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石塚正英著作選【社会思想史の窓】第3巻 身体知と感性知─アンサンブル 読了考察

これは、所謂「読書感想文」として書くのではなく、読了考察として書きます。故に本の紹介とはなりません。

まず、この本を読むきっかけとなったのは、僕のFacebookでこの本の著作者である石塚先生からコメントを貰ったところから始まります。

少しやりとりがあったあとの僕のコメント

>僕の場合は愛国者とはちょっと違ってるのですが(たぶん)、近代国民国家というシステムの「成果」について再評価すべきではないかと考えています。現代は、近代の負の部分を否定するあまり成果のほうも忘れてしまってるように感じられるのです。

に対しての石塚先生のコメント

>近代国民国家というシステムの「成果」について再評価する場合、国家であれ社会であれ、個人の人間観・身体論をどう定めるかが問われます。(以下略)

というコメントをいただきました。身体論というのは僕にとって未知であったので、石塚先生のコメントの意味は正直よくわからなかったのですが、まずは読んでみようと思い、この本を紹介いただきました。

読んでみての結果を先に書くと、身体論についての記述はとても面白く感じたものの、さてそれが、僕の冒頭の「近代国民国家というシステムの成果について再評価すべきではないか」ということの答えに繋がったかというと、僕の咀嚼力の無さからか、まだ脳内がモヤモヤしたままでした。

しかし、今後の考察に足掛かりになりそうなものはいくつかあったので、その備忘の意味も含めて、読了してみて考察したことをここに書いておこうと思います。

本書第1章の1でいきなり「肉の復権」というワードが提示されます。これはなかなかにセンセーショナル。限りなく切り詰めて表すと「近代は通俗的な喜びを堂々と肯定する」といったところでしょうか。

それに対して近代以前の中世社会では宗教権威によって人々に高い道徳性を求めていました。それが表面上のことであったとしても建前としてはそうでした。

僕は現代社会について、近代の成果を忘れて中世に逆戻りしてるのではないかと疑ってるのですが、現代は再び道徳性に煩くなってます。昭和の頃のお下劣なテレビ番組はすっかり淘汰され、社会は道徳性にとても厳しくなっています。これは、中世に逆戻りしている証左のひとつではないでしょうか?

中世に逆戻りしてる現象と言えば以前「コロナの医療関係者やエッセンシャルワーカーに向けて午後1時に皆で感謝の拍手をする」というのがニュースになっていましたが、これなどは近代合理精神とはかけ離れた、じつに呪術的な行いで、寒気を感じたものです。

と、ここまで書いておいて「あれ?」と思ったことがひとつあります。日本で道徳などという言葉を持ち出すのは決まって近代明治日本が大好きな復古的保守主義の方々のほうであったような?これはある種のねじれ現象なのでしょうか?

現代の所謂保守と呼ばれる人たちも、どうにも近代国民国家の成果の部分については忘れてるのではないかと思うことがあります。近代国民国家の三要素とは、平たく言うなら、国民と国土と政府です。国民と政府のバランスについては多く語られますが、国土とのバランスは著しく壊れています。バランスを考えていればこんなに地方は衰退しません。

話を戻して、本書では以下身体論について様々な考察がされます。ひとつひとつには面白いと感じたものの、それが僕の考察の中で線に繋がらず、未消化ですが、それはまた今後の課題としたいと思います。とはいえ、少しはピックアップしておきましょう。

引用
>身体の変容は、身体が社会的諸事物や環境的自然への拡張によって生じるのではなく、社会的諸事物や環境的自然が人間身体へと凝固・結晶することによって生じる

とあり、義手義足や熟練職人の道具などについて言及されます。であるならば、現代ネット社会における「アバター」は既に身体となっていると言えるということ。良いとか悪いとかではなく、現実としてそうなっているということになります。

未来においてヒトは肉体を放棄して、アバター身体で恋愛したりオリンピック競技をしたり、みたいなことが絵空事ではないということかもしれないですね。

もうひとつ、ベートーベン「運命」について、始まりとしての八分休符・休止から始まる意味、というじつに面白い記述もありました。

ベートーベンは西洋音楽を「王侯貴族のためのもの」から「人間のためのもの」に変えた歴史的人物であると僕は考えます。僕のこの思考と本書の記述はじつにぴったりくるものでした。西洋音楽の歴史は、「神のため」のものから「王侯貴族のため」になり、ベートーベンが近代の幕開けとともに「人間のため」に変えた、というものです。

単に世俗性という観点だけで言えばそれ以前にも、例えばオペラなどは内容は昼ドラみたいな感じであったりとかするのですが、それでも音楽としてはじつに気品ある上品な仕上がりというものでした。人間の激情を音で表したのはベートーベンから、だと思います。「いや、バッハがいるじゃないか」と言われると話が長くなるのでここではやめておきます。

いずれにしても、音楽が宮殿のシャンデリアや装飾などと同列とされていたものが、音そのもので人生とか運命とかを表すようになったということです。そして、それは現代のポップスなどに繋がります。重い軽いは別にして「誰のための音楽か」という観点に立った場合、ベートーベンと現代ポップスは同じであり、ベートーベン以前というところで線が引かれるのです。

ここまで、まったくまとまりのない文章ですが、考えがまとまってないので文章もまとまる訳がない、ということで仕方ないことでしょう。

石塚先生からはシリーズの第5巻 アソシアシオンの世界多様化─クレオリゼーションも紹介してもらったので次はそれを読みたいと思います。

アソシエーションについては少し興味持ったこともあったのですが、対して勉強しなかったので、次の読書も良い機会になりそうです。

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