テレビブロス休刊、雑誌の編集者をやめた理由は「これ以上作ってて面白い雑誌はないから」が分かったから

テレビブロスが33年の歴史に幕を下ろしました。いやぁ~、創刊メンバーの泉麻人氏やいとうせいこう氏、ナンシー関氏や浅草キッド、爆笑問題、吉田豪氏、掟ポルシェ、ねこぢる氏など様々な逸材が書いてくれました。

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さて、そんなブロスの最終回は、「伝説の連載第一回 再掲載」という付録つきでタップリ楽しめますよ~。私も片桐仁さんの連載『おしえて何故ならしりたがりだから』(通称「おしり」)の17年間を振り返る座談会に登場させてもらいました。2003年、初の連載担当になり、当時29歳だった片桐さんに会いに行った29歳のオレ……。そんな話がたっぷりとまとめられています。

なんとこの鼎談、当初4ページだと言われていたのに5ページに増えていた! それだけ2時間我々4人は笑い合い、しみじみと17年を振り返ったのでした。片桐さんを中心に現担当で3代目の小倉隆司氏、2代目の木下拓海氏と最後にこうして写真を撮れたのも嬉しかったです。小倉さんからは送本時にお手紙もつけていただき、「『おしり』の担当編集だったことは、一生の誇りです。改めて、素晴らしい連載を立ち上げていただき、本当にありがとうございます」という有難いお言葉をいただきました。

いやいや、オレなんて2003年~2005年しかやっておらず、木下君が2005年から2010年、そしてあなたが2010年から10年も連載をネタ枯れさせることなく続けてきたんですよ。私こそ感謝したいです。

座談会については、懐かしい写真もたくさん出てきて、そして片桐さんがいかに天真爛漫な方か、そしてオレ達編集者3人がいかにアホかが存分に描かれています。

みどころたくさんのブロス最終回ですが、面白いのが「モノクロ!3密! ブロスのデザイン特集」と題されたデザイン事務所の「組長」土田氏と「社長」高井氏と編集者の鼎談です。「変人編集長BEST5!」というのがあり1位になったのが6代目編集長の小森浩正氏。はい、私も同氏の下で仕事をしていましたが、本当にヘンな人でした。高井さんがブロスに入ったきっかけが鼎談では描かれているのですが、以下のような感じです(引用します)。仕事を辞めて暇だったため、テレビを見る日々が続いていたためテレビ雑誌を初めて買った時のことです。

--それがテレビブロスだったと?

高井:そうなんです。一番安かったからです。それで中身を開いたら、及川光博のインタビューをやっていたんですけど、途中から級数がガクンと下がる(文字のサイズがぐっと小さくなる)んですよ」

--それは明らかに6代目編集長・小森さんの仕事ですね。

高井:「完全にそうですね。それで文字が小さくなる直前のページの片隅に『次ページからは極小の活字でお楽しみ下さい』って書いてあるんです。

ここで高井氏が述べるように、小森編集長はとんでもない人物だった。何しろ雨の日に一緒に歩いていたら突然「あっ!」とか言って何かと思ったら

小森:中川さん、梅雨ですね。

私:はい、もう梅雨ですね。

小森:梅雨なので、次、「カエル特集」にしませんか?中川さん、カエル好きですよね?

私:(なんだよ、その短絡的な企画…)はい。分かりました。

かくしてブロスの次号は創刊15周年記念号だったのが私の作ったカエル特集は「創刊15周年記念企画その2」として華々しく6ページにわたってカエルについて企画を作りまくったのです。以下、特集の扉ページの右上のカエルの白抜き文字をチェックしてください。なんと、華々しい15周年特集をカエルに任せてしまったのである!

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小森氏の変人エピソードについては無数に挙げることができるので、それはまた別の機会にしますが、以前宣言した将来的に書く「フリーの教科書」の閑話休題的な時にブロス時代の珍話は入れようかなと思います。

そして、先ほどのデザイナー座談会で高井氏がブロスの文字の小ささについて言及していましたが、小森さんの指導がすごいんですよ!

私:小森さん! 文字が3000文字はみ出てしまいました!

小森:今は9級でしょ? 7級にして平体(へいたい)か長体(ちょうたい)かければ多分入るから大丈夫ですよ。

ある時、7級にしても入らないので、最後は6級にするというトンデモない作りにしてしまったことがあります。これが「くたばれ! 就職活動」という特集でひたすら就職活動に罵詈雑言を浴びせ続け、人気企業50社の社員に「我が社で幸せな理由・不幸せな理由」「我が社が欲しい人材・いらない人材」を完全に匿名で正直ベースで語ってもらったのが以下です。このページには1万字入っています。6ページの特集に5万字ほどを詰め込むというとんでもないものになりました。

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この特集を作った後はネットに「就活本1冊買うよりブロスの6ページの方が役に立った!」などと書かれ、本当に嬉しかったです。そんな私ですが、2005年5月に不祥事を起こし、辞めざるを得なくなりました。そこから先、時々雑誌はイレギュラーで作ったりはしたものの、基本は会社員時代の本業だったPRパーソンに舞い戻ってしまいました。2005年は編集者ではなく、PRをやっていたのですが、別の雑誌のフリーの応募に申し込むことはできたのですが、どうもやる気にならなかった。まだこの時31歳だったのですが、正直ブロスの編集者を一度経験してしまうともう他の雑誌はやりたくなかったんですよね。あっ、オレ、作り手としてもっとも面白い雑誌で特集作りまくったからもうやりたいことないや、なんて思ったのです。そして翌年のネットニュース編集者参戦へと繋がるのです。

小森さんだけなのかもしれないのですが、私の特集の作り方は以下のような感じでした。

【1】小森さんから突然電話が来て「中川さん、西部警察って好きですか?」と具体的なテーマを与えられたり「なんかやりたい企画ありませんか?」なんて言われて「京都特集やりたいっす」みたいにして突然始まる。

【2】企画内容については小森さんは一つしかオーダーを出さない。たとえば「一人鍋特集」では「『ブロスを鍋敷きに使ってね!』 という一言を入れてください。この前読者ハガキで『鍋敷きとして重宝している』というコメントがあったので」など、どうでもいいこだわりを見せる

【3】企画は勝手にすべて自分とライターでやりたいものを詰め込みまくる。デザインも見せないし文章も一切見せない。大日本印刷で「念校」と呼ばれる最後の状況で小森さんは初めてゲラを見る(もちろんサラリと第2校段階でも見ているとは思うが、ちゃんと見るのはこれが最初)。そして、直す部分も「う~ん、ここは『が』よりも『は』の方がいいですね」のように、どうでもいい部分ばかり

【4】終了。すぐに【1】に戻る。

とにかく自由過ぎました。他の編集者と喋ることも一切なければ、オレは一人で仕事をし、担当していた片桐仁さん、光浦靖子さん、キリングセンスと一緒に取材をしたりやり取りをするだけ。

本当に楽しい4年間だったのです。というか、2001年、編集経験ゼロのオレをよくぞ小森さんは雇ってくれたよな!!! と今になって驚愕するのです。ブロス読者の皆様、長年ありがとうございました!

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