文字的世界【23】
【23】文字の世界、霊的世界──白川文字学2
前節につづき、白川静の言葉を採集します。以下は、『桂東雑記Ⅱ』に収録された、石牟礼道子との対談「日本語とは──「ことば」と「文字」をめぐって」からの切り抜きです。
《文字が生まれるまでに、まず神話的な世界というものがありまして、この神話的な世界に対してどのように参加するか、単に物語として語り伝えるというだけでなしに、神話的な表象というようなものを形で示すことができないか、というので、実際はちょっと絵のような、われわれは普通それを神話文字というているのですが、神様に対してだけ通ずるという、そういうものをまず作るのです。これは一つの図象みたいなものです。文字よりちょっと以前のものです。ところがそれを文章化して、神様になんとか聞き届けてほしい、見ていただきたいというようになりますと、はじめて文字ができる。これは神に対するものですから、はじめから神聖文字です。いわゆるエジプトのヒエログリフですね。だから文字が生まれるまでには、長い間の、そういう一つの願望があって、はじめて文字として結晶されるわけですから、できあがった時にもうすでに完成されておるのです。ぼちぼちできてくるというんではない。長い間のそういう人類の願望といいますか、神聖王ですね。王様といっても神様と同列ぐらいの自覚があって王朝ができるわけですから、そういう神聖王が神と直接に交流したいという、そういう観念があって、はじめて文字が形象化される。だから一番はじめに生まれた文字は、どこの国でも神聖文字です。民間で使うようなものではない。神様に自分の意思を伝える、神様と交通する手段であるという、そういう性格のものとして文字が生まれてくるわけです。》(『桂東雑記Ⅱ』224-225頁)
ここで語られた「文章化=形象化」、すなわち、神話的表象を形で示す「文字よりちょっと以前のもの」──神話文字、図象、あるいは文様、縄文、螺旋、市松模様、等々の“フィギュール”の最終形態──から、神との交通手段としての文字が形象化(結晶化)され、生まれ出てくるプロセスを通じて、文字以前の神話的世界における人間の生活そのものが、文字の世界の中に「呪的な世界の出来事」として入ってくる。それを、白川静は「霊」という語彙を使って表現しています。
《霊というものは、われわれと離れてあるのではなくて、われわれもいずれはその霊の世界に入っていくことができる。そういうふうな彼我を包んだ、両方を包んだものとして霊の世界があるわけです。だから古い時代のいろいろなものは、すべて霊とどう交渉するか、霊にどのように関与するか、霊をどのように与え、受けとるかという、こういう関係において成り立つ。文字の世界はほとんどそういう基本の観念をもっていますから、それで文字の中にはそういう呪的な世界の生活のあり方というものが、全部入ってくるわけです。文字は単なる形骸という、ある時期の観念の形骸というのではなくて、その時代までの人間の生活の全部が、そういう呪的な世界の出来事として入ってくるわけです。》(227頁)
ここで白川静は、幸田露伴の「音幻論」に言及します
《ことばというものは、…本来、感性的なものです。たとえば、寂しい時にサ行音を使う。何か寂しい、沈静な感じの時には、だいたいサ行音を使う。『万葉』では、
ささの葉はみ山もさやに亂[さ]やげども吾は妹おもふ別れ來ぬれば
ああいうふうなサ行音が重なるという、あの発想の仕方は、やはりサ行音が一種の寂寥感をもつということですね。たとえば、藤村の詩でもあるでしょう。「千曲川 旅情の歌」に「雲白く遊子悲しむ」というように、ああいうふうな句にサ行音が多くなる。そういうふうにサアッと何か通りすぎるという場合に、風、嵐、東風というふうに、ゼ、シ、チというような、ああいうふうなサ行とタ行が混じったような音、あれは風の摩擦音でないかと思う。
幸田露伴が『音幻論』を書いて、そういうふうな近似音が同義語の中に多いという場合の、いわば根源的な発見として、音が感情をもつという議論をしている。ところがこれは、どこの国でもみなあるので、日本でも鈴木朖[あきら]という江戸の中期の国語学者が、『雅語音声考』であったと思うが、雅語の音声、これの中に音が感情をもつという議論をしています。(略)そういうふうなものは、漢字の場合にもいえる。(略)そういう言語発生論からいうと、ある種の音形はある種の意味内容をもつという一つの結論が出せる。ことばというものはそこから出てきとるわけです。》(238-239頁)
白川静が「ことばというものはそこから出てきとるわけです」と言う「そこ」において、音と形、声と文字の素になるものは一致します。それを私は“フィギュール”の概念でおさえ、霊的な存在として捉えてきたわけです。
しかし、これではいつまで経っても、文字以前の世界に足踏みするだけで終わってしまいます。言語が生まれる前の世界を言語を使って語ることが“倒錯的”であるとしたら、文字以前の世界を文字を使って示すことは、“我思う”前に“我あり”と言明するような、不可思議の論理[*]を駆使しないと叶わないのではないか、そんな気がしてなりません。
[*]窮理舎のホームページに掲載された「哲学することの始まり――梅園と露伴へ通じる論理学」《https://kyuurisha.com/philosophical-logic/》は、「条理」という三浦梅園が生み出した「日本人独自の論理思想」を取りあげている。
「例えば、上に挙げた形式論理[経験によって得られる個別の内容ではなく、論証の形式に注目する論理]と似たような例でいうと、自然界には「気」が満ちているが、「気」を語るには必ず「物」をもって来なければならず、「気」は「物」と対立して初めて意味のあるものとなる、といったように、梅園の論理思想には対立概念が全体を貫いています。「反観合一」という梅園の思想もこれに基づくものです。」
梅園の思想の中核ともなる「対立」や「矛盾」の概念には否定の論理が含まれているが、この否定の論理には、「ではない」と言ったとたんに「ない」ものが現れ、否定することでそこにないものを見てとることができる、という「不思議なもの」がある。──以下、全文抜粋。
……この否定の不思議を追求した例として、幸田露伴の『血紅星』という面白い作品があるので、ちょっと紹介して結びとしたいと思います。この作品に登場する主人公は、皆非居士という万巻の書を読み尽くしたが故に全ての欠点が目にとまり、知らずのうちに「皆どれも非ず」の世界に没入してしまった男の、悲劇というか喜劇というか、まさに矛盾した世界観を表現した小説になっています。
例えば、その冒頭。
一も非なり二も非なり、三も非なれば四も非なり、五六七八九十、乃至百千万億悉皆非なり、昨日は素より非今日も又非昨日は又々非に極まったり、何かは知らず生れ出でしがそもそもの非、・・・・
といった具合に、漢文調でテンポよく、お経のように綿々とこの「非」の調子が続いていきます。ある日、この皆非居士に月界から美しい仙女がやって来て、月宮殿の姫宮が、万巻の書を読み尽くしたという皆非居士に会い、一篇の詩がほしいという。皆非は、自分の我が儘をきいてもらうのと引き替えに月世界へいきます。美酒に酔い、贅を尽くす中、皆非は、姫君の好きな題で詩を吟じてみせようと話すと、姫君は「皆非先生御自身を題にして御筆揮ふていただきたし」と優しい声で囁くや否や、
熱血霧となって八万四千の毛孔より飛び、黒烟頭上におこって奥歯の軋る音烈しく、見る見る眼は輝き渡り五体に火焔の燃え立つ途端、あっと一声叫ぶ刹那、身を躍らすこと八万由旬、血紅の光りを放つ怪星となって流れおつる無辺際空
と、まるで超新星爆発のようなカタストロフが起き、皆非居士は血紅星となって消えていった、という結末で終わります。
すべてを否定することで、すべてを包含する空なる星と化していった、という露伴らしい作品世界が描かれています。梅園の世界とも重なる皆非の世界。論理学と通じていることは面白いことだと思います。
¬ (∀x) P(x) ∈ ∅ ……
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