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「私」がいっぱい(パート1.5)【2】

【2】噛み合わない議論

 『〈私〉をめぐる対決』は、3部構成で出来ています。

 第Ⅰ部「〈私〉とは何だろうか?」は、森岡氏による「永井の〈私〉の哲学」の解説。第Ⅱ部「実況中継「現代哲学ラボ 第2回」」は、2015月12年に催された永井・森岡両氏の公開討論(森岡氏の言葉では「公開インタビュー」)の記録。第Ⅲ部「言い足りなかったこと、さらなる展開」は、その後に執筆された森岡氏の論考とこれに対する永井氏の批判的応答。そして森岡氏の「まえがき」と「あとがきに代えて」、最後に「現代哲学ラボ」世話人の田中さをり氏による「あとがき」が加わる。

 読み処が第Ⅲ部にあることは、分量と中身から言って間違いないと思います。第Ⅱ部は kindle 化され、音源[https://philosophy-zoo.com/archives/4992]も公開されているので、この本を手に取らなければ読むことができない、という意味でも。しかし、そこで展開されているのは、独在性の〈私〉をめぐるスリリングな哲学的対論ではなく、田中氏が用いた(“異例”と言っていい)言葉を借りるならば、どこまでも「噛み合っていない」(306頁)議論なのです。

 実際、私は第Ⅲ部を読み進めながら、森岡氏の“執拗”(永井氏が関心を失ったかそもそも関心がない論点への“こだわり”)と永井氏の“苛烈”(森岡氏の議論に対する情け容赦ない徹底的な批判)に、胸が痛くなりそうでした。どちらも真剣な哲学的対話に欠かせない態度だと思いますが、それにしてもこの擦れ違いは何なのだ、私は何を読まされているのか、この議論はどこに着地するのか、着地しないまでも行きつく果てにいったい何が残るのか、と。

 噛み合わなさをめぐって、森岡氏自身は、「永井が四○年間かけて到達した山頂から眺めれば、森岡の議論は麓の入り口の付近でうろうろしているものにすぎない」(282頁)と、永井氏からのコメントを括っています。永井氏も同じ趣旨の言葉を、「不満」(217頁)もしくは“苛立ち”(に近いものを私は感じた)をもって書き残しているのです。

 いわく、同じ主題について永年考え続けてきた者にとっては、三十年前に書いた「原画」は、その上に何重にも必然性をもった修正の上塗りが施されているのだから、いまそれについて論じられても「懐かしい」という以外の感想を持つのは難しい。「きわめて多くの重要な修正が施されて、もはや原型は意味を無くしている」(232頁)。

 独り相撲は言い過ぎですが、森岡氏は違う土俵で相撲をとっている。だから、議論はどこまでいっても噛み合わない。これが私の率直な感想です。ただし、それは森岡氏の“愚昧”がなせることではあり得ません。永井哲学の起点となった〈私〉の存在をめぐる「驚き」を、森岡氏は確かに共有しているし、永井哲学の最先端の議論をきちんとフォローし、かつその意義も把握している。本書全体を読んで、私はそう確信しています。

 だとすると、森岡氏は、永井哲学の到達点もしくは最前線ではなく、その出発点となった初発の議論に、意識的に、いわば“確信犯”的にこだわっていることになります。では、それはいったい何故なのか?


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