見出し画像

文字的世界【15】

【15】イメージ/フィギュール/概念

 前々節と前節で、文字以前の〈文字〉、イメージ以前の〈イメージ〉としての“フィギュール”が、その発生の時(旧石器時代)と場所(洞窟)から大きく“剥離”もしくは乖離・逸脱して、古代日本末期(平安京の宮廷)の芸術言語の“姿”のうちに息づいていることを、かなり先走って一瞥しました。
 私の直感が告げ知らせるところによると、“フィギュール”はいつでもどこでも、その根源的な場所から、声と文字を通路として立ちあがり(甦り)、あたかも上映されたばかりの幻想の世界(言語世界)の残響、残像、残香のごときものとしてはかなく消え去っていく、きわめてとらえがたい、しかし確かなリアリティ(私の語感に即して言えば、アクチュアリティがふさわしい)をもった存在です。
 本稿は、そのような意味での“フィギュール”を、声の世界(韻律的世界)にではなく、形象の世界(文字的世界)においてとらえようとする試みでした[*]。その第一の仮説としてあらかじめ呈示しておいたアイデア──「文字は独立して言語体系をかたちづくる」──をめぐる考察を収束するにあたって、これまでの議論を脳内に浮かびあがらせながら、(集約するのではなく)ひとつの結構をつけておきたいと思います。

 大嶋仁氏は、『生きた言語とは何か──思考停止への警鐘』の第二章「生命ある記号」のなかで、『野生の思考』の議論──「イメージと概念のあいだに記号というものがある。(…)記号はイメージと似て具体的なものであるが、他のものに言及するという点では概念に似ている。」(大嶋訳)云々──を引き、「ベルクソンが事物と表象のあいだにイメージを置いてこれを重視したとすれば、レヴィ=ストロースはこのイメージの代わりに記号を置いて、人類はこれによって思考していると主張した」(90-91頁)と書いています。
 この「記号」をめぐって、大嶋氏は、自然を道具と見る西洋の自然観が科学を発達させ、親しい兄弟のように思う日本の自然観が俳句を生み出したとする寺田寅彦(「俳句の精神」)の議論に触れたうえで、次のように論じます。いわく、科学における数学的記号の意味が一義的に決まるのに対して、暗示と喚起による俳句の記号(季語)は多義性と季節的文脈とに依存する。
「このちがいは、結局のところ概念と記号のちがいに帰着します。前者はその言及性が無限で、厳密かつ一般性を持つのに対し、後者は曖昧なだけでなく、記号を使用する主体の情感や個人的経験と結びつき、固有の世界の表現となります。固有とは言っても、記号ですから他者と共有可能で、文脈の幅を有したまま他者に伝わるのです。」(105頁)
 つづけて、芭蕉の「古池や」の句の分析を通じて、「俳句の世界が単なる主観の吐露ではなく、西洋の科学に匹敵する自然観を提示していること」が示されるのですが、大嶋氏の議論の援用はここまで。以下、「イメージ/記号/概念」の三層構造を借りて、 “フィギュール”がかたちづくる「独立した言語体系」について概観しておきたいと思います。
 私が考えていることはきわめて単純です。レヴィ=ストロースの「記号」の代わりに“フィギュール”を置くだけのことです。つまり、「イメージ/フィギュール/概念」。そして、「記号」をめぐる一連の議論──イメージと似て具体的なものだが言及性において概念に似ている、暗示と喚起、多義性と文脈依存性を特徴とする、情感や個人的経験と結びつくが他者と共有可能である、等々──を“フィギュール”にあてはめる。そうすることによって、意味の一義性と無限の言及性を持つ概念の体系としての「言語」とは異なる、もう一つの(はじまりの〈文字〉によって形象化される)「独立した言語体系」の特質を推論する。
 それはおそらく、レヴィ=ストロースが言う「感覚的なものの論理」に根差したコトバ、たとえばシャーマンの異言(glossolalia)によって語られる〈神話〉のようなものである。私は、そのように考えています。──『神話論理』第1巻の「序曲」で、レヴィ=ストロースは次のように語っている。すなわち、「さまざまな感覚的なものに論理があること、そして感覚的なものの過程を跡づけ、感覚的なものに法則があるのを証明すること」が本書の目的であり、「わたしは、ひとびとが神話の中でどのように考えているかを示そうとするものではない。示したいのは、神話が、ひとびとの中で、ひとびとの知らないところで、どのようにみずからを考えているかである」。

[*]〈文字〉に対応するはじまりの声(聲)、声以前の〈声〉とはどのようなものだろうか。その一つの候補を土取利行著『壁画洞窟の音――旧石器時代・音楽の源流をゆく』から(孫引きのかたちで)引く。
 土取氏は「芸術のビッグバン──認知考古学者スティーヴ・ミズンの音楽起源説」と題された第六章の最後の節で、ミズンの『歌うネアンデルタール』を取りあげている。
 いわく、ミズンはこの著書において、ホミニド(600~200万年前の類人猿的な人類)のコミュニケーション体系を、全体的(Holistic)、多様式(multi-modal)、操作的(manipulative)、音楽的(musical)の頭文字を並べた「Hmmmm」の略語で表した。その後、初期人類では動物の呼び声などの自然音の模倣(mimetic)が加わり、「Hmmmmm」という単語・文法のない「原型言語」の段階に至った。「Hmmmmm」はネアンデルタール人まで続き、ホモ・サピエンスになって「構成的言語」へと変化した。

《ところでネアンデルタール人は最後のHmmmmm後継者として君臨し、芸術的創造物の痕跡を残さずに消滅してしまったものの、「高次のHmmmmmによって複雑な感情をコミュニケートする選択圧と、類像的な身振り、踊り、擬音、音声模倣、音共感によって自然界の幅広い詳細な情報をコミュニケーションする選択圧がいっしょになって、さらなる脳の大型化とあらたな神経回路の形成という脳内構造の変化を生んだ」。そして言語が発達しなかったため、絶対音感の能力を維持したまま成長した可能性が高く、現生人類も含めたどの人類よりも高度な音楽能力を持っていたと、ミズンは考えている。》(『壁画洞窟の音』155-156頁)

 擬音、音声模倣、音共感に根差した〈声〉と、類像的な身振り、踊りに通じる〈文字〉。あるいは、絶対音感の能力に基礎づけられた〈声〉と、類感的な“形象感覚”に裏打ちされた〈文字〉。この〈声〉と〈文字〉の通奏低音をなすのが“類似性”であり、両者による対話(ポリフォニー)を可能にする共通原理が“模倣の能力”である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?