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当事者を無視したらアカン【エッセイ】

もともとネット上の文章を読むのが好きで、今までたくさんの記事を読んだ。結果として多くの炎上を目にしてきた。
そのおかげだろうか一読すればその記事がどれぐらい炎上するか、その未来が瞬時に見える能力が身についた。

ところが、残念なことに最近その力がすっかりと消え失せてしまったのだ。なんだか炎上のポイントが、人々が何に対して怒っているのかがよく分からなくなってしまったのだ。どうしてしまったのだろう。私自身もよく分からない。

noteというこのサービス内で一時期は信頼される読み手としてチヤホヤされたこともあったが、こうなってしまっては返上せざるをえないのかもしれない。
まあ、それももともと幻想のようなものだったが…

さて、認めたくはないがこれは即ち、私自身がこれからの時代に乗り遅れてしまう人間であるを意味する。きっとネットの時流と私の考えが乖離しだしたのだと思う。悲しいかな。でも、どうやらこれが現実らしい。

そんなわけで私の近くにいると炎上の巻き添えを食らうことになるかもしれない。だから、これからはそれを含めて良しとする人達だけお付き合いくだされば嬉しい。

◇◇◇

さて、ネット炎上が分からなくなってしまった私に誰か教えてほしい。
もしくは一緒に考えてみてほしい。

蒸し返すようで申し訳ないが、少し前に幡野広志さんが書いたcakesの連載記事がしつこいくらいに炎上した。2020年10月の話だ。

人生相談を受けた幡野さんがネット上で回答するというコーナーなのだが、あの炎上に関して告白すると、私は未だによく分かっていない。
一つ言えるのは、あの時もしも私が幡野さんの立場であったとして、同じ相談文を受けたとしたら、「相談内容が重すぎます。これは刑事事件として扱い、相談する場所を考え直した方がいいでしょう。」と相談者を突き放してしまう結果になっただろうということ。

この記事に関しては公式に謝罪文も出ている

そもそも騒動の内容は以下の通りだ。
人生相談コーナーにおいて、凄惨なDV被害を受けたという相談者を、回答者である幡野さんが嘘つき呼ばわりして無碍に尊厳を踏みにじってしまった。そしてその記事が平然と編集部を通り抜け掲載された。それを読んだ読者が「これは明らかな二次被害である。エンタメとして掲載していい内容ではない。」と抗議の声があがった。概略は以上。

そりゃそうだろう。構造的にはこれはセカンドレイプと一緒なのだから、抗議の声があがって当然だ。赦しがたい気持ちを多くの人が抱えたのだろう。そこまでは分かる。

でもここからの流れがよく分からない。
みんなも思い出してみて欲しい。

あの騒動の中で決定的に欠けていたものがあったでしょう。
それは数々あがる声に当DV被害相談者のその後の安否を気にかける声がほとんど無かったことだ。あるにはあったがほんの一握りだった。

この事実はささいなことかもしれないが、私はあの騒動の中ずっと引っ掛かりをおぼえていた。

これだけの騒動の中で存在を消されたかのように取り扱われる当事者(相談者)がいることの不気味さ。みんなは気にならないのだろうか?話題の中心はいつだって幡野さんとcakes編集部だった。

相談の内容から「それは人生相談の内容ではなく刑事事件で扱う内容だよ。ここではなくもっと別のところに相談した方がいい」だとか「相談者のその後が心配です」などの声があがって然るべきだと思ったのだけれども、ほとんどなかった。

誰も気にしない。そこに吐かれる言葉は、執筆者や運営に猛省を促す内容ばかりだった。

DV被害は下手に明るみに出ると状況が悪化するので取扱いが難しいと聞く。被害者が名乗り出にくいセンシティブな問題だ。でもそれを考慮した結果にも思えなかった。どうしてここまで当事者を無視して騒動が拡がるのだろう。だれも相談者のことなんて頭にないのだろうか。

もしかしてこれは現実被害の黙殺ではないだろうか?
そういった疑念が頭をよぎった。

相談者の立場で想像してみた。
相談する先々で信じてもらえない。嘘つき呼ばわりされてしまった。
そんな中、その状況はあんまりだと声をあげてくれる人が出てきた。
その人は嘘つき呼ばわりした人を断罪してくれた。
でも誰も自分(相談者)のことなんて本当は見向きもしていない。
腫れ物を触るようなあつかいを受けるだけ。

こんな残酷なことがあろうか。

・・・

でも、私も一緒か。あの時に声をあげなかったのだから黙殺したも同然だ。
きっと何千、何万もの人があの時に黙殺という名の暴力をふるったのだろう。
相談者からすれば、もはや三次被害である。相当な絶望だっただろう。
この相談者を無視するような振る舞いで騒動に乗っかかった者はもう加害者となんら変わりない。私はそう思うようになった。

そして、DV被害という過酷な現実とは関係ない外野での、ネット炎上だけがスポットとして人々の目に映っている。きっとネット上の記録として残るのもそれだけだろう。こんなバカげたことがあるだろうか。

何なのだ、これは?

いったい何と戦っているのだろう。

◇◇◇

そう考えると全てが分からなくなったのだ。
こうしてる今もネットのどこかで怒りの声をあげている人がいるのだろうが、その言葉が当事者にとって救いの手でなかった場合、どれだけ理屈上ただしいことを掲げていようが、暴力と何も変わらないと思うようになってしまった。

するとどうだろう?

人々が何に対して怒りを燃やしているのかが、だんだんとぼやけて見えるようになってしまい、どんな怒りの声を聞いたとしても心に響かなくなってしまったのだ。

それ以来、どんなネット記事を読んでもそれが炎上するかどうかなんて分からなくなってしまった。

分かるのは、どれだけの正義が叫ばれていてもその中で本当の意味で救いの言葉をかけられる人、ましてや行動を起こせる人なんてほとんどいやしないということだけ。

私も起こせなかった。


◇◇◇

言葉による断罪や謝罪よりも先にすべきことがあるだろう。

少しだけ昔話をする。

私の家庭内での話だが、以前息子がオモチャを振り回してお姉ちゃんのデコに当ててしまい、怪我をさせてしまったことがあった。私は息子に謝るように叱りつけたが、息子は言うことを聞かずにその場を離れた。しかし、やがて何も言わずに冷蔵庫から保冷剤を持って戻ってきた。お姉ちゃんのデコを冷やすためである。

私は何も言えなくなってしまった。
言葉の発達が遅かった息子が誰よりも人間としてあるべき姿を見せてくれたからである。

言葉でなんとかしようとした自分を恥じた。


ちいさな息子でもできたのだ。

だから我々もきっとやり直せる。

#エッセイ

ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー