落ちているものを拾い上げた時に【エッセイ】

人の愛は千差万別だ。その姿は波のようにめまぐるしく変化し、繋ぎ留めておくことはできない。
でもそれら全ての愛の起点は、必ずあなた自身が何かの価値を見い出すところから始まるという話を今日はしたい。

極端な話だけどその対象はたった一つのドングリであってもいいんだ。子供だった時のことを思い出してほしい。たとえば形が悪くて誰も見向きもしないドングリがあなたの足下に落ちていたとして、それでもあなたが拾い上げてそれをなんとなく好きだと感じた時、人の愛は始まる。
まぁ、形が悪いドングリを愛するぐらいだからあなたの愛は少し偏っているかもしれない。でもそんなことは気にしなくてもいいと思う。間違いなく愛はそこにある。

ここで一つの疑問を投げかける。いつかそのドングリに興味が無くなる日がやって来たとしてあなたの愛は無くなったといえるだろうか。考えてみて。

私の持論を言っちゃうとけっして愛は無くならないと思う。あなたが何かに価値を見い出す力があるかぎりそれは無くならないんだ。愛はいつもあなたの目の前に転がっている。

いずれそのドングリは形を変えてまたあなたの前に現れるよ。時にそれは音楽だったりするし、人によっては絵だったりするし、たまたま手に取った小説の言葉がそれだったりするかもしれない。なんにせよあなたがスキだと感じ取った瞬間にそれは特別な物になる。そして同じものを愛する人が集まることでいつかコミュニティが生まれるだろう。

またあなたの隣にいる人はまた別の物に価値を見い出すかもしれない。
その人はその人であなたとは別のドングリ的なモノを見つけるのである。そしてまたそこでもコミュニティが生まれるだろう。
それがあなたに理解できないようなモノであったとしてもその人たちの愛は独立して存在しているよ。だからあなたが否定するものではないし、あなたが自身の感性を信じている限り大して気にならないと思う。愛は多様性を生む。

だからもしもあなたが他人の愛にケチをつけたくなったとしたらそれはあなたが愛を見失いかけている前兆なのかもしれないと思ったほうがいい。

どうしたらいいのかな?
そんなときはまた探しにゆけばよいと思うよ。

ドングリを見つけた時の気持ちを忘れない限り、愛はまた見つかるものだからね。時には他人の意見を参考に聞いても良い。でも最終的には自分の手をのばすことだけが愛につながる。それだけは忘れてはいけないと思う。

愛を見つけることは自分の人生を歩むことだ。

◇◇◇

先日深津さんが多様性と均一性の違いについてnoteを書かれた。
そこではミクロ的な視点からみて多様性があるように見えてもマクロ的に見ると均一的な分布に過ぎないことがありえるという話をされていた。

とても良いテーマだったので私も考えてみることにしたんだ。

私が考えたのは自然と多様性を育ませるための道標を仮定することだった。それが今回のエッセイである。

自分の目と心を信じて手をのばすこと。それがいずれ他者の価値観を認め、許容することにつながるというのが私の結論になった。
人は隣人と同じものを愛することになるかもしれないし、また違うものを愛することになるかもしれない。
ただそれが自身の目で見い出して手を伸ばしたものである限りはどれだけ違う思想になったとしても、人は住み分けさえできれば共存しうるものだと私は信じている。

逆に自身の目で何も見い出さずに人生を歩んだ場合に、人は他人の人生を妬ましく思い、余計な干渉をし始めるのである。

これは多様性を遠ざける生き方だ。

あなたはあなたの人生に落ちている大切なものだけを拾って愛せばそれでいい。

#エッセイ

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ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー