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文字的世界【28】

【28】象形から形声への飛躍、鏡像段階─白川文字学4

 問題は文字という現象そのものに潜んでいる。三浦雅士氏は「起源の忘却──グラマトロジーの射程・ノート2」にそう書いています(『人生という作品』71頁)。ここで言われる「問題」とは、「文字は呪的な行為がさかんに行なわれた時期に、その儀礼の必要に応じて成立した」(61頁)ことが、つまり文字の起源が「忘却の淵に沈んだ」ことにほかなりません。
 三浦氏は、白川静の『説文新義』「通論篇」を読み解き、いわゆる六書をめぐる白川の考えを次のように括っています。いわく、漢字は大きく「象形」と「形声」に分かれ、「指事」「会意」は前者に、「転注」「仮借」は後者に含まれる。重要なことは、象形が起源にあって、形声はしかる後に生じたことである。
「象形も形声も造字法である。だが、たとえて言えば象形は創字法、形声は増字法である。形声では、ふつう偏によって義を、旁によって音を表わすが、逆もあれば、義と義を合わせるだけのものもある。辻も畑も峠も働も国字すなわち和製漢字であり、訓読みだけで音読みはないわけだから形声ではありえないが、しかし同じ原理でできていると感じさせるのである。だから通用するのだ。(略)/象形文字の解明において白川静が行なったことは、しかし、そういう類の造字法とはまったく違っている。」(86-87頁)
 三浦氏はここで、「神が昇り降りする梯子」の象形文字の例を挙げ、また甲骨文字の多くが人間や犬や羊の生贄の数を問うものであったことを述べた上で、形声の体系と象徴の体系の違いをこう括っている。「それ[白川静が想定した形声の体系]は分類し整理する体系である。それは水平に無限に広がってゆく。だが、白川静が描き出す象形の体系は、血みどろの犠牲を撒き散らして神に縋ろうとする垂直な体系である。(略)/とすれば、起源の忘却は象形と形声のあいだにあるということになる。」(88頁)
 三浦氏によると、白川静は「象形の体系が形声の体系へと移行するまさにその移行期を生きたのが孔子である」と考えていた(92頁)。『孔子伝』に描かれた孔子は、神の声を聞く人、巫祝の伝統のなかに生きている人だった。都市国家から領域国家へ移行する過渡期を生きた孔子は、「声の文化から文字の文化へ、そしてさらに、声の代理としての文字の文化、表音文字の文化への移行」を、つまり起源の忘却を象徴する存在であった(97頁)。
「白川静は、孔子がソクラテスやイエスと同じように、みずから書く人ではなかったことに繰り返し注意を促している。「聞くことと話すこと」と「書くことと読むこと」との違いに注意を促しているのである。「耳と口」の対は、「目と手」の対と違っている。たとえば巫女は「耳と口」の伝統に属し、占卜は「目と手」の伝統に属す。この二つの伝統の交叉するところに孔子は位置していたと、白川静は考えている。」(103-104頁)
 このすぐ後に、とても大事なことが書かれています。「書に臨むとき人が思い浮かべているのは声ではなく形である。表象であり、概念である。象形の字そのものであり、指事そのものである。(略)聞くこと話すことと、読むこと書くこととはまったく違うことだ。だが、表意文字が表音文字に転化するということは、それが合致したということである。この合致こそが、個人の思想を生み、思想としての個人を生んだのだ。(略)神意を聞くとき、神はそこにいる。だが、神意を読むとき、そこにいるのは読んでいる自分であって、神ではない。」(104-106頁)

《声は超越にかかわるが、文字は超越論的次元にかかわる。声は現象を、生を意味するが、文字は永遠を、死を意味する。神学は超越にかかわるが、哲学は超越論的次元にかかわる。だが、文字が声として振る舞いはじめたとき、ほとんど不可避的にある捩れが生じたのだ。デリダが『声と現象』から『グラマトロジーについて』にいたる過程で問題にしたのはこのことにほかならなかった。(略)
 声も文字も言語の現象である。デリダのいう差延とはこのことである。デリダの示唆したかったことを一言でいえば、要するに言語は光に似ているということだ。アインシュタインがほかならぬ二十世紀、言語の世紀と呼ばれる二十世紀において一般相対性理論を提起したのは偶然ではない。光が宇宙の限界を示すように、言語は人間の限界を示しているのである。(略)
 文字が声として振る舞いはじめたとき、すなわち象形文字が義である以上に声として振る舞いはじめたときに生じた捩れを、たとえば「私はなぜいまここにこのようにしてあるのか」という問いのかたちで考えることができる。》(『人生という作品』106頁)

 三浦氏はここで、ラカンの鏡像段階論を持ち出します。いわく、鏡に映った自分の姿に気づいて幼児が狂喜するのは、イシスがオシリスの散乱した屍体を取り集めたように、自分の散乱した身体を、世界を鏡のなかに取りまとめるからだ。ラカンはここで「私はなぜいまここにこのようにしてあるのか」という問いを相対化している。

《…原初においては文字こそが鏡だったのだ。白川静が「文とは文身であり、出生・成人・死葬の際の通過儀礼を示す字である」と繰り返すのは、畢竟、そういう意味である。(略)
 通過儀礼において身体に文字が付されるのはなぜか。その文字こそが、私という破片を取りまとめ、私を私として存らしめる結節点となるべきものだったからである。私の意味はその文字なのだ。(略)
 だが、刺青は見るべきものではあっても、声に出して読むべきものではない。象形文字は、鏡と同じように、意味は持っていても声を持っていたわけではない。持っていたにしても、声に出してはいけないものだったろう。だが、世界を、そして自分を、意味として立ち上がらせる端緒としては完璧だったのである。
 象形から形声にかけて起こったことは、文字が果たした最初の役割を忘れることだったと言っていい。忘れたからこそ、声に出すことができるようになったのである。》(『人生という作品』110頁)

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