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韻律的世界【29】

【29】モアレ─擬態文字・水の中のかな文字(その1)

 リズム②のレイヤーにおける「形の韻」(モアレ)をめぐる素材を三つ蒐集します。

1.擬態文字─形のオノマトペ

 第24節で引用した文章のなかで、山崎正和はオノマトペには二つの営みがあると言っていました。すなわち、「感覚による感覚の抽象=感覚の模写」と「直接にリズムを写しとる営み=リズムの表現」。
 この議論を踏まえて、私は、前者を「声の韻」(ライム)に、後者を「字の韻」(モアレ)に関連づけて図式化しました。つまり、オノマトペには二つの類型があって、それは「音(声)のオノマトペ」(=擬音語)と「形(字)のオノマトペ」(=擬態文字)である、と暗に主張したわけです。
 それでは、「形のオノマトペ」とは何か。ここで私の脳内に浮上してきたのが、ベンヤミンの初期言語論です。精確には、細見和之氏が『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む──言葉と語りえぬもの』で展開した議論でした。
 ベンヤミンが「言語はいかなる場合でも、伝達可能なものの伝達であるだけにとどまらず、同時に伝達不可能なものの象徴でもある」とし、また「名前…がたんに伝達する機能のみならず、伝達機能と密接に結びついた象徴的機能をも有していることは、きわめて確かなことである」と書いたことを受けて、細見氏は次のように述べています。

《「名前」が「伝達機能と密接に結びついた象徴的機能をも有している」というのは、当然のことと思われるかもしれない。しかし、これがやはりかなり特異な発想であることをふたたび確認しておきたい。ランプを例にとれば、まさしく「ランプ」という名前・呼称に、伝達不可能なものとしてのランプの精神的本質の「象徴」を見て取ろうとする態度だからである。ここで「ランプ」という音ないし文字はランプを指すたんなる記号であってはならない。「ランプ」という音はランプという存在の、いわば‘擬音語’であり、さらには擬態語、‘擬態文字’でなければならないのである。
 この傾向をもっとも顕著に示しているのが、一九三三年に書かれた「類似したものについての試論」であり、その続稿ないし改定稿として成立した「模倣の能力について」…である。そこでベンヤミンは、そもそもすべての音声言語を擬音語として理解する方向を示すとともに、文字を「非感性的類似の貯蔵庫」…と呼んでいる。擬音語が外的に理解しやすい「感性的類似」にもとづくのにたいして、擬態語は、さきに「のしのし」の例で見たように、そのままでは類似を見て取ることのできない「非感性的類似」にもとづいているのである。そして、文字が「非感性的類似の貯蔵庫」であるということは、すべての文字はそもそも擬態文字であるということだ。
 このあたりもまたベンヤミンのもっとも難解であるとともに捨てがたい魅力をなしているところだが、少なくとも作家や詩人が「ランプ」と書くか、「灯り」と書くかで迷う場合、そこではたんなる「記号」を超えた次元で言葉が問われている、と言うことはできるはずだ。「ランプ」と「灯り」をたんなる記号としてのみ捉えるなら、どちらでもいいことになるからだ。私たちが「語感の違い」などという言い方で通常安易に了解している要素とは何なのか。それは記号論で言われるコノテーションの違いという枠内には収まらない問題だと思える。そこで問われているものこそ、まさしく「ランプ」ないし「灯り」という言葉、さらには‘文字’の、「伝達機能と密接に結びついた象徴的機能」のことではないのか。そのように問いなおすことができるだろう。》(細見前掲書229-230頁)

 ──細見氏の議論は、リズム①のレイヤーに属する「形象徴」に根差しつつ、リズム③の「文字」に及んでいて、肝心の、つまりリズム②に固有の「形のオノマトペ=リズムの表現」にかかわる叙述が弱いように見えます。
 しかし、これは強引な‘読み’になるかもしれませんが、私は、細見氏が言う「伝達不可能な精神的本質」あるいは(安易な言い方になるが)「メロス」憑きの「語感」を「リズム②」と捉え、ベンヤミンの「名前」が持つ「伝達機能と密接に結びついた象徴的機能」を「リズム②の表現」と関連づけることで、上に引いた細見氏の議論を、まるごとリズム②における「形の韻」をめぐるものと解していいのではないかと考えています。

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