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仮面的世界【26】

【26】仮面の記号論(狭義)─イコンとマスクとクオリア・補遺

 石田英敬氏は「「記号の場所」はどこにあるのか──『新記号論』から西田幾多郎を読む」(『ゲンロン11』)において、西田幾多郎の「場所の論理」を踏まえ、「私とは、知覚が記入され映される場所、ひとつの鏡面である」と書いている。「私とは場所であり、意識の拡がりであり、基体Xの影像を「主語面」で受けとめ、「述語面」で把持して、〈私〉の経験的判断を述定──記号化──していく。」(199頁)

《判断が「一般者の自己限定」として考えられていたことはすでに見た。具体的一般者は、一方においては、「主語となって述語とならない」基体としての個物、他方においては、「述語となって主語とならない」一般者という、実世界からのボトムアップと一般概念からのトップダウンの関係軸上に自らの術語化──「自己限定」──のプロセス(パースなら「セミオーシス」というだろう)を分節化する。判断作用の場所としては、今しがた見たように、私…の意識の野が、基体を指示する主語面(ノエマ面)と経験を思惟としてカテゴリー化する述語面(ノエシス面)という、両面が接する界面[インターフェイス]に位置づけられている。
 そこは、鏡の表面のように物の影像を宿す「無の場所」である。なぜ無なのかといえば、鏡面で物は実体としては消えて痕跡と化し、そこに映る像としてのみ現れるからである(私としては、それはパースのいう「類像記号」だと言いたいが、西田は同意すまい)。》(『ゲンロン11』200頁)

 ──前節に続き、ここでもまた石田氏の議論の摘まみ食い的引用にとどまったが、少なくとも以上の記述から「私=意識の鏡=仮面(クオリア)」の実相が浮かび上がってくる。

    [一般者(一般概念)]
         ↓
         ↓
         ↓セミオーシス(記号過程)
         ↓
         ↓
  ━━━━━《述語面》━━━━━
       仮面記号【〇】
  ━━━━━《主語面》━━━━━
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      [基体X(個物)]

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