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文字的世界【8】

【8】哲学的洞窟から旧石器時代の洞窟壁画へ・若干の註

[*1]「図像的推論」は『連続性の哲学』第六章に出てくる言葉。「このような主題は、その神髄が詳細な図像的推論にある以上、それを八回の講演で述べようとすれば、過度に分かりにくいものになることは避けられないことであった」(274頁)。
 パースはここで、「数学的形而上学、あるいは宇宙論」という主題をめぐって、たとえば「トポロジー」(パース自身の言葉では「幾何学的トピックス」)における「連続体をめぐる推論」を念頭においている。

[*2]「内なる文字」はエリアス・カネッティの言葉。『群衆と権力』(岩田行一訳)下巻収録の論考「変身」第一節「ブッシュマンにおける予感と変身」においてカネッティは、視覚や聴覚によらず「遠隔で起きていることを知る」ブッシュマン(サン族)の能力を「身体のなかにある…文字が語り、動き、かれらの身体を動かす」(97頁)と表現している。
 港氏はこの「驚くべき「予感」の能力」を、サン族の岩絵をめぐってルイス=ウィリアムズが主張したこと──すなわち、そこにはシャーマニズムに基づく宗教的経験が表現されており、トランス状態に入った人々が見る幻影が含まれている──が根底において連続していると述べている。
「カネッティが見抜いているように、両者は「変身」という点で連続しており、前者[予感の能力]は後者[シャーマンのトランス]の初期段階なのである。(略)これらの現象が、どれほど異様に見えようとも、それは「来るべきものを知る」ことが生きるために不可欠だという意味で、生の一部である。彼らの変身は、感じるものと感じられるものが分断不能の状態に置かれているという意味で、ひとつのテオーリアである。アフリカのテオーリアは、神話時代を超えて、悠久の時間からやってくるものなのだ」(『洞窟へ』257-258頁)。
 悠久の時間、すなわち旧石器時代の洞窟芸術における「内在光(entoptic)現象」からやってくるもの(同書234頁)。

 以下、場違いな備忘録を二つ。
 その一。港氏は、ブッシュマンの岩絵(シャーマニックな図像群)と変身の予感の話題を旧石器時代の記号群──「ルロワ=グーランは記号の二元論的解釈を通して、その背後に宗教的構造が横たわっていることを示唆した」(同書259頁)──に結びつけて「文字の発生」に説き及び、アリア・ギンブタスの研究(『古ヨーロッパの神々』、鶴岡真弓訳)を取りあげている。
 新石器時代ヨーロッパの記号群を研究したギンブタスが注目したのはジグザグ図形である。「多くの場合ヘビや水を象徴するこの図形は、アジア一帯では「ナーガ」という水のシンボルとして知られ、また古代エジプトにおいてジグザグは水を表す象形文字であるが、新石器時代だけでなく、後期旧石器時代の線刻にも見られる。ギンブタスはこうした歴史時代と先史時代をつなぐ、記号表現の共通点を重要視し、メソポタミヤにおいて誕生したとされる「文字」の歴史を、後期旧石器時代まで延長できる可能性を問うのである。」(同書261頁)
「象形文字からアルファベットへというリニアな段階的発展が、実は局所的なものであり、それ以前の氷河時代に別の体系をもった文字が広範囲にわたって存在していた可能性もあるのではないか。それを証明するには、文字の「ショーヴェ洞窟」が発見されなければならないが、しかしそのような大発見がなくても、考えてみる価値はあるだろう。」(同書263頁)
 その二。マーク・チャンギージーは『ヒトの目、驚異の進化』で下條信輔らとの共同研究の成果を紹介している。いわく、あらゆる言語の文字単位の平均画数は3であり、3本の線の結合からなる文字の基本要素(かたち)の分布と自然界に現われるかたちの要素の分布は一致する。
 後段については、石田英敬氏が『新記号論』でチャンギージーの共著論文をもとに紹介している。《https://www.journals.uchicago.edu/doi/pdf/10.1086/502806》

[*3]余録を二つ。
 その一。『週刊読書人』(2001年8月31日)での中沢新一氏との対談「思考の臨界点を超えて」で、港氏は「洞窟を発見したのは子どもが多いんです」と語っている。「子どもはイメージを変容する力のあるもの、変身を体得したもので、この世界の法を崩壊させてしまうから危険な存在でもあります。」
 また、『洞窟へ』の刊行とほぼ同時に発見されたラスコー以前の線刻画をめぐって、ここには人間の「現在」があると語っている。「今これを見て感動できる僕らの心は、三万五千年前から変わっていない。それが唯一、僕らが信じられる「現在」じゃないかと思うんです。」
 その二。上記対談での著者による自著解説。
「起源が刻印された小さなフィルムを発見し、そこに強い光を当てると、不思議なことに過去の生活が全部見えてくる。このカメラの図式が、西欧的な思考、世界の見え方を強く拘束してきた。それは二重の意味でアルケオロジックな視線です。それを踏まえた上で、プロジェクションじゃない見方もありうることを明らかにしようとしたのが、僕の採ったアプローチでした。
 具体的に言えば、神経細胞選択説がとなえるような「選択」であり、バタイユが考えたような「変質」です。モノがゆっくり腐っていく。腐っていくというプロセスは、プロジェクションではない。透視図法では描けないような、もうひとつのイメージの変容過程です。それを描こうとしたのがバタイユでした。そうした「変質」あるいは「選択」によって、もうひとつのアルケオロジーが可能になるのではないか。」

 ──ここで私が想起したのが、幾何学的メトリックス(計量論もしくはユークリッド幾何学)と幾何学的オプティックス(射影幾何学もしくは透視幾何学)と幾何学的トピックス(トポロジーもしくは「内在的幾何学」)をめぐるパースの議論だった。
「トピックスが扱う主題とは、連続体の各部分の結びつきの様相についてである。したがってこの幾何学的トピックスこそ、哲学者が連続性について幾何学から何事かを学ぼうとすれば、まっ先に研究しなければならないものということになる。」(『連続性の哲学』232頁)

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