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ペルソナ的世界【17】

【17】“永井神学”とペルソナ論─ペルソナの諸相4

 ペルソナの諸相をめぐる話題は尽きませんが、このあたりで、いったん締めることにします。
 最後に取りあげるのは、独在性の〈私〉をめぐる永井(均)哲学です。まず、『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか──哲学探究3』の第1章および第2章の議論を援用しながら、永井哲学におけるペルソナ論(永井氏がそういったテーマで論じているわけではありませんが)の概略を一瞥しておきたいと思います。

 永井氏は、色や匂いといった感覚(クオリア)にかかわる事象における「現象(appearance)」と「実在(reality)」の区別と、(その「主観側バージョン」である)心や意識における〈私〉と《私》の区別──すなわち、現に(actually)「なぜか一つだけ例外的に存在するむきだしの意識」という独在的なあり方と、実のところ(really)は他の人々も「なぜか一つだけ例外的に存在するむきだしの意識」というあり方をしていることとの、言葉の上では違いが識別できない二つの事実の区別──とを類比させて論じています(第1章段落13以下)。
 両者に共通するのは、①「現に黄色く見えれば黄色く、現に甘く感じられれば甘い、という問題と、現に「なぜか一つだけ存在するむきだしの意識」であれば現にそうなのだ、という問題を同型と見る」(14頁)ことができる点、そして②両者がともに「あらかじめ可能性の空間を前提としてそのうちの‘これ’[前者の場合:諸々の色ではなく黄色い、諸々の味でなく甘い、後者の場合:他の人々ではなくこの人]が現実だ」(同)としている点です。
 ただしかし、前者の感覚については、色や味といった一般概念と、黄色い・甘いのような個別事例とを対比させることができるのに対して、後者の〈私〉は、他に比較すべき例のない、それこそ例外的存在なのですから、この点で両者は決定的かつ根底的に異なります。「それが現に永井均のそれであれば[永井均に受肉した〈私〉であれば]、それがすべてで終わりである。その事実と並んで、もうひとつの現実にむきだしの心が存在することはもうできない」(16頁)。
 もちろん、私たちが依拠している「言語的世界像」においては、すべての人がそういうあり方をしています。「この世界像の内部では、なぜかただ一つだけむきだしの意識が存在しているという端的な現実性が否定されるのではなく、最初から「可能な「端的な現実」」として理解されることになる」(18頁)。
 この「端的な現実性」──「突出する現実性」とか「実存的突出」などと表現されることもある──すなわち〈私〉に対する「可能な現実性」、言い換えると概念的に理解された〈私〉のことを、永井氏は《私》と表記しているわけです。(カントールの超限順序数に倣って、0=φ(={ })=〈私〉,1={φ}=《私》、などと置き換えてもいい。つまり、〈私〉そのものを、独在性を表わす山括弧〈 〉の中に代入する=概念化することで《私》が得られる[*1]。)
 精緻な哲学談義を乱暴に括るのが心苦しくなったので、以上の議論を、永井氏自身が別の観点から「補足」している箇所を第2章から引きます。

《[第1章]段落13以降の、感覚との類比についてもひとこと補足しておくなら、これはつまり第0次内包と無内包との対比である。第0次内包には、文字どおり第0次的に、つまり直接的に、固有の内包が(つまり特徴が)ある。痛みはくすぐったさと、甘さは酸っぱさと、それぞれ内容的に端的に異なっている。対して無内包のほうには、いかなる特徴もない。《私》たちとは異なって〈私〉であることにも、《今》たちとは異なって〈今〉であることにも、固有の特徴がない。それはちょうど現実に存在するということに特徴がないのと同じことである。百ターレルが札束であることも、重いことも、見えることも、……も、みなそういう特徴であるが、そうした諸特徴をもった百ターレルが現実に存在することは、そこに付け加えられるべき、それらと並ぶ特徴ではない。同様に、悲しいことも、鳥の鳴き声が聞こえていることも、子どものころのことを思い出していることも、……も、その心のもつ特徴であるが、それが唯一のむきだしの心であること、すなわち〈私〉の心であることは、そこに付け加えられるべき、それらと並ぶ特徴ではない。どれが〈私〉であるか、いつが〈今〉であるかを、そのもつ特徴によって識別することはできない。それが無内包の(内包の違いによって識別されない)端的な現実性なのである。》(『哲学探究3』30-31頁)

 無内包の──内包=事象内容=特徴によっては識別されない、というか、そもそも内包=事象内容=特徴というものを持たない、ただ「現実に存在する」こと、つまり現実存在=実存であるというだけの──現実性(アクチュアリティ)と呼ばれるのが〈私〉の本籍地であり、対して、感覚的なもの(クオリア)は、第0次的に固有の内包=事象内容=特徴をもつ、実在性(リアリティ)の世界(有内包の世界)に属している、ということです。
(ちなみに、内包には他に、第1次内包(例:梅干しや夏みかんを食べて酸っぱそうな顔をするとき感じているとされるもの)と第2次内包(例:脳科学的・神経生理学的な探究によって判明する酸っぱさの本体、脳内のミクロな物理的状態)がある。本論稿「ペルソナ的世界」の第6節を参照。)

 それでは、ペルソナはどうなったのか。永井哲学(神学)におけるペルソナの位置づけを、いったいどう考えればいいのか。そして、それは「アニメイテド・ペルソナ」といかなる関係を切り結ぶことになるのか。
 私なりの答えは、第6節の図中にあらかじめ、先走って書き込んでいました。簡略化し、かつ若干の補訂を加えて再掲します。

     <無内包:現実性(非実在性)>
     [メタフィジカルな界域]

        【ペルソナ】
       <第0次内包>
    ━━━━━━╋━━━━━━
          ┃
          ┃
      <有内包:実在性>
    ━━━━━━━━━━━━━
      [メカニカルな界域]
          ┃
          ┃
    ━━━━━━╋━━━━━━
       <第0次内包>
        【クオリア】

      [マテリアルな界域]
   <無内包:現実性または潜在性>

 ペルソナは、〈私〉それ自体が属する本籍地──「実存(existence)」もしくは「現実性(actuality)」の世界──ではなくて、「神学的=科学的」[*2]な世界──「本質(essence)」もしくは「実在性(reality)」の世界──という現住所において捉えられるべき存在です。
 精確に言えば、ペルソナは、クオリアとは異なるレベルで、つまり実在性の世界の“深層”ではなく“高層”において、クオリアと同じ第0次内包をもってリアルに実在している。したがって、それは、〈私〉を概念化──「内包化、事象内容化、実在化」(『探究3』74頁)──して得られる《私》と同型の存在構造をもってはいるが、けっして同じものではない[*3]。
 森岡正博氏が論文「人称的世界はどのような構造をしているのか」で提示した区分を借用すれば、一人称的主体にして一人称的対象である《私》に対して、ペルソナは本来、二人称的主体としてこれと対峙して立ち現われてくるものなのではないか、と私は考えます。
 前回用いた記法で表現すれば、ペルソナとは《汝》で(も)ある──もう一つの〈私〉という、本来あり得ない存在を概念化=内包化して得られる実在物、あるいは、“固有名”で呼びかけられるべき二人称的主体にして二人称的対象、すなわちアニメイテド・ペルソナで(も)ある──ということになります。

[*1]『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』に、「実存が本質である」という命題が登場する。

《現に私は、私が存在することが何が存在することなのか、じつのところはわからない。わかるはずがないだろう。類例がないのだから。それはただ‘これ’であるだけである。その‘これ’が何であるかはわからないし、わかるはずもない。それは何にも似ていないし、似ているはずもないからだ。世界(森羅万象という意味での)が何にも似ていないのと同じことである。これがすなわち、実存が本質である、ということである。》(『哲学探究2』251頁)

 最後の一文に付けられた註では、「〈私〉や〈今〉にかんしては──少なくとも最終的には──存在しているということそれ自体がその本質であらざるをえない」とも言い換えられている。
 そうすると、引用文で「それは何にも似ていないし、似ているはずもない」と書かれているにもかかわらず、著者自身が、〈私〉と〈今〉が似ている、類比的であると認めていることになる。さらに、「世界(森羅万象という意味での)が何にも似ていないのと同じことである」と、森羅万象(実在性の世界)ではないという意味での世界、すなわち現実性の世界もまた、〈私〉と類比的であると認めている。つまり、〈私〉≒〈今〉≒〈現実〉。
 それはさておき、「実存が本質である」を、独在性を表わす記法〈 〉を使って表現すると、「実存すなわち〈 〉が本質すなわち《 》である」となる。
 この《 》は、現実性(実存、無内包)ではなく、実在性(概念・本質、有内包)の世界に属する事象を表わしている。〈私〉や〈今〉や〈現実〉は語りえないが、《私》や《今》や《現実》は語りうる。前者を後者に変換し、「私」「今」「現実」のように一般/特殊の並列関係に置き換えるのが言語である。すなわち「言語的世界像」。この世界像は、主として人称、時制、様相の三つの文法カテゴリーの働きによって成立する(『哲学探究3』18頁)。

[*2]「神学的=科学的」という言葉は、『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』の109頁で使用されている。
 創造神によって開かれた世界の実相を探求するのが科学である。神学が、「現実性」の世界における事実を「実在性」の世界における言語によって記述=弁明するものだとすると、科学はこれと同型の探究を、「法則」と「観察・実験事実」との間で数学的言語を使って遂行する。こうした理解のもとでこの語(「神学的=科学的」)を捉えることができる。
 ちなみに、私が本節のタイトルに“永井神学”なる語を配したのは、このような意味での神学(だけ)ではなく、たとえば「受肉の秘儀」をめぐる議論にうかがえるような、永井哲学のコアな部分で、文字通り、西洋神学の思索と親密な関係を結んでいる──結んでいると見ることによって、永井哲学を理解するための有益な示唆が得られる──のではないかと、かねてから直観していたからだ。
(“永井仏教学”という方向もある。現に永井氏には仏教関連の複数の著書(鼎談、座談形式の共著)がある。いずれも中身が濃い。ただ、議論そのものとしては“永井神学”の方が鋭く刺激的である。好みの問題かもしれないが。)

[*3]ここで気になるのが、〈私〉という表記の不徹底性である。本文の括弧書きの中で、山括弧〈 〉を独在性の表現として扱った。その論法でいくと、無内包の現実性は本来〈 〉と表記するのが妥当なのではないか、という批判が成り立つ。(現に入不二基義氏は、〈私〉や〈今〉で語られる永井の無内包の現実性は無内包性が不十分であると指摘した。)
 この疑問に対する永井氏の回答が、『存在と時間──哲学探究1』で次のように示されている。

《感性の形式(つまり時間空間)や悟性の形式(つまりカテゴリー)の適用を経ていないため、まだ現象を構成していない、つまり実在していないが、その素になっているものを「物自体」と呼ぶとすれば、〈私〉や〈今〉は物自体である。とはいえしかし、ほんとうに物自体だとすれば、〈私〉だとか〈今〉だとか、何らかの内容的規定[=事象内容]を示唆する呼び名で呼べるはずがない。だからたぶんそれらは、このような超越論的な(=実在を構成する)形式が適用された後に、そのような形式をすり抜けて生き残った(そのような形式によって変様させられながらも現象界の中に生き残った)、物自体のお零れのようなものなのであろう。》(『哲学探究1』77頁)

 森岡正博氏のアニメイテド・ペルソナ──それは私が考えようとしている(してきた)ペルソナと、まったく同じものであるとまでは言えないにしても、少なくともその“半身”(二人称的存在様態)を共有している──は、〈汝〉という「物自体のお零れ」(痕跡)を、というか「(音波のない)残響」をとどめる実存(現実存在)を概念化=内包化したものであると言える。
(私が考えようとしている(してきた)ペルソナの残りの“半身”は、〈私〉とまったく同じものではないとまでは言えず、少なくともその形象性において、「物自体のお零れ」(痕跡)を質料化したものであるとは言えるのではないかと思う。たとえば「(光波のない)残像」として“見える”ようになった天使の顔や姿態のかたちで現象界(実在性の世界)に立ち現れたもののような。)

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