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仮面的世界【7】

【7】顔=仮面をめぐって─仮面三態論(弐)

◎顔は穴を穿たれた壁(平面)である。あるいは、顔は「虚ろな器」である。顔、すなわち仮面の原器。「人間の顔は、沈黙と言葉とのあいだにある最後の境界である。つまり、顔はそこから言葉が発生するところの壁なのだ」(マックス・ピカート)。

◎穴を縁どる襞(魂の襞)として表情が宿る。襞は立体的なもの(空間的ないしは時空的なもの)を平面へと折り畳む。あるいは聴覚的無限を、すなわち時間を平面へと折り畳む。顔とは積分された時間ではないか。そして表情とは微分された時間ではないか。

◎ジンメルは「容器は同時に二つの世界を生きることになる」と書いている。たとえば水差しは、実用的な目的をもつ道具として物質的な現実空間(事物の秩序)に属し、同時に芸術作品としての形態・美的価値において現実のかなたにある理念的空間(理念的秩序)に属している。
 
「さてここで、水差しが占めるこの二重の地位がもっとも顕著に現れるのは、その取っ手の部分においてだ。…水差しはこの取っ手によって目に見える形で現実世界に、すなわち芸術作品それ自体にとっては本来存在していないはずのあらゆる外部との関係の世界に身を乗り出している。」(「取っ手」,『ジンメル・コレクション』(鈴木直訳))

◎仮面とは境界を設営しつつ境界において在るものである(水差しにおける取っ手のように? あるいは来世と現世の境界に建てられた梵鐘のように?)。
 仮面は知覚世界と想起世界の境界を設営し、かつ視覚化する(自らを媒質として?)。そして顔は、それぞれ知覚世界と想起世界の双方にまたがる現実世界と理念世界(論理世界、可能世界)の境界を設営し、かつ視覚化する。

◎仮面は「存在の自乗性」をかたどり造形化したものである。自乗作用そのものの可視化(現実化)としての仮面。
 仮面とは変換作用それ自体を形態化したものである。存在の自乗性の造形化。あるいは仮想的な存在を無限(級数)に展開しつつ、リアルな存在(有限)へと収束させるもの。

「こんなふうにイメージすることは可能だろうか。(略)ひとつの音のなかにそこからたちあらわれてくる音楽の全体が含みこまれている状態と、或るひとつの音楽全体がただひとつの音から発して積分されてゆく状態を。或るひとつの音から発生するのだが、それが最終的にたどりつく──言葉としては不適切かもしれないが──音楽全体としてのひびきは、じつははじめにあったひとつの音でもあるというクラインの壷のような音楽。」(小沼純一『武満徹 音・ことば・イメージ』)

◎「液体と固体の中間のようなどろどろしたもの」から「顔」ができる。──坂口ふみ『〈個〉の誕生』によると、レヴィナスの思想のキーワード「イポスターズ」の語源であるギリシャ語の「ヒュポスタシス」は、ラテン語化されず西ヨーロッパの哲学的概念の群にはいりそこねた。その理由の一つはヒュポスタシスがラテン語で「ペルソナ」と翻訳されたからなのだが、しかしペルソナは本来ヒュポスタシスとはまったく異なった意味の語である。

「興味をひくのは、この語[ヒュポスタシス]のもっとも早期の意味に、液体の中の沈澱とか、濃いスープとか、膿というものが見られることである。沈澱とは流動的な液体が固体化したものを言い、おそらくそれから濃いスープや膿などの液体と固体の中間のようなどろどろしたものという意味が出てきたのであろう。そしてこの基本的な意味は、哲学的に用いられるようになっても、残りつづけていると思われる。ギリシア語の『七十人訳聖書』その他の、「存在を得る」という意味にも、非存在から存在が現われてくるという、動的変化のイメージがある。これは液体から沈澱が生ずる時のイメージと共通のものである。そしてレヴィナスが使うイポスターズにも、この「液体の中に固体が現われてくる」というイメージは生きている。」(『〈個〉の誕生』)

「ヒュポスタシスは、存在するものを存在せしめているアクチュアリティそのものであったし、ペルソナは、これこそ劇場や社会のうちでの主演者であった。しかし、ヒュポスタシスは宇宙的循環の一要素であるし、劇全体の構成や社会全体の依存関係と関連性なしにはペルソナはペルソナたりえない。劇は成立しない。この両概念がそのまわりにひろげる関連の場は、異質なものである。しかし、両者とも個存在性と関係性の両面をにらみ、両面を必須とする概念であることは共通している。そして、この両者が等置されるとき、結合された概念のもつ場は、宇宙的かつ人間的、自然的かつ法的・社会的、非人間的かつ日常人生的なものが重なり合い、混じり合い、対位法的に関わり合う不思議な場となった。」(『〈個〉の誕生』)

◎仮面の形態変化。穴(楽器、声)から穴の空いた平面(虚ろな器、顔)へ。器の三態──盤[ban!]、碗[wan!]、壷[ko!]──を経て、開口部(穴)が二つある管(身)へ。

◎人間の身体は穴のあいた筒、すなわち管である。自らに折り返ったもの(存在の自乗性)としての「虚ろな器」、その形態は「管」において完成する。あるいは自然もまた仮面を造形する、「洞」や「洞窟」として。

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