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文字的世界【7】

【7】哲学的洞窟から旧石器時代の洞窟壁画へ

 前回、チャールズ・サンダース・パースの「宇宙大の規模で想定された現代の哲学的洞窟であり迷宮」(伊藤邦武)から、アンドレ・ルロワ=グーランによって「神話文字(ミトグラム)」と名づけられた旧石器洞窟壁画の抽象的記号群へ、すなわち本論考の第一の仮説における〈文字〉へと話題を転じました。
 そこからさらに、「イメージ」以前の〈イメージ〉としての「フィギュール」をめぐる議論に進むための“伏線”もしくは“導管として、港千尋著『洞窟へ──心とイメージのアルケオロジー』を一瞥しておきたいと思います。以下は、この洞見と洞察に満ちた知的刺激の書を刊行直後に読み、興奮さめやらぬままに書いた“書評”の自己引用です。(文中の註については次回へ。)

 ……本書の最大の魅力は、コスケール(1991年発見)やショーヴェ(1994年発見)といった旧石器時代の洞窟壁画、フォンテーヌブローの森の「木靴の岩」に刻まれた線刻をめぐる具象的思考や「図像的推論」[*1]の透徹さにある。
 いや具象的というより「物質的」と形容する方が適切かも知れない。第5章「脳と洞窟」に出てくる文章を借用するならば、「ニュートンによって自然のなかから締め出された感覚世界を、ゲーテ色彩論によって召還したハイゼンベルクの思想」(115頁)に共鳴しつつ、イメージ生成のメカニズムを霊的物質(生命ある物質)ともいうべきものに即して腑分けする、その手つきが素晴らしいのである。

「洞窟は支持体や材料ではない。画像の保存容器でもタイムカプセルでもない。洞窟は石灰岩でできた「素材」以上の何ものかである。芸術的な生命を与えられた場であり、生きた空間である。ショーヴェ洞窟を描いた人間たちは、長い時間をかけてこの洞窟の物理的な特徴を理解し、しかるべき場所にしかるべきイメージを配置し、鉱物空間に生命を付与することに成功したのである。」(187頁)

 著者はまず、イメージと美術の起源をめぐる「双方向的プロジェクション」という二項関係を提示する。エルンスト・ゴンブリッチの『芸術と幻影』に典型的なイメージの起源をめぐる「心理学的投射」(あらかじめ頭のなかに描かれたメンタル・イメージを外界の対象に投射)と、プラトンの洞窟の比喩やプリニウスの「美術の起源」神話以来の、そしてデカルトの視覚の生理学(網膜に結ばれる光学像)にもつながる「光学的投射」。
 この「まったく異なる意味に使われているように見えるふたつのプロジェクションは、実は投射の方向が違うだけで、図式としては似通っている」と著者は指摘している。それらは「共に、脳と世界のあいだで起きる認知過程の、双方向を描いている」のであって、「共通するのは、そこにイメージのプロジェクションが行われるということ」だと言うのだ。
 しかし、コスケールなど新たに発見された洞窟とその詳細な調査の結果は、イメージ誕生のプロセスが「投射」よりもっと複雑なものであることを示している。こうして著者は、ホモ・サピエンス・サピエンスのなかにある「もうひとつの洞窟=脳」の世界の探索へと向かう。そこで提示されるのがパースの三項関係──正確には、分子生物学者ホフマイヤーがパース記号論を生命論に応用した『生命記号論』──である。

「因果律は論理空間として見れば、二次元である。パースは二項関係で記述できる世界は、あまりに限られていると考え、「原因─結果」に対する第三項として「観察者」を導入した。三項になると系は分岐することが可能になる。原因─結果─観察者の三項関係は、分岐しながら多次元の論理空間を作ってゆく。パースの考える三項論理としての記号は、人間の「経験」を考える際にきわめて有効である。」(125頁)

 著者の議論はさらに、洞窟芸術の動体写真(クロノフォトグラフィー)を思わせる動体描写や重ね描きのうちに「連続性」の感覚や遠近感、つまり「時間的=四次元的パースペクティヴ」を見て取り(185頁)、アフォーダンスの概念を踏まえつつイメージの概念の転換(表象から運動へ)を図り(200頁)、「洞窟とは身体化された心である」(204頁)と喝破し、最終章「変身の力」では、「内在光学 entoptic 」をめぐる議論(234頁)を経て「予感の力」や「触覚記号」、「内なる文字」[*2]へと説き及ぶ。
 この目も眩む叙述の連続に接して、もはや言葉はない。本書は以上の「要約」では汲み尽くせない可能性を孕んでいる[*3]。……

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