【雑感】自然派ワインはテロワールを表現しているのか?

雑感です。

いろいろな意見が出やすいネタだと思いますので、そのうちのひとつの意見だと思ってお読みください。

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近年、自然派ワインが人気を博しています。

もちろん、ワイン全体の売上から見ればまだまだ僅かな数字かもしれませんが、「こういったワイン、待ってました!」という方が世界的に増えてきていることは間違いないでしょう。

個人的には、“○○でなければいけない”という思いはなく、生産者の哲学に寄り添うかたちで目の前にワインに対峙しています。

生産者の中には、ブドウを健全なかたちで栽培して収穫するために最低限の農薬を使うという方もいれば、この土地の味わいを表現するために余計なことはしない…という方などさまざまな方がいます。

その人が思うやり方に自分のような浅学な人間が、“○○さんは、こういった造りはしないぞ!”というように諭すことは愚の骨頂だと考えているので、自然派なのか、そうでないのかの区別を付けずにワインを楽しんでいる次第です。

さて、自分のスタイルについてはどうでもいいのですが、自然派ワインこそが本来のワインの姿だ…という生産者や飲み手は少なくありません。

農薬、培養酵母、醸造における意図的(品質維持のための)な人的介入など、そういったことをしたらそのヴィンテージやテロワールの個性を殺していると同然だ、という意見を耳にすることがあります。

その考え方には一理あると思いますし、その方たちが思うワインに対する哲学を否定する気もありません。むしろ、素晴らしいものに出会うことも多く、そういった生産者のことは心からリスペクトしています。

ただ、自然派ワインの難しいところに、“素晴らしい味わい!”というものと、“これは完全に劣化している”というものがあるところです。

通常、健全な自然派ワインを造るためには人一倍(それ以上?)の品質管理や醸造、管理などの知識が必要とされており、相当な技術と経験が必要になると考えられています。

つまり、素晴らしい生産者もいれば、そうでない生産者もいるわけで自然派ワインは玉石混淆の状態なわけです。

どんなに良いものがあっても、ひとつのカテゴリに低品質のものが少なくなければ全体の評価は悪いイメージになりがちです。

現に、フランスやイタリアなどのワイン伝統国の場合、自然派ワインに対する政府の介入が厳く、“こんなものを、原産地呼称のワインとして世に出してもらっては困る”と厳しい処分を受ける生産者もいるそうです。(詳しくは、イザベル・レジュロンMVの著書をお読みください)

なぜ、昔ながらの造りをしているのに仲間はずれのような扱うを受けるのか…。

真面目な自然派ワインの生産者の悔しく、辛い思いをしたであろう気持ちを考えると心が痛みます。

とはいえ、冷静に考えてみると、“本当に自然派ワインはその土地の味わいを表現しているのか?”という疑問が脳裏をよぎります。

ブドウの品質管理は前提として、醸造学などを学んでいる、またはそういった学問が趣味的に好きで詳しい方であれば、ワインを劣化(さまざまな品質低下や変化を含む)させずに瓶詰めするための技術がどれだけ大変なのかを理解していると思います。

例えば、自然派ワインの基本は自然酵母での醸造。一般的に考えると相当リスキーな工程です。

さらに、その後の管理や樽熟成、および瓶熟成など常に危険に晒されながらの造りになることは言うまでもありません。

こういった工程で仕上げたワインを大成功と言っている生産者がいる一方、“この外観、香りや味わい、全てが失敗作”とみる生産者もいるなど、関係者の間でも未だ世界が見出せない独特な世界でもあるのです。

ちなみに、日本酒関係の方で、“ワイン生産者はブドウ(原料)のことは雄弁に語るが、蔵の中(醸造関連)のことはほとんど見せない。日本酒とは逆だ”ということを言っている方がいました。そして、ずるいなぁ〜とも笑。

要するにワインの場合、蔵の中の情報はあまり大っぴらにしないために、ある程度の自然の力(ワインの神が指し示した方向に逆らわずに…)で造られているといったイメージが強いのかもしれません。

神の○○…というキーワードの漫画や売り方がいいとか悪いとかではありませんが、ワインという存在が、“神秘的”な印象を消費者に抱かせやすお酒ということは間違いないでしょう。

そうなると、自然派ワインの存在感は強烈です。

その土地の個性をあらわすのに、ブドウ栽培から醸造に至るまで、人間が余計な介入をすることなどあり得ない。

こんな哲学を持ってワイン造りをしている生産者の言葉はシビれますし、普通にカッコいい!と思わされます。

しかし、本当にそのワインこそがテロワールをあらわしているのか…。本当に難しいですし、考えさせられます。

例えば、個人的に難しいと考えているのが、世界中に点在している自然派ワインと呼ばれるカテゴリのワインの味わいが全て近しいところです。もちろん、個性はそれぞれにありますし、細かいところを吟味すればそれぞれに差違があり面白い世界であることは間違いないでしょう。

それでも飲んだ瞬間に、“あ、がっつりヴァン・ナチュールかな?”という産地がバラバラなワインが10種あった時に、それぞれの産地を言い当てられるか(または想像できるか?)、かなり難しいような気がしています。

まぁ、そもそもワインを飲む目的は当てっこゲームではありませんが…

とにかく、栽培上や醸造上のリスクを無視してナチュラルという言葉だけで造られたワインは健全なワインとは違う別の味わい(劣化の方向)へ向いてしまうため、もはやテロワールを表現する以前の問題では?という考え方もあるのです。

個人的に尊敬している恩田匠氏が、以前シャンパーニュに研修へ行った際にまとめた報告の一部を抜粋しますが…

“(自然発酵について)シャンパーニュ委員会のまとめとしては,まず、自然発酵は何ら規則に反することではないので,このことについての論争や規制などは行わないとしている。

 しかしながら,科学的な見地から,『酵母を用いずに発酵が不安定になった結果として生じた揮発酸の強弱などは「テロワール」とは全く関係ないということ』をはっきりと言及している。

同じ人間が,同じ酵母を用いて、同じように発酵させても、例えばアイ村とアヴィーズ村のブドウでは、伝統的に異なる特徴のワインが生成されることが確かめられている。これこそが 「テロワール」の差異であると説明している”

詳しくは、コチラ

同じ品種ではあるが、同じ酵母、同じ造りをした時にどれだけ地域差ができるか…。それが、テロワールであるということでしょうか。

そうなると、全ての国のワイン造りで酵母添加はせずに自然派ワインのみを認めることでテロワールの差違が分かりそうですが、まぁそれは不可能です。

自然派ワインを全くの別物にするのか、一般的な造りのワインと同じカテゴリで見るのか、やはりこの部分はこれからしっかりと考えていかなければいけないのかもしれません。


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雑感ですので、まとまりの無い感じになってしまいました。

個人的に好きなワインの多くは自然派ワインですし、健全な品質のものも多くあります。

有名生産者も、自然派の造りに移行していたり、昔からそういった造りをしているところもあるので否定したいわけではありません。

とはいえパンチの効いたレベルの自然派ワインまでいくと、もはや産地や品種というより、どれだけ面白いワインなのか…に重点をおいて楽しんでしまい、テロワールについて考えることはできないのも事実。

難しいことを考えずに、普通に楽しめ!と、自分に喝を入れる日々ではありますが、“どうなのかなぁ…”と思って簡単にまとめてみました。


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