韻律的世界【7】
【7】萩原朔太郎─歌は調想不離の作を以て最上とする
前回引いた〝鵲のわたせる橋におく霜の白きを見れば夜は更けにけり〟(大伴家持)への評釈の中に、「想の修辞」と「声調」が和して寒い音象を強くあたえる、と書いてありました。
これと同様のことが、〝きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかも寝む〟(藤原良経)についても指摘されています。いわく、この歌も如何にも寒そうな感じがするが、それは家持の歌と同様の音韻構成、すなわちK音とS音を主調とする重韻によるものであって、おそらく家持歌の啓示を受けて試作したものであろう。
このように述べた後で、萩原朔太郎はとても大切なことを述べています。
《因に言うが、歌では修辞と声調の音象とがよく調和し、前掲の二首の如く調想不離の作を以て最上とする。調と想とが別々になり、音楽と内容とが分離して居るものは二流である》(『恋愛名歌集』166-167頁)
朔太郎の言う「調」(美しい音律の調べ、声調)は、韻・律の「韻」にかかわる概念です。それも、和歌の押韻形式の「一般法則」に則ったもの(前回のA)というより、「不規則なる法則」による押韻対比を進行させた作品(B)に即して使用されています。
また「想」とは、歌に詠まれた「内容」のこと。この「想」が「調」と不離の関係にあるものを「最上」とし、分離しているものを「二流」とする。そして、その中間に「上乗」もしくは「上」の作品──「内容をさながら韻律に融かして表現した」作品(B①:音象詩)あるいは「内容の空虚にもかかわらず調子の魅力で惹かれてしまう」作品(B②)──が位置づけられるわけです。
ところで、『恋愛名歌集』には、この調・想とは異なる対概念が登場します。それは、藤原定家について書かれた次の文章のうちに表現された「詩学者」と「詩人」の対比です。
《詩学者には理論があって芸術がなく、詩のイムズがあって「詩そのもの」の魂がない。実に新古今の技巧的構成主義を美学した者は定家であったが、それを真の詩歌に歌った者は、他の西行や式子内親王等の歌人であった。定家その人に至っては、彼の美学を歌の方程式で数学公理に示したのみ。それは単なる美の無機物にすぎないので、詩歌が呼吸する生きた有機体では無いのである。何となればすべての詩歌は──たとえ構成主義や技巧主義の美学根拠に立つ者でも──本源における詩情の燃焼なしに有り得ないから。即ち換言すれば、真の詩人的性情のみが詩を生むのである。そして定家は真の詩人的人物でなく、一代に号令する所の歌壇的英雄を範疇として居た。彼の歌に真の魅力がないのは当然である。》(140頁)
これと同趣旨のことが、具体の定家詠に即して、次のように語られています。〝帰るさのものとや人の眺むらむ待つ夜ながらの有明の月〟のような「定家一流の技巧主義で作った歌」が、「趣向に余って詩情に足らず、一種の「判じ物」のような感じがする」のは、「詩が頭脳[ヘッド]でのみ構成されて居り、心情[ハート]から直接に湧出されてないからである」(163頁)。
それでは、心情から湧出するところの「詩そのもの」の魂とは一体何か。それは恋愛、すなわちイデヤへの郷愁である。
《げに恋こそは音楽であり、さびしい夕暮の空の向うで、いつも郷愁のメロディを奏して居る。恋する者は哲学者で、時間と空間の無限の涯に、魂の求める実在のイデヤを呼びかけてる。恋のみがただ抒情詩の真であり、形而上学[メタフィジック]の心臓であり、詩歌の生きて呼びかける韻律であるだろう。》(86頁)
ここで出てきた二つの対、調と想、詩の魂(生きた韻律、すなわちイデヤへの郷愁)と詩の方程式(美の無機物)は、相対する次元が違います。このことを、第4回で掲げた図を使って表現すると、次のようになります。(この図には‘未熟’なところがあって、「調」は「ライム」に通じるが、「想」と「モアレ」の関係、「詩の方程式」と「リズム」の関係は微妙。)
[生きた韻律]
詩の魂
┃
想 ┃ 調
┃
━━━━━━╋━━━━━━
┃
詩の方程式
[美の無機物]
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