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お灸をすえる夜

10月に入り、気温がぐんと下がるこの季節に、思い出す出来事がある。

それは4年前の秋。息子を妊娠中のこと。



「逆子(さかご)ですね~。今日からお灸をしましょう」

産院の先生がひょい、と手渡したのはお線香と『もぐさ』。

急なお灸の出現にとまどう私にかまわず分厚い書類もずいと手渡す。

「これ、逆子にお灸が効くことが書かれている論文。ああ、間違っても逆子体操なんかしちゃだめだよ。あれはリスクしかないからね」

これまで多くの妊婦さんに話してきたのであろう説明は早口でよどみがない。

かたや逆子と聞いただけでうろたえる私だったが、先生の圧に負けてその日の診察を終えた。

逆子での分娩は母子ともにリスクが高いことや、帝王切開になる可能性も……程度の知識しかない私だったが、お灸でなんとかなるのであれば、と早速その日の夜から試してみた。

逆子を治すツボは『至陰(しいん)』という足の小指の外側の位置。『もぐさ』を米粒大のせて、火のついた線香を近づける。

じじっという音とともに、線香から『もぐさ』へ火がうつり、瞬間的な熱さが小指を襲う。

文字で書き起こしていても、あの熱さが思い起こされて、体がぐっと縮こまる。

最初のうちは自分で線香の火を『もぐさ』につけていたが、そのうち怖くてできなくなってしまった。

「俺がやる!」と夫が火付け係を申し出てくれて、そこからは2人で恐怖のお灸タイムとなった。

論文に書いてある実例は虚偽なんじゃないか、と腹がたつほど逆子は治らず、2週間ほどお灸タイムが続いた。

『もぐさ』に火をつける瞬間は、熱さへの恐怖と、逆子が治らないことへの焦りで涙が浮かんでくるが、ちらりと夫を見ると、なんと夫も涙目。それを目にしたら少し気持ちが和らいだ。


ある夜。
長袖でも少し肌寒い室温の中、お灸をするために靴下を脱ぐと、ひやりとした床の冷たさが足の裏に広がった。

気を紛らわすためにテレビをつけると、タイミングよくお気に入りの芸人さんが登場する。

彼らの渾身のネタに目を奪われ、私がくすっと笑った瞬間を狙って、夫が『もぐさ』に火をつけた。

「あっっっつ!!」

不意打ちの熱さに、体全体が宙に浮くぐらい飛び上がった。

その瞬間ーー

ぐるんっと効果音が聞こえそうなほど、お腹の中で赤ちゃんが回転した。

病院でエコーを見なくても確信できるほど、はっきりとした感覚。

不意打ちを謝る夫に、泣きながら「治ったよ~!!」と報告して、恐怖のお灸タイムは唐突に終わったのだった。


その後、無事に経膣分娩(通常出産)を果たし、お灸の痛みを遥かに超える陣痛を経験したが、不思議なことに妊娠・出産の思い出として色濃いのは、恐怖のお灸タイムだ。

そのおかげか、いたずら盛りの息子が何かやらかすたびに、つい言ってしまう。

「悪い子には、お灸しちゃうからね!」

『お灸』と聞かされて、息子に効果があるわけもない。きゃっきゃと部屋中を駆け回る息子を目で追っているうちに、夫と目が合った。

恐怖のお灸タイムを一緒に乗り越えた『同志』が、神妙な顔をして頷いてみせるので、思わず笑ってしまう。


ひやりと肌寒い季節になると、ぐるんと赤ちゃんが回転した夜を思い出す。
きっとこの先、何年たっても忘れられない、人生の出来事である。

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