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推論的世界【3】

【3】推論─“論理”をめぐって(2)

 前註として。
 意識の私秘性をめぐるウィトゲンシュタインの有名な比喩に、人は誰もがカブトムシの入った箱を持っていて、自分の箱の中を見てカブトムシの何たるかを知るのであり、他人の箱の中を見ることはできない、というのがあります。つまり、自分の心の中の思いや感じ、クオリア、考えは直接(誤認しようもなく)知ることができるが、他人のそれは見ることができず、それが本当にあるかどうかも含めて外部に現われた表情や言動から察することしかできない。
 この私秘性に関して、私以外の他人が私の箱の中身を見ることは「論理的に不可能」だという言い方があります。そこで「論理」と言われているものの「正体」が何であるかについて、永井均氏が、『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか──哲学探究3』の第10章──同書のハイライトにして「哲学探究」三部作の大団円とも言える“カント越え“の終章への重要な伏線が張られている──で「ぜひ参照していただきたい」(200頁)と注記していたのが、以下の書物の該当箇所でした。

 その2.永井均『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』

 永井氏は、『哲学探究2』終章の「「私秘性」という概念に含まれている矛盾」という節において、意識の私秘性が意識という概念そのものの本質に属しており、アプリオリな意味上の真理である──複数の意識が互いに私秘的な関係にないケースは、独身者が結婚しているケースと同様、考えることもできない──としても、言葉の意味はけっして最終審級ではなく、その「成立の秘密」があることを緻密に考察するため、記憶の場合と比較している。

・過去の体験と現在の体験との比較と、自己の体験と他者の体験の比較との違い──過去に感じたクオリアを今直接表象することはできるが、他人が今感じているクオリアを直接表象することはできない──は、後者には事実として記憶に対応するような直接的表象の方法がないという点だけである。
・それでは、もし自他のあいだにも記憶と同じような認知方法が存在したらどうであろうか。たとえば、至近距離に近づくとその人の感じていることや思っていることがありありとわかる、というように。
・自他の場合は、相互的な言語描写によってその一致をさらに確かめあうというステップも踏めるので、記憶の場合よりも確度が高くなるともいえるだろう。(261頁)

・とはいえ、たとえその言語描写が一致しても、他者の感覚と自分の感覚とを比較照合する方法は存在しない。だから、それが同じか違うかはどこまでもわからない。
・しかし、このやり方が日常的に齟齬なく適用している状況では、二人が「同じ」クオリアを感じることになる。そこでは「同じ」の新たな意味が成立している。(262頁)

・そのような場合にもやはり、通常の自他間や記憶の場合と同様、二つの感覚を比較照合するすることは決してできない。
・この事実には、たとえ日常的に齟齬なき使用法が確立していても、やはり何かしらいわば「形而上学的な意味」が残りつづけるように感じられるだろう。なお残るこの感じには重要な意味がある。(263頁)

・それは、たとえすでに概念化されたそれであっても、「独在性という事実」に由来する成分である。
・「意識」とか「感覚」とか「体験」とかいった概念には、「独在性という事実」に由来する意味を持たせないかぎり、「形而上学的な意味」を持ったアプリオリな私秘性などを付与することはそもそもできない。
・なぜなら、独在性は、もちろん端的な生(なま)の事実でもあらざるをえないとはいえ、すでに概念化されたいわば客観的な事実でもあらざるをえないからである。(264頁)

・意識の私秘性という問題にはじつは、経験的事実としてそれぞれ他の箱の中を覗くことができないという種類の問題と、箱はじつは並列的に存在してはおらず、なぜか一つだけいわば裏返されており、すべてがその「中」にある、という種類の問題とが、一つの問題に統合されているのである。
・私秘性という概念には本質的に異なる二種の世界像が混在している。これを「矛盾」と呼ぶこともでき、その場合それはマクタガートの言う時間の矛盾と(現れ方は異なるとはいえ)問題の根は同じである。哲学的に重要なことは、そこに同じ問題を見て取ることである。
・私秘性がその本質的要素に含まれると見なされるかぎり、意識、感覚、体験、等々のすべての概念に、これと同じことがいえるはずである。(266-267頁)

 ──それでは、論理の「正体」とはいったい何だったのか。
 ここには、二つの相における“論理”があります。第一のそれは、 「私秘性」という言葉の意味そのものからくる。つまり、他人の心の中を見る(知る)ことはできない、というのが「意識の私秘性」という概念の定義なのだから、独身者が既婚者であることが不可能であるのと同様、私が他人の心を直接知ることは「論理的に不可能」である。
 第二の相は、そもそもそのような意味(定義)をもつ「私秘性」なる言葉(概念)が成立する背景に、「独在性」という形而上学的な──「実存」にかかわる「現実性」の世界における──「生の事実」が潜んでいて、それが、つまり「独在性という事実」が──「本質」にかかわる「実在性」の世界における──「客観的事実」もしくは「主観的事実」として概念化されたのが「意識の私秘性」だったのだ、ということに基づく。
 だから、自他のあいだにも記憶と同じような認知方法が存在し、かつ言語描写によってその一致を確かめあうという、日常的に齟齬なき(言葉=概念の)使用法が確立したとしても、やはり他人の心の中を見る(知る)ことは「論理的に不可能」だという、独在性という事実に起因する形而上学的な“感じ”がなお残る。
 第一の相の論理は、平板で平面的(単層的)な世界において、いわば同一レベルに属する二項の関係を捌くもの。そこでは、Aと¬Aが「同一」となることはけっしてあり得ない。
 第二の相の論理は、いびつで立体的(複層的)な世界、つまり最初から矛盾律が破られているダイナミックなフィールドにおいて、異なるレベルに属する事象──たとえば〈私〉と《私》(概念化された〈私〉)もしくは〈私〉と「私」(一般的・客観的な主体=主観=主語)、時間論の文脈で言えば「A事実」(〈今〉)と「A変化」(《今》)もしくは「A系列」(過去・現在・未来)と「B系列」(先後関係)、さらには〈私〉と〈今〉、《私》と《今》──のあいだに「同型性」(「同一性」ではない)の新たな意味を見いだすはたらき(動き)のこと。
 先走って書いておくと、私は、この論理の第二の相、世界の成り立ちに深くかかわるそのはたらき(動き)のことを「推論」の核心と考えています。

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