じ一人の人間のうちに「縦に積層している」ことを明らかにした。(50頁)

○ベルクソン=平井による「時間のマルチスケール的共存」あるいは「意識・心に関するMTS構造」の概要は次の通り。

《…時間の流れを体験する〈持続〉の水準を中心にして、ベルクソンの議論は、上方と下方に時間階層が広がっている。(略)
 階層0には「物質」が位置し、階層1との時間スケールギャップを通じて「感覚質」(現代でいう感覚クオリア)をもたらす。これが、ベルクソンが『物質と記憶』第四章で展開している「凝縮説」であ[る]…。
 階層1と階層2のあいだに持続が成立するわけだが、ここでは上下の時間階層間の‘縦方向の’相互作用が必要になる…。なお、「注意的再認」(意識的にものを見聞きすること)におけるトップダウンのイメージ投射…もこの現場で起こる。つまり、私たちの外界認識というものも、下の速い処理と上の遅い処理からなるハイブリッドな仕方で構築される。今のところは、「持続」と一口に言っている現在の流れが、実際には‘下と上の時間スケールが合流する’ことで成り立つらしいということを押さえておいてほしい。
 階層2は体験の現象的側面の「記憶」(これを本書では「体験質」と呼ぶ)を構成し、それらが累積した 階層3は「心」の現象的側面を構成する(同じく「人格質」と呼ぶ)。私たちは、現在の枠内に切り詰められた物体ではない。人生という巨視的な時間を貫いて存続する一人の人格である。この巨大な時間的リソースが、その粒度をダイナミックに変動させうるようなシステム形成を可能にする。これが「意識の諸平面」を擁するベルクソンの記憶の逆円錐モデルのコアを成す考えであり、そこから私の意志的活動・志向性が与えられる…。
 そこに含まれる膨大なリソースを展開し、自動的あるいは能動的に操作することで得られるのが想像や想起、一般観念、注意といった高次認知の働きである…。》(『世界は時間でできている』54-56頁)

 これを図示すると、以下のようになる(平井前掲書56頁の図を簡略化し、若干“加工”して作製)。

  [メタフィジカルな界域]

     【ペルソナ】
 [階層3]人格質(心・私)
       ├ 想起・観念・注意
 [階層2]体験質(記憶)
       ├ 持続(流れ)
       │ 注意的再認
 [階層1]クオリア(感覚質)
       ├ 凝縮
     【クオリア】
 [階層0]物質

   [マテリアルな界域]

 ──以上の議論を、私なりに“拡張”してみます(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第80・81章参照)。

・「階層1」の「感覚的クオリア」に対応するものとして「語クオリア」なる概念を導入する。これは、言語の単位となる「語」がもたらす独特の感覚──“この”意味や“この”存在に呼応する語として、“この”響き、“この”感触はまさに“これ”でしかない、という必然的な繋がりの感覚、あるいは「言霊」と呼んでもいい、語に伴う強い感情──を指す。

・「階層2」の「体験質」(あるいは「記憶クオリア」)に対応するものとして「文クオリア」なる概念を導入する。そこでは「語」が連辞のルールに則って水平方向に結合する。「階層1」からの(上方へかう)垂直方向の力の作用が強いと、それは呪言や異言(ゼノグラシア)もしくはグロッソラリー(©種村季弘))、非人称的な言語実践(マラルメ)となり、「階層3」からの(下方へ向かう)垂直方向の羈束のもとで、干乾びた「魂なき言語」(古田徹也『言葉の魂の哲学』)か「言語ゾンビ」(茂木健一郎『クオリアと人工意識』)による言語実践に頽落する。

・「階層3」の「人格質」(あるいは端的に「ペルソナ」)に対応する「文章クオリア」なる概念を導入する。それはウィトゲンシュタイン=野矢の議論に登場した「シューベルト」に対応している。「体験質(記憶クオリア)としての文」が累積することによって構成される「人生という巨視的な時間を貫いて存続する一人の人格」のクオリアである。

[*]ベルクソンは『物質と記憶』(杉山直樹訳、講談社学術文庫)第四章の「持続と緊張」の項において、クオリアの凝縮(contraction)について論じている。
 いわく、二つの異なる色が相互に還元不可能で非連続なのは、両者が「われわれにとっての一瞬のあいだにも実際には数兆回の振動を行いつつ、それが非常に狭い持続に凝縮されているということに由来している、と考えることはできまいか」。

《われわれの意識が体験している持続は、ある特定のリズムにおける持続であり、それは物理学者が論じる時間、すなわち与えられた間隔のうちにいくらでもたくさんの現象を収めることができる時間とは、まったく異なる。一秒のあいだに、赤色光──光の中で最も波長が長く、したがってその振動数が最も少ないもの──は継起的振動を四〇〇兆回行っている。これがどれくらいの数であるかを理解してもらうには、われわれの意識がそれを数えられるか、あるいはせめてその継起をそれとして記録できるまでにそれらの振動を相互に引き離して、当の継起が何日、何カ月、何年を占めることになるかを調べてみなければなるまい。ところで、われわれが意識できる最も短い時間の間隔は、エクスナーによれば、二ミリ秒である。その上、これほど短い間隔が複数続いた場合でもそれを〔きちんと〕知覚できるかどうかは疑わしい。それでも、われわれにはそれがはてしなくできる、ということにしておこう。つまり、一つ一つは瞬間的な四〇〇兆の振動が、互いに区別されるのに必要な二ミリ秒の間隔を空けながら並んでいるところに立ち会う意識というものを想像してみるのだ。ごく簡単な計算で、この作業を終えるには二万五〇〇〇年あまりが必要になることが分かる。したがって、われわれに一秒間体験される赤色光の感覚は、それ自体においては、われわれの持続で最も時間を節約して展開されても、われわれにとっての歴史の二万五〇〇〇年あまりを占めるような諸現象の継起に対応しているわけだ。》

 ベルクソンの「凝縮」は、感覚的クオリアの生成という物質のレベル(ミクロな時間スケール)から、人類史のレベル(マクロな時間スケール)にまで及ぶ。

《…持続には唯一のリズムしか存在しないわけではないのだ。われわれは数多くの異なるリズムを想像できる。ゆっくりか速いかに応じて、これらのリズムは、さまざまな意識の緊張度ないし弛緩度を示す尺度になるものであろうし、またこのことから諸存在の系列におけるそれらの意識それぞれの位置を定めるものでもあろう。伸長度の異なる複数の持続というこの表象は、われわれの精神にとっておそらく考えにくいものではあるだろう。意識が直に体験する真の持続を、等質的で〔意識からは〕独立した時間に取り替える、という有用な習慣を身につけてしまっているからである。だが、まず言うなら、かつて示したように、以上のような表象を考えにくいものにしている錯覚を暴くことは容易だし、加えて言えば、そうした発想は実はわれわれの意識の暗黙の同意をとりつけている。眠っているあいだに、自分の内に同時にありながらも別々の二人の人間を捉えることがないだろうか。その一方は数分間眠っているだけなのに、もう一方は数日や数週間にわたる夢を見る、というわけだ。そしてさらに言えば、われわれの意識よりもいっそう緊張した意識にとっては、歴史の全体ですら、ごく短い時間に収まるのではないか。そして、そうした意識なら、人類の歩みに立ち会いつつ、それを歴史展開上の主要な諸段階にいわば凝縮するのではないだろうか。だとすれば結局、知覚とは、限りなく薄められた存在の長大な諸期間を、さらなる強度をそなえた生のいっそう異質化された諸瞬間に濃縮すること、かくして非常に長い歴史を要約してしまうことなのだ。知覚するとは、不動化するというこのなのである。》

 平井靖史氏は、ベルクソンの「(持続の)リズム」を「(時間の)スケール」と読み替え、ここで論じられている「異なる持続のリズム」の議論(持続の多元論)を「マルチ時間スケール(MTS)」の理論へと精錬している。

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