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神の誘惑 エペソ2:1-8

先日、原始福音キリストの幕屋の友人と会った時に、彼が「エペソ2章だね」とのみ言っていたので、今日はエペソ2章です。
話の内容が統一教会問題についての話だったので、おそらくエペソ2:14ー15「キリストこそ私たちの平和であり、2つのものを1つにし、隔ての壁をこわし、ご自分の肉体において、敵意を廃棄された方です。」を言いたかったのかなと。

今日はそこまでいかずに、エペソ2:1-8です。
さて、「悔い改める」というのはメタノイアの日本語訳ですが、この訳語が実に評判が悪いものです。
メタノイアの「メタ」は「変化」でノイアは「ヌース」なので「知性、精神、心、思い」といった意味があります。
だから、メタ+ヌースで「心が変えられる」ということでしょうか。
後藤望牧師に聞くと、メタノイアの訳語をあてたヘブル語は2つあって「あるべきところに帰る」「かわいそうに思う」というのがメタノイアの意味にあるそうです。

エペソ2:1-2
そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

パウロが「空中の権威を持つ支配者」といってる「霊」ですが、その前に「この世の流れに従い」と言っています。この世の流れを作り出しているものは、アダムとエバが善悪の木の実を食べて以来、神から離れた自分勝手な判断で生み出した世界です。メディアの情報にいいように流されて、「自分勝手な判断」すらそれに逆らう力がなく呑み込まれてしまう。
「善悪の木の実」と表現されたヘブル語のトーブラーは「トーブ」が「善」で「ラー」が「悪」ですが、「好き」「嫌い」といった意味もある広い言葉です。「好き嫌いの木の実」とも訳せる。要は「自分勝手」です。そして、神の前に正しく立つことができないので、カインのように顔を伏せ「神から自分を隠す」ことを始めます。「恥ずかしい」という話になります。アダムとエバは自分たちの行為から、我が子がカイン(長男)がアベル(次男)を殺す惨状を目の当たりにします。後にセツが生まれ、そのセツの時より人間は「神の御名によって祈ることを始めた。」(創世記4:26)つまり、礼拝を始めたとうことです。

「この世の流れ」を生み出し私たちを呑み込む「空中の権威」を持つ「霊」の支配に対して、エペソ2章では「恵み」による「贖い」を語ります。

エペソ2:3-5
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、・・・しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛ゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かしーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのですー

「大きな愛ゆえに」「恵みによる」と。
刑罰によって「心が変えられる」のではなく、「恵み」による。
本当に大切なものを、この世の「霊」は隠します。
本当に私たちの「いのち」を生かすものは、小さな者の小さい支えであったり、低い者の心ある一言であったり、弱い者の存在であったり。
そうじゃありませんか?
私たちはこの世の大きな者に支えられようとしますが、本当にそれが自分の「いのち」を生かしてきたでしょうか?
むしろ、偉い人の「偉い」部分って、私たちの「いのち」にとってどうでもいい。
逆に、私が「俺はすごい!」と自慢する「すごい」は、他の人にとって「別にそれ、要らない」ものばかりです。
私の持つプライドだって、皆さんにとって「どーでもいい」でしょう。
もし私が何かすごい立派な肩書があったとして、皆さんにとって「どーでもでいい」話です。
むしろ、そんなものが無くても受け入れてくださっているのが、私は嬉しいし、私の「いのち」はそっちでこそ生かされている。
それを実感するには、プライドや名誉なんて、むしろ真逆でかえって邪魔なものです。
「空中の権威」が人々を真逆に誘います。

ところが、神の誘いは違います。
マタイ7:13「狭い門から入りなさい。」です。

神の誘惑は「狭い門から入りなさい」です。
キリストの低さ、小ささ、弱さ、そこに「いのち」を生かすものが見えます。
イエスさまはご自身を「門」である言いました。
また「道」であるとも。
そして「いのち」であるとも。
そうしてみると、イエスという「門」をくぐって、イエスという「道」があり、イエスという「いのち」に至る。
イエス・キリストに始まり、イエス・キリストに歩み、イエス・キリストのいのちに至る。
イエス・キリストからイエス・キリストへ、しかしそこには信仰から信仰へと連動される「流れ」があるのです。

その時、私たちの信仰は「神の裁きは怖いぞ!」といって「悔い改め」をさせるのとは違います。
だから、キリスト教会や牧師の「言うことを聞かなくては!」ではなく、教会も牧師も従っているキリストに従うのみです。
自分の心を教会や牧師に合わせるのではなく、「今は無理!」とか、まず「今のすべきことをしてから」とか、「タイミングを見計らったり」とか、神の流れを感じているのならば自分で祈りつつ考えればいい。
ただ、そのとき偽りの信仰にあって歩むのでなく、自分が本気にならないといけない。
どんなに試されても大丈夫な信仰を持つ。
この世の流れに呑まれない杭。
軸が鋼のように芯がしっかりしている信仰を持ってください。

エペソ2:7-8
それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。

神の豊かな「恵み」をしっかりと受け取るためには、余計なプライドや過去の憎しみや恨みなど要らないモノを捨てて、両手を空にして神の前に差し出す必要があります。
そのためにも、恐ろしいほど固く信仰に立つのがいいです。
思いっきり神の愛を知り恵みに心を開いて受け取るのがいいです。
この世は心を閉じさせる方向に誘導します。
神の誘惑は真逆です。
この世の誘惑は、何かすごいもので誘います。
神の流れは真逆です。
神は常に動いているので、神の霊が動くとき、その動く方向に目を留めればいいわけで、動きが分かると神が何を求めているかが見えるでしょう。

神の霊が動くその方向に歩むためにも、神の息吹を感じることが必要で、実際のところ信仰者にとって、神の息吹自体が「神の恵み」だともいえます。



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