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Twitterの謎。引用派とリプライ派はなぜこんなに噛み合わないのか【エッセイ】

SNSに疎い人にはどうでもいい話なのだが、Twitterにおける第三者へのコメントには引用ツイート派とリプライ派がいてて、どうもこの二つには相容れないものがあってお互いを毛嫌いしている節がある。

傍から見ているとなぜこんなにいがみ合うのか分からないでしょうから、今日はちょっとここに焦点をあてて話をしようと思う。

私も完全に中立の立場からものを書くのは難しいので、今回は引用派に肩入れした形でTwitterコメントについて解説する。
なぜなら私自身が引用コメント(引用ツイート)推奨派だからだ。
リプライコメントももちろん受け付けているが、できれば引用ツイートの方がコミュニケーションをとりやすいと感じている。これはコメントをもらう立場からの話である。

さて、皆さんも気付かれていると思うが、Twitterの最近の仕様を見てみると、自身の発信(ツイート)に対してリプライの受付可/禁止の選択ができるようになった。今まではそのような設定はできなかったのだが、それだけリプライによる荒らしが増えたということだろう。
しかし、お気づきかもしれないが、第三者からの引用ツイートについては相変わらず禁止設定できない仕様のままだ。

人によっては「なぜだろう?」と思われるかもしれない。
リプライを制限するなら引用ツイートも制限できないと不平等じゃないだろうか?と…

私もずっと疑問に思っていたのだが、ここにきてTwitter社は各アカウントがアップロードしたツイートの一つ一つを「公表された著作物」として認識、それに合わせて仕様の設定ルールを合わせたのではないかという仮定に辿り着いた。(あくまで私個人の推測だがね)

思い返してほしい。

実際に世にある公表された著作物に関しては「ルールさえ守れば引用による表現を阻害されない」という確固たる原則がある。
(しかし、売り物の著作物を勝手にアップロードしちゃダメだよ。それは著作財産権に引っ掛かるからね。私が言及しているのは公表された著作物だ。

これはSNSがこの世に生まれる前からの原則である。論文なんかでも公表された誰かの著作物に関して言及する時は引用のルールさえ守れば無断で引用して表現することが認められている。

せっかくだから法律の話もしよう。

著作権法 第三二条
公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

【引用における注意事項】 他人の著作物を自分の著作物の中に取り込む場合,すなわち引用を行う場合,一般的には,以下の事項に注意しなければなりません。 
(1)他人の著作物を引用する必然性があること。
(2)かぎ括弧をつけるなど,自分の著作物と引用部分とが区別されていること。
(3)自分の著作物と引用する著作物との主従関係が明確であること(自分の著作物が主体)。
(4)出所の明示がなされていること。(第48条)

分かっていただけたであろうか。

実はTwitterにおける一つ一つのツイートも公表された著作物であるだろうから、引用のルールさえ守れば誰でもそのツイートに乗っかかって発言可能なのである。そして、それを基本的に満たす形式が公式の引用ツイートなのである。
(※ただし、【引用における注意事項】の(3)だけは条件を満たすかどうかは怪しい。なぜなら、主従関係ははっきりしているが、元ツイートに対して一言添えるだけの行為が自分の著作物が主体と見なされるかどうかは意見が分かれるところだからだ。)

ごちゃごちゃっと記述したが、なにせ早い話が公式の引用ツイートの形を取っていれば基本的には第三者が何を話してもいいとすることが良いと判断したのだろう。(あくまで私の推測だが)

私の意見が絶対ではないが、あながち間違ってはいないのではないかと推測する。

人によってはたかが引用の権利ぐらいと思うかもしれない。

でも、この権利が阻害されることの方がむしろ大問題なのである。いわゆる言論・表現の自由が制限される世界になってしまうわけだから、それがどれだけ危険なことなのかは想像してほしい。

(揶揄や脅迫は別だよ。まあ、それすらも表現の自由の考えでは妨げられてはいけないとされているんだけど、侮辱罪や脅迫罪とか別の法律に引っ掛かるという意味だ。)

誰かが声をあげる。他の誰かがその声に賛同する・反対する。
そのこと自体は阻害されちゃいけないというのが基本的な考え。
それができる社会が言葉をもって生きるという社会なんだ。

だから「引用ツイートなんて滅べば良い」という意見は極論して突き詰めると「人が言葉を持って生きることを放棄する」という思想に繋がってしまう可能性があるから注意されたし。(通知は煩わしいがね)

◇◇◇


「あれ? だったらリプライコメントも自由にしてもいいんじゃないの?」と思われるかもしれない。でも、そうはならないのがTwitterの仕組みの面白いところ。

分かりにくいかもしれないが解説する。
まず、他人のツイートを著作物とするなら、基本的には傷つけちゃいけないというルールに則らなければならない。

著作者人格権があるからだ。
これは著作財産権とは別にある著作者・著作物の精神性を守るための法律だ。

具体的には、Twitter上のリプライコメントは元ツイートに対して、ブラ下がりの形でスレッド展開される。これはフォローしているしていないの関係に関わらず、第三者の目に触れてしまう状態を意味する。
元ツイートが一つの完成された著作物だとしたら、意図せずその著作物に対して見ず知らずの人が落書きしてしまう形になってしまうのだ。落書きとは表現が悪いかもしれないが、結果としてそうなってしまうことが多いのは確かだろう。
(これは、著作物は第三者が勝手に改編してはならないという大前提の原則から外れる)

元ツイートの発信者が全くコントロールできないのがリプライの今の形。本来の意図から外れたリプライが多く付くことによって元ツイートの印象操作もされてしまう。
これは言葉に強いこだわりを持って仕事されている方には精神的に結構きつい形だろうなと思う。(私ですら辛いのだから)

ぶら下がりのコメントには、そんなことどこにも書かれてないだろうという事が、あたかも元ツイートに書かれているかのように錯覚させられてしまう力が少なからずあるのだ。これはミュートすれば良いとかいう問題ではない。第三者に一目で触れてしまうのだから。


一つ注意。

こう書くと「リプライでコミュニケーションすることは悪いことだったのでしょうか?」と急にビクビクされる方が出てくるのですが、そうではないのでご安心を。

そうならないためにTwitterのツイートは現在リプライの受付可/禁止の選択ができるようになっているでしょう。リプライでコミュニケーションを取りたいと考えている発信者はリプ欄を開放しているわけだから、そういう人には大いにリプを入れてあげればいいでしょう。お互いの意図が合致しているわけだから何の問題もない。

SNSの楽しみ方の一つだから好きにすればいい。
(ツイートを著作物と捉えていない人のたくさんいる。というかほとんどの人がそうだろう。)

ただし、リプライは相互に分かりあった間柄でおこなう方が無難なのは確かだと思う。

そして、相手が知り合いだったとしても敬意をもって接しなければならない。
間違ってもリプライを入れて、それに対してしつこくツイート主に答えを求めることを強要してはいけない。そう私は思うよ。

お互い有限の時間を生きているわけだし、なにしろ人には質問に黙する権利あるからだ。いわゆる黙秘権だが、これも憲法で保障されている。一般的には刑事訴訟で自己に不利益となる事実の供述を強要されない為に使用する権利が黙秘権だと思われがちだが、これは正確には自己負罪拒否特権という狭義の黙秘権である。
本来は自己の利益・不利益にかかわらず黙秘することは保障されている。
歴史をみれば分かると思うが、この法律が無いと大変なのである。

まあ、ここではそこまで大袈裟に考えなくても良いが、犯罪で拘束された人にも黙秘権が保障されているのに、我々一般人にこの黙秘権が保障されない道理はないのだということを私は言いたい。

だから、Twitter上で相手の黙秘権を認めず、答えるまで許さないという行為を続けることはハッキリ言って暴力なのだ。相手を人として見ていないということだからね。

◇◇◇

だいぶと話がそれちゃいましたね。
ちょっと軌道修正します。

では、「リプ欄を開放していない人はコミュニケーションを取りたくないのか?」についてだが、それはきっと違うだろう。コミュニケーションを取りたくない人はそもそもアカウントに鍵をかけている筈だからね。

堂々と引用ツイートでコミュニケーションを取ればいいと思うよ。それは人が言葉を持って生きるために与えられている最低限の権利だからね。それを放棄しろとは私は言わない。(何度も言うが通知は煩わしいがね…)

だから、私も基本的には引用ツイート形式でコミュニケーションを取る。まあ、引用形式を取っている時点で正確な意味合いでは会話形式にはなっていないのだが、これは何かと都合が良いのである。

第一に、引用ツイートは引用元があるとはいえ、独立した個々の発言なので、結果として相手に返事を求めていない形となる。
第二に、とんちんかんな発言をしてしまったとしても、相手のリプ欄に迷惑をかけない。一人ですべっておけばよい。
第三に、これは引用された側の話だが、通知欄がすっきりしている。リプは通知欄が最悪だ。(バズった経験をした人でないと分からないだろう)

しかし、何より引用ツイートの一番良い点は、引用とはいえ自身のタイムラインに自分の言葉を残すことができる点だ。

それは誰かのツイートのスレッドにリプライでコメントを残すのとは全くわけが違う。どれだけそれが良いコメントであったとしても他人の言葉にぶら下がっている限りは自分の言葉とはいえない。
そもそも自分の言葉なんて持ちたくないと考えている人にはこれ以上言ってもしょうがないが…

では、ここで「引用ツイートの向かう先は何か?」をちょっと考えてみてほしい。
自身のフォロワーに向かっているのか?
それはきっと違うでしょう。
そんな人はTwitterで道を踏み外しちゃう人だろうからSNSから離れた方がいい。

いいですか…

引用ツイートの先は最終的に必ず自身の言葉の内側に向かうのです。
当たり前でしょう。自身の責任でもって自身のタイムラインに発信するのだから。

それ以外はまやかしみたいなものなんじゃないかと思う。

そもそもフォロワーなんてたまたま偶然巡り合った人でしかないのだから。あまり気にしなくていいでしょう。その中にたまたま気の合う人が混じっているだけ。中には言葉の銃口をこちらに向けている人もいるのだからフォロワーも良い人ばかりじゃない。

まあフォロワーの話はここでは無しにしようか。

最終的には必ず自身の責任で言葉を発すること。
それだけわかってもらえればいいと思う。

残念ながら人間は全くの無から言葉を発することはできない。
だから、はじめは引用でいい。誰かが言った言葉に対して正直に思うことを発すればいい。それが引用ツイート。

その次に自身の身の回りに起こったことを引用して言葉にする。

そうすれば、だんだん誰かの言葉に頼らなくても良くなってくるはず。
そこからのTwitterが本当は一番面白い。

それを知ってほしいだけなのよ。
影響力とか本当はどうでもいいのよ。

急にここで「影響力」とか言い出したのは先日「影響力を持ちたい人が引用ツイート派になりやすい」と揶揄されたからだ。
違うのよ、それは。
確かに引用ツイートの方が言葉の力が外に向かって働くから、結果的にリーチする範囲がひろがる。傍から見れば影響力とかいう幻想で周りを蹂躙しているように見えるかもしれない。

でも、そんなことは求めてないの。誤解なんだよね。

影響力を持ちたい人が引用ツイートするという誤った思考に陥ると、SNSがムラ社会化して見えるようになっちゃうから止めた方が良いと忠告するんだけどどうしても受け入れてもらえない。

困ったものだ。

よって引用ツイート派とリプライ派で分断されちゃうというのがよくある流れである。

リプライ派の主張に「スレッド形式で会話を並べた方が分かりやすいだろ?」ってのがあるんだけど、これには「ごめん。知らん人から何百とリプライもらう地獄を味わってからその主張をお願いします」としか返しようがない。


やっぱり相容れないよな。



#エッセイ

ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー