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仮面的世界【10】

【10】記号=仮面をめぐって─仮面三態論(伍)

 気体・液体・固体の物質の三態から、「エーテル」を加えた物質の四態へ。──これとパラレルな関係を切り結ぶのが、声・顔・身の仮面の三態から、「記号」を加えた仮面の四態への拡張です。旧仮面考では道半ばで中断したこの作業に、‘後知恵’による加筆を施しながら、再挑戦してみます。

◎第四の管を考えることができるかもしれない。すなわち、「おもて」と「うら」が一つながりになるメビウスの帯(顔=仮面)の拡張版としてのクラインの壺=管を。
 あるいは、自ら裏返ることによって二つの穴が一つになり、内部空間と外部空間が一つながりになった第三の管。この心的システムをもった第三の管によって産出される「意識」こそが第四の管であるといっていいかもしれない。
 第四の管において、空間の‘おもて’と‘うら’が連続すると同時に、時間の‘おもて’と‘うら’もまた一つながりになる。あたかも夢の中の時空のように。

◎ここで自己引用を一つ。かつて「哥とクオリア/ペルソナと哥」第4章で私は次のように書いた。

 ……夢もまた神託であった。西郷信綱著『古代人と夢』に、「私は夢を信じた人々を、ここではかりに古代人と呼んでおく。」と書いてある。その古代人たちは、「夢は人間が神々と交わる回路であり、そこにあらわれるのは他界からの信号だと考えていた。」また、詩人イェイツが、詩は目覚めたトランス(夢幻の境)であるといったように、古代人にとって、夢は一つの独自な「うつつ」であった。
 今昔物語に、「太子、斑鳩ノ宮の寝殿ノ傍ニ屋ヲ造リテ夢殿ト名付ケテ、一日二三度沐浴シテ入リ給フ。明クル朝ニ出デ給ヒテ、閻浮提ノ善悪ノ事ヲ語リ給フ。」とある。そのような「夢託」を乞うて聖所にこもることを、古代ギリシャ以来、西欧では「インキュベーション」(孵化、巣ごもること)と呼び習わしてきた。聖所とは洞窟であり、夢殿もまた洞窟である。洋の東西を問わず、おそらくは石器時代以来の古い伝統に根ざしている「洞窟信仰」において、人はカミとの交信を果たし、自らの再生を果たし、死者の魂との交流を果たしたのだ。
 西郷氏は「古代人の眼」の章の末尾に、「私は死者の魂の遊行を正目に視たであろう古代人の視覚の独自性を取り出してみようとしたまでである。彼らに、夜寝たときにみる夢が一つの「うつつ」として受けいれられ、強い衝撃をあたえたのも、また彼らが神話という幻想的な文化形式を作り出したのも、視覚のこの独自性と関連しあっているであろう。」と書いている。ここでいわれる「古代人の視覚」をもたらす「洞窟」での体験を通じて、人は(言語的主体として)もう一度生まれなおすのである。……

◎ここで示唆したかったこと。──仮面の第四態、すなわち記号=仮面が(メトリカルに)生成し稼働する、あるいはそれ自体が記号=仮面である「第四の管」とは「洞窟(的なもの)」の異称であり、かつ洞窟=仮面において窮極的にインキュベートされるのは文字=仮面(フィギュール、ミトグラム)であるということ。


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