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 仮面的世界【32】

【32】仮面の記号論(広義)─アレゴリーをめぐる若干の覚え書き

 アレゴリーをめぐって、かつて私的に思考をめぐらせたことがあります(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第63-64章)。
 まだ確たるものになっていないその帰結を一言で括ると、アレゴリーとは、詩的言語(直接性の言語)と公的言語(間接性の言語)を媒介する「文字像」(ベンヤミン)であり「私的言語」である、となります。
(ウィトゲンシュタイン由来の「私的言語」は、永井均氏の議論を(勝手に)踏まえて、本来言葉では表現できない「純粋経験」──「空(ヴァーチュアリティ)/現(アクチュアリティ)」の現実性の垂直軸にかかわる出来事──を語る言語である、と定義した。)
 以下、アレゴリーと文字(像)、あるいは仮面との関係に関連する個所を、例によって加筆修文の上、自己引用します。

 ……私的言語とはアレゴリーである。
 何も表現しない「詩的言語」と、それとはまた違った意味で、何事をも言い表わさない「公的言語」。これらの領域の中間にあって、私的言語は両者を媒介する。そのはたらき、すなわち詩的言語から公的言語を生成し、もしくは公的言語を詩的言語へと遡行させる媒介作用のことを、アレゴリーのはたらきに準えて考えることができるのではないか。
 山口裕之氏は、『ベンヤミンのアレゴリー的思考』の第Ⅲ章で次のように論じている。いわく、ベンヤミンは「アレゴリーがそのようなものとして振舞おうとした文字」のことを「アレゴリー的文字像(Schriftbild)」と呼んだ[*]。それはアルファベットなどの表音文字ではなく、象形文字のようにそれぞれの文字が断片としてすでに「意味」をもった表意文字である。
 ベンヤミンにあって音声(Laut)として語られた「ことば(Wort)」と「文字(Schrift)」とは両極的な位置を占めている。「ことば」と「文字」の関係は、その初期言語論における「パラダイスの言語」(名称言語、直接性の言語)と、善悪をめぐる知によってそこから堕落した言語(伝達言語すなわち何かを意味する言語、直接性を失った言語)との関係を引き継いでいるのである。「アレゴリーは「意味」と「事物」に結びついていることによって、あくまでも被造物の罪の連関のうちにとらえられている。」(176-178頁)

《「悲しみの基盤」としての「意味」(さらにそれが宿る場としての「文字」)に対置されているのが、…本来的には「パラダイスの言語」である純粋な「音声」である。しかし「音声とされた(発された)ことば」であっても、それが単なる「名」を表すのではなく、何かを伝達し「意味」するものとなったとき、「罪」を負うものとなる。ベンヤミンにとって「悲しみ」は、被造物のもつある対象への本来的な志向・憧憬・希望・意思が遮断され、その指向の対象から疎外されるときに生まれる。その本来的な志向の遮断・障害となっているのが、罪にとらわれた被造物の連関のうちにある「意味」なのである。》(『ベンヤミンのアレゴリー的思考』180頁)

 ここで語られるアレゴリーの事物性、あるいは「(意味への)堕落」と「(対象へ向かう)構成的志向性」とにあいわたるその両義性(もしくは、受動態でも能動態でもない中動態的なあり様)は、詩的言語と公的言語との中間にあって両者を両義的に媒介する私的言語の特質と同型なのではないか、そして〈感情〉をめぐる私的言語こそ、そうしたアレゴリー的性格をもっとも色濃く帯びていたのではなかったのか。……

 ……アレゴリーは髑髏であり、死者のおもかげ(肖)であり、「仮面」である。アレゴリーは純粋経験、無内包の現実性の「記憶」の痕跡、お零れ、幽霊であり、天使的質料性を「響き」として蓄える「空虚な器」である。アレゴリー(≒私的言語)は、神懸かりの言語(文字)であり、シャーマンの語り(声)であり、仮面を被ったシテの語りである。……

[*]「「アレゴリー的文字像」に関連する道籏泰三氏の議論を二つ引く。
 その一、道籏泰三著『ベンヤミン解読』の二章「髑髏のにたにた笑い──廃墟からの構築としてのアレゴリー」から。

《恣意的かつ暴力的に意味を引き寄せ、言葉のもつ通常の意味を自由に歪曲し、変容させるアレゴリーは、それ自体が暗号としての謎めいた絵であり、ヒエログリフ(象形文字)としての絵文字であり、さらに広くいえば、物質そのものとしての文字である。ベンヤミンがアレゴリーにおいて問題にするのは、ちょうどカフカにおける事物の名の攪乱の試みに似て、言葉の意味性、記号性に対立するものとしての文字、図像としての文字がもつ反乱性に他ならない。文字像としてのアレゴリーは、慣習的な記号としての言葉の閉じた主観的世界から暴力的に排除されてゆくものを、言葉の意味や概念に媒介されない直接的な図像のかたちで、いわばゲリラ的に奪回しようとする試みであり、そこには捨て去られ忘却されたものの痕跡が瓦礫の下に隠れひそんでいるという意味で、他でもない「それ自体が知に値する対象」なのだ。》(『ベンヤミン解読』66-67頁)

 その二、道籏氏は「「アレゴリー=文学」論──ベンヤミンにおけるアレゴリーの射程」(『ドイツ文學研究』第35号(1993年3月30日))において、ベンヤミンにとってアレゴリーは「レトリックないしは芸術理論の枠をはるかに突破して、存在論、認識論の根底にまで届く深度をもった言語的実践」だったのであり、バロックのアレゴリーを哲学的に考察することによってベンヤミンは「こうした言語の根底にまで届くアレゴリーの本質を、「アレゴリーは文字である」という言い方の中に凝縮して表現した」と論じている。

《暴力的に「意味」を収集し、言葉の通常の意味を好き勝手に歪曲、変容してゆくアレゴリーは、それ自体で任意の「意味」を引き寄せようとする謎めいた絵であり、絵文字であり、さらに視野を広げていえば、図像そのもの、物質そのものとしての文字に他ならない。一方において、言語音声そのもの、物質としての言語音声そのものが、言葉のもつ記号論的意味をいったん無と化さしめ、いわば音楽として、言葉をまさに記号とは全く別の次元に引き込んでゆくものだとするならば、それに対して、文字そのもの、物質としての文字そのものは、図像として、世俗的な意味を「任意に」自らに引き寄せてくる。アレゴリーは、そうした意味で、言語音声ないしは音楽に対置される文字に他ならないのであり、ベンヤミンはアレゴリーをこのようにとらえることによって、言語のもつ記号論的意味と音声と文字のかかわりそのものの問題にまで進んでいった…。》(『ドイツ文學研究』第35号,111-112頁)

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