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仮面的世界【17】

【17】予備的考察(補遺ノ伍)─やまとことばのメカニカルな展開

 第14節で引いた柄谷行人氏の文章に、「もともと歌舞伎は人形浄瑠璃にもとづいており、人形のかわりに人間を使ったものである」と書かれていたことから、私は和辻哲郎の『歌舞伎と操り浄瑠璃』を想起した。和辻はその序文に、歌舞伎や操り浄瑠璃の通り一遍の鑑賞者にすぎない自分がなぜこのような書物を書いたのかを弁明している。

《…これらの演劇[浄瑠璃劇]において舞台上に作り出されてくる世界、すなわち‘想像力によって作り上げられた世界’には、一種独特な、‘不思議な印象’がある。それはただ現実の世界を芸術的に再現したというにとどまらず、何か‘現実と異なったもの’、といって単に非現実的あるいは夢幻的であるのではなく、むしろ‘現実よりも強い存在を持ったもの’を作り出しているように見える。そういう意味で‘エキゾーティック’な(外から来たものらしい)‘珍しさ’や、超地上的な‘輝かしさ’が、そこには感ぜられるのである。そういう不思議な印象は一体どこから生じたのであろうか。》(『和辻哲郎全集 第十六巻』3頁)

 和辻はつづけて、本朝二十四孝や忠臣蔵のような正真正銘の歌舞伎芝居と思っていたものが「もと浄瑠璃で語られるに伴って‘人形が演じた’のであって、歌舞伎役者が演じたものでなかった」ことに気づき「初めてはッと思った」(7頁)と書き、「日本の戯曲のなかの最も戯曲らしい種類のものは、皆‘人形芝居の脚本’である」ことのうちに「あの疑問を解く鍵があるであろう」(8頁)と書いている。
 和辻が言う「鍵」はおそらく、それぞれ独立した起源をもつ能楽と操り浄瑠璃と歌舞伎の「構造論的ないし構造変換論的」(坂部恵『和辻哲郎』32頁)な関係性のうちにあるのだろう。以下、本書の「総論的な構造分析」(同書37頁)を担う第一篇から、「操り浄瑠璃の三つの要素」について書かれた文章を引く。

《浄瑠璃は、まず第一に、平家がたりのような‘叙事詩朗唱’の伝統をうけ、そうしてその伝統をみずから重んじている。もちろん浄瑠璃が浄瑠璃として立ち始めたときには、在来の伝統の上に‘根本的な変革’が加わったであろう。その変革は、‘抒情詩をうたう’という歌謡としての要素を強度に注入し、それと結びついて三味線による音楽的な性格を全面的に浸潤させることであったであろう。しかしそういう変革にもかかわらず、浄瑠璃は決して物語を「語る」という立場を捨てたのではない。浄瑠璃は「歌う」のではない、「語る」のだということは、この技を学ぼうとするものに対しても、またそれを鑑賞しようとするものに対しても、常に警告されていたことである。このように「語る」ということを、すなわち叙事詩朗唱の伝統を、堅く守っていたということが、何よりもまず浄瑠璃の特徴に数えられてよいであろう。
 しかし第二に、この伝統に対して加えられた変革も、決して軽視することを許さないほど重要なものである。三味線やその小唄の節による浄瑠璃節の変貌は、恐らく当時の人を驚かすに足りたであろう。それは人をして浄瑠璃節は「語る」のではなくして「歌う」のであると誤認させるほどに、強度に音楽的性格を帯びていたであろう。だからこそ「歌う」のではなくして「語る」のであるということを、わざわざことわらなくてはならなくなったのである。とすれば、浄瑠璃は、「語る」のか「歌う」のかの区別が素人に明らかでないほどに、叙事詩朗唱のぎりぎりの限界点にまでに達していたのである。そうなると、在来の代表的な演芸であった能楽の、謡を「うたう」態度と、浄瑠璃を「語る」態度とは、ただ一歩の差違に過ぎなくなった。従って浄瑠璃に伴って演技する人形も、謡に従って演技する能役者と、ただ一歩の差違に過ぎない。いずれも‘音楽的表現’に即して‘形象的表現’をやるのである。悲しみの歌が耳に響いてくる時には、悲しい姿が眼に見える。そういう楽劇として、操り浄瑠璃と能楽とは、ほとんど同じ立場に立っていたのである。
 がそれにもかかわらず、第三に、浄瑠璃は「語る」立場を固守し、それによって人形の演技を明白に能役者の演技から分離せしめた。浄瑠璃の叙事詩的な描写は、謡曲の抒情詩的な詠嘆よりも、一層具体的に人間の出来事を取り扱うことができる。そうしてそれを舞台上に表現する場合に、「うた」に伴なう演技はおのずから‘舞踊’になって行くに対して、「語られる」人間の動作はおのずから‘しぐさ’となってくるであろう。だから人形の演技は、生きた能役者の演技よりも、一層具体的に、また写実的に、人間の生活を表現することとなったのである。》(『和辻哲郎全集 第十六巻』54-55頁)

 坂部恵は『和辻哲郎──異文化共生の形』の第一章「見出された時」で、浄瑠璃劇における「現実よりも強い存在を持ったもの」をめぐる和辻の問いを、「人間と世界の存在の宗教的次元」にかかわるものと捉えている(9頁)。
 そして、幼年期の和辻における「一種の脱我体験ないし憑依体験に近いもの」(33頁)、あるいは「神に隠されやすい子供」であった柳田國男に通じる「神話的想像力」(34頁)や「一種の脱我と神隠しの体験」(35頁)などに言及した上で、「『歌舞伎と操り浄瑠璃』一巻は、一面で、民衆の構想力のかくされた古層への探究と発見の旅であると同時に、そうおもってみれば、著者自身にもなかば隠されたみずからの心のはるかな奥行へ向けての果てることのない旅という性質を、他面で色濃くもっていたと考えられる。」(38頁)と述べている。
 和辻=坂部の議論は、「はじまりの言語」の記憶をフィギュールとして保持するやまとことばのメカニカルな展開を、すなわち憑依=表意(意味の受肉)のプロセスを内側から叙述したものなのではないか。私はそんなことを考えている。

 ……舞台上で操られる人形は「仮面」であり、そのメカニカルな動きは「脱我的な憑依体験」をかたちとして現わすフィギュール(文字)である。フィギュールすなわち文字、あるいは「心の声」(鈴木朖)としての辞。
 すべては「おもて」すなわち舞台上の外面的な関係性の中のメカニカルな出来事なのであって、そこにはただ文楽を構成する「三つのエクリチュール」(ロラン・バルト)のうちの一つ、すなわち太夫が絞り出す鍛え抜かれた声しか響かない。それは「内面」から洩れ出る声ではない。そこには「うら」(=心)はない。……

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