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推論的世界【1】

【1】世界は推論でできている

 初めて通読した哲学書はニーチェの『ツァラトゥストラ』で、大学に入った年の梅雨のある日の昼下がり、気がつけば薄曇りの陽が射し込む下宿の窓際に座り込み、睡眠不足の夢見心地のまま書物と向きあっていた、あの時の微熱にくるまれた体感を忘れることはできません。
 それから今日まで、理解できたかどうかは別にして、とにかく最後まで(緊張を途切れさせることなく)読み終切ることができた哲学書は十冊余りで、そのうちノートを取りながら一年以上かけて熟読玩味したのは、ヘーゲルの『大論理学』とベルクソンの『物質と記憶』の二冊。どちらも読み進めながら何度かフィロソフィカル・ハイ(と私が勝手に呼んでいる知的陶酔)に襲われました。とりわけ、難攻不落の威容を誇る『大論理学』に挑んだときの鮮烈な読後感(というか、読中感)は、いまでもその熱量が身体の奥底で息づいているほどです。
 このヘーゲルの主著を読みながら、私はしきりに「世界はロゴスでできている」という“啓示”のようなものに襲われていました。世界は、つまり自然も精神も歴史もロゴスの自己運動(すなわち推論)を通じて顕れ出てくる。ヘーゲルはそのロゴスに憑かれて、あるいはロゴスの化身となって、世界創出の秘密(舞台裏)を余すところなく描き尽くしている…。
 ヘーゲルのロゴスは、干乾びた平板な静物(死物)ではありません。それ自体のうちに運動(自己展開)のための契機(矛盾)を孕み、あたかも“原形質(プロトプラズマ)”のごとき創造性を湛えています。
 いや、そもそも「論理」それ自体が──たとえ深層(無意識)の論理や古論理(パレオロジック)、レンマなどといった“特殊”なものでなくとも、形式論理学や記号論理学におけるそれのように、一見ありふれた操作対象のように思われるものであっても──世界のうちに「創(きず)=切断面」を造り出す力能を秘めている。
 これが、私が『大論理学』から授かった“啓示”でした。

 独り読書会のようなかたちでヘーゲルを読み通してから数年後、チャールズ・サンダース・パースの『連続性の哲学』(伊藤邦武編訳、岩波文庫)に傾倒しました。ノートを取ることはしなかったものの(あまりに内容が刺激的だったので、ノートに書くのがもどかしかった)、同じ哲学書を三度以上繰り返し連続して読んだのは、後にも先にもこの本だけ。
 パースには、それ以前から強烈な関心を寄せてきました。(ベンヤミン、ウィトゲンシュタインと並び、その作品そのものよりも、むしろ生涯や仕事、思想や哲学について書かれた書物を飽きずに渉猟する対象だった。)
 とくに惹かれていたのは、その記号過程論であり、記号の三分類だったのですが、『連続性の哲学』を読んで、パースの思考世界のスケールの大きさと、そこで展開されていた「推論と事物[存在者]の論理」の学──原著のタイトルは“Reasoning and the Logic of Things”──の深甚さにすっかり驚嘆させられ、ヘーゲルに続いて、「世界は推論でできている」という“啓示”に痺れたのでした。

 パースと推論、とくれば、アブダクションです。以前、「文字的世界」の第5節で用いた表現を使いまわすなら、太古的な心性(言語と宗教と芸術の起源)に通じる「洞窟」を導管(duct)とする推論、すなわち「洞窟的推察」、略して洞察(abduction)。
 私自身はかねてから、演繹(deduction)、帰納(induction)、洞察に続く第四の推論の形式として、生産(production)なるものを考えてきたのですが、このことについても以前、「韻律的世界」の第35節や「仮面的世界」の第31節で、第五の推論形式である伝導(conduction)とあわせて触れたことがありました。
 その「伝導」なる推論形式をめぐる、私自身の考えは、次のようなものです。
 まず、もっとも基礎的な意義において、それは、あるものをあるものとしてただ保存し、伝え、移すことにほかなりません。修道院の盲目の老師が蔵書(禁書)をただ保存するように、そして使徒や伝道師が何も言葉を加えずただ福音を宣べ伝えるように、あるいは逐語的な翻訳(traduction)のように。
 しかし、それが「推論」であることをより際立たせるためには、たとえば次のように言ってみることができるでしょう。「生産」があらかじめ設計・直観・想像され夢みられたものを生み出す推論であるのに対して、「伝導」は前後の世界の連続性が断ち切られるほど奇跡的な出来事(無からの創造)なのであると。
 そして、このような意義における伝導は、他の四つの推論形式と相並ぶものというよりは、それらを総括したもの、すなわち「伝導体(conductive field)」のはたらきとして考えるべきであると。
 伝導体の概念でとらえることができる範囲は、おそらく宇宙大にひろがっていくでしょう。「世界は伝導体でできている」、あるいはいっそ「世界とは伝導体だ」と言っていいとさえ思います。というか、それほどの広がりと深さをもったものとして考えていきたいと私は思っているわけです。
 個人的な関心領域で言えば、(媒質としての)言語や文学作品、物語(歴史)、そして何よりも、永井均氏の独在性の〈私〉の「伝達」といった、人文的事象を伝導体の概念で捉えることで、そこから何かしら未聞の展望がひらけるのではないかと夢みています。

 さて、「推論的世界」をめぐる考察への前口上として、以上、「論理」「推論」「伝導体」の三つのテーマをめぐる、個人的な思い出や“決意”のようなことを記しました。かなり思い入れのある領域なので、気持ちを逸らせることなく、これまでやってきたことを冷静に吟味しながら、作業を進めていきたいと思います。

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