興味の変遷とコミュニティとわたし①
みなさんこんにちは。
中原です。
この記事は『Management 3.0&人にやさしい組織マネジメント勉強会 Advent Calendar 2024』の3日目です。
一年を振り返り、アドカレでエントリーしないとブログを書かないということがよくわかりました。
つまり、パーキンソンの法則ってやつですね。
はじめに
さてさて、今回は何を書こうかと考えました。
そういえば11/1に転職したばかりなので、自分が所属してきたコミュニティとその時々の興味の変遷を振り返ってみようかと思います。
ちなみに私は会社もコミュニティと考えていて、興味の対象が合致するからスナップショットでそこにいる、という感じです。
わたしのキャリアはソフトウェアエンジニアから始まります。
文系、社会学部出身の私は最速でお金持ち(=社長)になれると思いIT業界に就職しました。
なんとか入社できたものの、右も左も用語もわからず、パソコンの電源の落とし方もよくわかりませんでした。
そんな私が興味を持ったのは、やはりプログラミング言語やインターネットの仕組み、データべース、サーバー構築など、多くの新人さんが興味を持つところでした。
はじめてのコミュニティ
そんな私が初めて参加したコミュニティが「Java House」と「Servlet勉強会」と「Java 読書会」です。
名前はうる覚えです。
特に印象深いのは、「Servlet勉強会」です。
この勉強会には書籍をたくさん執筆されている方や著名な方が多くいらっしゃいました。
しかし、怖い感じはありませんでした。
#当時は今のように敷居の低いコミュニティはあまりなかったような気がしています 。
参加者の皆さんは当時の私から見ると雲の上の方々で、ものすごく知識と経験が豊富で、研究熱心な方々というイメージでした。
しかし、決して偉そうぶったところはありませんでした。
その勉強会の懇親会で、私が「有名な方が多くて毎回恐縮してしまいます」とある方にお話ししたところ「有名イコール優秀ではないよ。あなたの意見はみんなにとっても貴重なものだから、ぜひ遠慮せず言ってね」とおっしゃってくださいました。とても印象に残っています。
今でも私は「有名=優秀 というわけではない」というワードはよく使っています。
もしかするとわたしが言っているのを聞かれたことがある方もいらっしゃるかもしれませんが、パクリでした。
ちなみに、私はこの次の会社として豆蔵に転職するのですが、きっかけはこのワードをおっしゃった方でした。
私が豆蔵に入社したのと同時に転職されましたが。
というように、当時は実装や実装に近い設計に興味があり、オープンソースの活動も含めてそのようなコミュニティに参加していました。
そうこうしているとプログラミングをしたりネットワークを構築したり環境を作ったりするのが、勉強しているというより趣味になってきました。仲間がいたこともあり、夜中までごにょごにょしていました。
その結果、体を壊してしまったのは今となっては良い思い出です。
コミュニティのような会社
社外に出て、世の中で一流の方々と触れ合うことで、自分ももっとチャレンジしたいという気持ちになりました。
そこで、豆蔵に転職をしました。
豆蔵に転職してからはほとんどコミュニティには参加していません。
組み込みソフトウェアのコミュニティに少し参加したぐらいです。
理由は簡単で、当時の豆蔵という会社自体がコミュニティのような会社だったからです。
実際、社内で「このテーマを一緒に研究したい人」とか、「このテーマで記事を書く人」「このテーマで一緒に教材を作りたい人」という声掛けがありました。
そこに参加することで、めちゃくちゃしんどかったけど、めちゃくちゃ勉強になりました。
なので、みんな進んで参加していました。土日も無くめちゃくちゃしんどかったけど。
しかし、これこそがコミュニティの本質だと思います。
自己実現に向けてプラスを感じ、そこに居ることに誇りや名誉を感じ、そこに居ても良いと思わせてくれる仲間がいる。
そうこうしているうちに、私はだんだんソフトウェアアーキテクチャに興味を持つようになりました。
そもそもソフトウェアアーキテクチャとは何か?ってところから色々な本を読んだのを覚えています。
はじめての登壇
そして2005年のJava Oneで「アーキテクト増殖大作戦」というセッションを(先輩におもいっきり背中を押されて)持ちました。
東京国際フォーラムで、200人以上入る部屋で、立ち見どころか通路に座って聞かれる方もいらっしゃるぐらい、多くの方にご参加いただきました。
これが、私が人前でソフトウェアのお話をした初めての経験です。
この時のタイムテーブルを探したけど見つからず、代わりに永和システムマネジメントの木下さんのブログが見つかったのでリンクを張っておきます。
嬉しい。ありがとう、木下さん。
ちなみにJava Oneの時は怖い人から質問されて詰められたらいやだったので、質疑の時間がないぐらいギリギリまで話しました。
そして「すいません。質問がございましたら部屋の外でお待ちください」言いつつ、ゆっくり帰り支度をして部屋を出たのを覚えています。
どうもすいません。
部屋を出ると、仲間以外にたった一人だけ待ってくださってる方がいました。「Servlet勉強会」で同じだった、同じ年の方でした。彼は当時からとても優秀で、同じ年だけど雲の上に感じていました。その彼が「すごくよかったですよ。」と言ってくれたのが、今でも忘れられません。
といいつつ、名前を忘れてしまったけど、きっとご活躍されていることだと思います。
追記: 永和システムマネジメントの木下さんが2005年のJava Oneの記事を教えてくださいました。
ありがとうございます!
https://japan.zdnet.com/article/20090494/
さてさて、そのあとモデリングやDDDにも興味を持ちましたが、豆蔵の社内で厳しくご指導くださる先輩がたくさんいらしたので、社外のコミュニティには参加していなかったと思います。
そして、チェンジビジョンに転職しました。
興味の変遷に合わせてコミュニティのような会社を変えた
チェンジビジョンではTRICHORDというアジャイルプロジェクトマネジメントツールを開発していました。
この時のチームは今でも忘れられないドリームチームでした。
けどこの時も明確なコミュニティには参加していなかった気がします。
チェンジビジョンに転職しても豆蔵のみんなとはずっと一緒でしたし、チェンジビジョンもコミュニティのような環境だったので。
けど周りのみんなはアジャイルのコミュニティとかに参加されていました。
コミュニティではありませんが、チェンジビジョンのみんなで「腰リールカンファレンス」というのをやったのを覚えています。
すごく幸せな時間を過ごすことができたチェンジビジョンですが、当時はなか製品だけでは稼ぐ力が弱く、自動車業界のコンサルのお仕事もやったりしていました。
その仕事の一環で人生で初めて海外に行きました。フランスとかスウェーデンに行きました。
この時は、徐々に実現技術やソフトウェアアーキテクチャよりも、システム全体のアーキテクチャ、開発プロセスに興味が出てきていました。
そろそろ独立しようかなぁ~なんて考えていたのが35歳の時でした。
それでチェンジビジョンを退職しました。
その①のまとめ
ここまででお伝えしたかったのは、コミュニティに参加することで世界が広がり、コミュニティのような会社に属することでエンジニアとして成長させて頂いたという事です。
チェンジビジョンを退職したときは35歳でした。
ここからは自分がコミュニティを立ち上げたり、コミュテニィのような志を同じくする会社や職場を築いていく番だと思っていました。
そして、転職した先はコニカミノルタでした。
最初の3年間はPublic Cloudのサービスを動かすプラットフォームの開発をやったり、運用設計をやったりしたりしていました。
ここからが私の興味の変遷とコミュニティのかかわりについての第2部になりますが、今日は遅いので続きは次回。
どうもありがとうございました。