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韻律的世界【22】

【22】日本語とリズム─樋口桂子『日本人とリズム感』他

 確たる目算もなく、ジル・ドゥルーズの抜き書きから始めたリズム篇。
 言語以前の生命世界(と物質世界との境界)における基層の身体感覚に深く根ざしたリズムが、「気分け」という分節化作用を経て、感情の言語とも言うべき「メロス」へと分岐し、やがて(それ自身リズムの記号化、言語化であるところの)モアレやライムのはたらきを介して精神世界(純粋な言語の世界)における「ロゴス」へと展開していく、いわばリズム生成進化のプロセスが、おぼろげに浮かびあがってきました。
 かなり強引な括りですが、そのプロセス(リズム⓪→①→②→③)をさらに強引に可視化してみたのが下図です。

      [メタフィジカルな実相]

     リズム③ 虚体 「ア」の場

  ────── 【言分け】 ──────

     リズム② 身体 「ソ」の場

  ━━━━━━ 【気分け】 ━━━━━━「ま」の場

     リズム①  身  「コ」の場

  ────── 【身分け】 ──────

     リズム⓪ 響体 「ゆ」の場

      [マテリアルな実相]

 リズム⓪は「五大皆有響」というときの「響」、リズム①はたとえば「原リズム」、リズム②は「現象としてのリズム」、リズム③は「虚のリズム」あるいは「テレパシー的リズム」などと呼んでいいでしょう。「響体」は「霊体」と、「虚体」は「エーテル体」と言い換えていいと思います。
 「コ・ソ・ア」や「ゆ・ま」については、以下、その出典を紹介します。いずれも「哥とクオリア/ペルソナと哥」第53章(Web評論誌「コーラ」掲載)からの自己引用です。

 その1.樋口桂子『日本人とリズム感──「拍」をめぐる日本文化論』

《日本には視点を操作して情景を浮かび上がらせることに長けた歌が多かった。視点の移動によって外界と心象風景が二重映しになり、イメージが絵画化される。そこでもまた、私とあなたの共有部分の橋渡しをする「ソ」の役割が大きく働いていたのである。
 とりわけ「本歌取り」はこの力を用いて日本独自の詩歌の形式をつくり上げた。》(『日本人とリズム感』207頁)

 ここで言われる「ソ」とは、コソアド言葉のうち「ア」(遠景)と「コ」(近景)の間の漠然とした中間地帯(中景)を指す語だが、「位置の指示というよりも、私からもあなたからも対象を離してゆく、という‘作用の’指示詞であり、それによって何か特別な意味を生み出そうとする「力の指示詞」であるという要素が大きい」(189頁)。

《「ソ」は、私にもあなたにも見えながら、同時に私からもあなたからも近く、処理が可能という位置にあることを‘意識させる’ことによって、私と相手の間に共有の、中間地帯となるような‘場’にあることの力を発揮するのである。私にもあなたにも直接的であるような共有の場をつくりだすのもまた「ソ」の力なのである。》(『日本人とリズム感』190頁)

 たとえば、(J-ポップの歌詞における「私」のように)「日本語はただちに主体の位置をあちらへこちらへと、あるいはその間へと動かして理解することができる」が、それはそこに「ソ」の力が働いているからである(206-207頁)。また、和歌の本歌取りの効果は、本歌と本歌取り歌を繋ぐ「ソ」の力に負うところが大きい(208頁)。

《本歌取りは明確な本歌の提示をすることで成り立つ歌の一分野をつくりあげた。(略)
 そしてこのとき本歌取りは「ソ」の力を徐々に引き出していった。あるいは本歌取りは「ソ」の場を見据えることによって、詩歌の一形式を生み出したと言える。新しいジャンルは、日本語の「ソ」の力を表層に引き出した。現実の、目の前にある「コ」に親しみ、それに接触したいと強く望む古代に対して、本歌取りは中世の日本語の抽象化に方し、これを進行させた。接触性の「コ」に満ちていた歌世界は、中世になると「コ」から一歩離れて「ソ」の領域を広げることになる。中世は言語の抽象化を進めた時代であったが、それは日本語の「ソ」の力の顕在化という別の面を暴露したときでもあった。》(『日本人とリズム感』209-210頁)

《古代の万葉の人々は「もの」を愛し、眼前のものを愛し、「コ」を愛した。しかしただ眼前の「もの」にのみ惹きつけられていたわけではない。そもそも眼前の「もの」は変化を必定とする。日本人の時間に対する観念は次第に移り行くものの姿を眺めることに傾斜していった。時間は「うつる」ものである。(略)
 大野晋は、状態が変化して別の状態になることを、溶ける(‘ト’ク)、崩壊していくという意味で捉え、そこから、「とき」の意識が生まれたと考えた[『日本語をさかのぼる』188頁]。眼前の「もの」はいくら執着しても、変化し、逃げて行く。むしろ、「もの」は変化してゆくものである。万葉人はゆるやかな変化の状態にあるからこそ、眼前の「もの」を強く慈しんだとも言える。「コ」はすでにそこに、その先にある「ソ」の場と「ソ」の力の種を宿していた。》(『日本人とリズム感』211頁)

《日本的な感性の目は、「もの」が変化し別の「もの」に変わってゆくところに注がれることになる。こうして平安のころには、現物の「コ」を超えて、ものの本来の姿である「心」に向かう。さらにウチの中のさらにその下にある、ものの「裏」側を見ることへと人々の重心は移っていく。裏の原義は「心」と同じところにある。裏を見ることは、心の底にある真の姿のあるものを見ようとすることである。表を見ながら裏を見る。表層を見ながらその心の奥底に向かう。意識のベクトルはねじれた次元に置かれている。裏へと向かう視線は裏へと向かうと同時に、静的な情景を好む傾向と融合して、日本人の感性をかたどっていった。》(『日本人とリズム感』212頁)

 樋口氏が言う「ソ」と「ゆ」(「~と聞こゆ」の「ゆ」)、それに「ま」を組み合わせると、たとえば垂直的な「ゆ」(深浅)と水平的な「ソ」(遠中近)、その両者の「間」=「ま」といった図式を考えることができる。そこに「渡る(渡す)」や「眺め(詠め)」などを加えることで、「日本的パースペクティヴ」なるものの構図を仕上げることができるかもしれない。

 その2.北山修『評価の分かれるところに──「私」の精神分析的精神療法』

 北山氏は「ゆ」の音に即して「意味と音が分ち難く結びつく現象」について論じている(第9章「自然と「ゆ」」)。
 まず『日本国語大辞典』から「ゆ」「ゆう」の音で読まれる漢字の意味を渉猟し、それらがポジティブな経験(由、有、容(裕)、游、湧、愉、癒、等々)をカバーしていること、しかしその一方で抑うつ的体験(憂)や神聖清浄・畏怖(斎(ゆ)、由々し)を意味することがあるのを見たうえで、「ゆ」の経験がもつ二重性、過渡的・中間的な特質(「ゆ」は覚める・醒める・冷める)を指摘する。
 そして「ゆ」の意味論で忘れてはならないのが、それが「自然に湧出する油田のごとく、心の地下に潜在する、価値あるエネルギーの湧き出る」(218-219頁)ものであること、つまり「湧いてくる」という自然現象を伴うこと、また「ゆ」が外と内の間、境界、中間地帯にかかわるものであることを強調する。「最も深刻で困難な状態として、精神分析で自我境界の問題と言われてきた、精神的に殻や皮膚のない心や、壁のないケースがあります。融解の「ゆ」の中でその身が溶けてしまうというケースのあることも症例報告集……で述べました」(223頁)。

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