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文字的世界【14】

【14】フィギュールをめぐって・若干の註

[*1]私が最初に“フィギュール”の訳語「詞姿」を知ったのは、明治時代の文法書『新文章講話』(五十嵐力)だった。国会図書館のデジタルコレクションで確認した。
 ちなみに、宮城谷昌光『王家の風日』のあとがきに「私は若いころから漢字が好きで、川端康成流にいえば、『詞姿の美しさ』で、小説を構成しようと考えていたことがあった。」とあり、また(これはあまり関係ない話だが)本居宣長の『国歌八論斥非再評の評』に「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ、然レバ姿詞ノ髣髴タルマデ似センニハ、モトヨリ意ヲ似セン事ハ何ゾカタカラン」云々とある。
 
[*2]大石昌史氏の論考「余情の美学──和歌における心・詞・姿の連関」(三田哲學會『哲學』第118集(2007年))が「姿」に“figure”の英訳を与えている(“The aesthetics of suggestive feelin[yojo]:exploring the nexus of mind[kokoro],word[kotoba] and figure[sugata] in Japanese poetry”)。このことは「韻律的世界」第3節で触れた。

[*3]大石昌史氏は「余情の美学」で、「姿」を「動きつつある形」と規定している。(以下の文章は「哥とクオリア/ペルソナと哥」第54章で引用した。)

《定家は『毎月抄』において、…和歌の「十体」とは別に、その理想的な「姿」を「秀逸体」として説明している。(略)このように和歌の「姿」は、単なる比喩の水準を超えて、視覚的に明晰な具体的イメージとして語られている。
 しかし、余情を伴う幽玄なる「姿」は、心と詞、すなわち、思考・感情・意志といった精神的内容と音声あるいは文字による-感覚的形式という、一方が現れれば他方は消えるという反転的な関係に立つところの、本質的に異質なもの同士の危うい均衡の上に成り立っている。(略)このように矛盾をはらむものであるが故に、余情を伴う幽玄なるものは、恒常的な「形」ではなく、逸脱し・揺れ動き・移ろい行く「姿」と呼ばれるのである。そこには、西洋における作者の意図に基づいて有機的に統一された「作品」を基準とする芸術観とは異なる、作品の周縁に漂う風・薫り・響きといった「空」なるものに即した日本独特な芸術観が示されている。
 心と詞が相関する「姿」は、「表現されているもの」と「表現されていないもの」、あるいは、対象の空間的な並存と時間的な継起とが反転的に相関することにおいて力動的に立ち現れる。このような力動的な姿は、「消えゆくもの」(無化する有)であると同時に「立ち現れるもの」(有化する無)であり、それが伴う「余情」は、有と無とが反転する予感もしくは残響、実在感と虚無感とが動的に共存する無常感として意識される。存在の「空しさ」の自己否定的な現出が、対象の個別的形象性を逸脱した空間的周縁性・時間的前後性としての余情を形成する。「心余りて詞足らず」と特徴づけられる余情を伴った和歌の姿は、有と無とが反転的に交錯するところのけっして一つに重なり合うことのない隔たり(ずれ)を保った力動的な交わりにおいて、心と詞、意味と残響、形象と情動とによって多層的に二重化される。「物」を、感覚が捉える実物そのままにでも、精神が捉える抽象化された形においてでもなく、動きつつあるままに「姿」として捉えることは、物のなかに「心」を見ることになる。「形」が物の合理的・客観的な本質と捉えられるのに対して、「姿」は物と心(外的形態と内的原理)との曖昧な混交物である。形が主客の対立(相関)において外なるものとして知覚・認識されるのに対して、姿は主客の融合(反転)において内面もしくは背後から現出する。活動(行為)する対象の形が、背景をなす地平(活動を規定する因果的な関係性、あるいは、行為を動機づける感情や想い)と共に捉えられることによって、それは、時間と空間、心と物、内と外との間を「動きつつある形」として、過去の運動の軌跡(記憶)を自らの周りに残像として残しながら、将来の運動の準備(期待)のために、その輪郭を揺動させつつある「余情を伴った姿」へと変ずる。》(慶應義塾大学『哲學』第118集、191-192頁)

[*4]三浦哲哉著『映画とは何か──フランス映画思想史』の冒頭、著者が掲げる「根本的な問い」を記した一文。

《フランスにおける世界最初の映画興行で、動く映像をまのあたりにした観客たちがなによりも驚いたのは、背景で風に揺れる葉叢だったという。(略)
 曰く、スクリーンの後景で、誰に見られるために存在したわけでもない事物が、ほかのあらゆるものと同様に動いている。ゆらめきながら太陽光を反射させる葉叢、その在りようの精妙さを言葉で描写し尽くすことはむずかしい。なぜならそこに映っているのは、人間がすっかり解明したわけではない自然の神秘そのものであり、想像力が決して追いつくことのない何かだからだ。そもそも映画のイメージは、たとえば絵画におけるように人為的に再現されたものではない。カメラによって自動的に保存された光景は、勝手に──人間に対してなかば無関心に存在する。それら光景を見ることに固有の驚きがあり、あるいは、そのようにして「意味」から束の間、解放された事物そのものを見ることの‘やすらぎ’というものがあるのだ……。(略) 
 だからもう一度、問い直さなければならない。映像が動く。ただ‘それだけのこと’にただならぬ感動を覚えるまなざしがあるとすれば、それは具体的にどのようなものか。》(『映画とは何か』9-10頁)

[*5]私が“フィギュール”としての〈文字〉(文字以前の文字)に対して思い描いているのが、この「動きつつある形」あるいは「動くイメージ」という特質である。そして、その具体的な事象として“かな文字”を想定している。(かな文字は「文字以後の文字」であって〈文字〉ではない。しかし、〈文字〉のフィギュール性は「文字以後の文字」に対しても及んでいる。もっと踏み込むと、“かな文字”の具現物と言えなくもない能役者の“姿”にも“フィギュール”性は浸透している。)
 ここで「哥とクオリア/ペルソナと哥」第4章の議論を自己引用する。(「かなと精神分析」は「韻律的世界」の第30節でも取り上げた。)

 ……夢の中の文字は、読めない。
 矢口浩子・新宮一成著「かなと精神分析」(叢書・想像する平安文学第5巻『夢そして欲望』)に、石牟礼道子氏(「夢の中の文字」)が「生まれることができないその文字は、わたし自身であるらしい。」と記した、川底から浮かび上がる「解読できない毛筆の文字」の夢の経験をめぐる考察がある。

《彼女は川底というあの世のくびきと、水面上のこの世の境で、「往きつもどりつして今日は生きそびれ、昨日は死にそびれ」ている自分の存在を、読まれない文字に重ね合わせている。水の中にある限り、文字は「意味」をもつことができず、ただ漂っている。それはちょうど、果てしない時空の広がりの中で、何の意味も持ち得ない、人間存在の救いようのない孤在の姿であるように思われる。それに対して、水の中から文字が浮上すれば、そのとき私は私が存在することの意味を知ることができるように思われる。ただしこの世でその文字が解読されてしまったなら、私は他者に私の存在の意味を譲り渡すことにもなるだろう。意味は普遍である。いったん普遍に入れば、文字は私だけのものではありえなくなる。私が私の存在の意味を知るときには、すでに私は普遍の主体であって、もうあの孤在のままの私ではなくなってしまう。
 夢の中で文字が、普遍を拒絶しているとしたら、それは、私が私自身のまま存在しようとしているからである。書によって、意味や音を手放そうとする文字は、個別であろうとする私の存在なのである。その存在は意味を得ることはできず、あの世に沈むしかない。だが、読まれてしまうような文字もまた、普遍の中に疎外されて失われてしまうのである。
 したがって、読まれないのに文字であり続けるという逆説的な文字の状態は、救いようのない孤在と、疎外された普遍的主体との間の、どちらともつかない位相を表しているといえよう。すなわち、文字が音や意味から剥離し、それによって不気味さを与えつつ、かえって美への可能性をも示すという事実は、文字に託された我々人間の生の、個別と普遍の狭間で行き惑うあり方そのものに由来しているのである。》

 佐々木孝次氏の「リチュラテール――ラカンの「日本」」(『文字と見かけの国』)での議論を援用するなら、ここで言われる「読まれない」文字は、漢字やアルファベットのような体系的な文字のことではない。それらが作られるよりもっとずっと前からすでにあった「印し、痕跡、しみ、きず、などといった文字」のことである。それはまた、無意識の素材であって(「無意識とは文字である」)、シニフィエ/シニフィアンの二項関係のうちにとらえられるものでもない。シニフィアンが「象徴界」の近くにあるのに対して、文字はその有形的な物質性によって「現実界」の近くにある。

《文字は書かれた跡として、それ自体で「ある」という自己同一性によって、現実的なものの近くにいるが、いつまでもそこにとどまっているわけではない。それは読まれることによって、象徴的なものの領域に参入してくる。つまり、意味の運動のなかに加わってくる。ただしそれは、そもそも自己を自己とは異なったものにさし出している、非‐自己同一的なシニフィアンとしてではなく、書かれた跡として、読まれるべきものとして加わってくる。自己同一的なものは、意味に関わらない。文字は、象徴的なものの領域に参入しても、つねに意味から無意味に向かう運動を支えているのである。》

 この「意味の運動のなかに加わ」りつつ「意味から無意味に向かう」フィギュールの運動は、無と有を媒介する第二群の「洞窟」的なイメージ(フィギュール)の活動そのものである。……

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