最後の質問者になるという奇跡
2019年1月10日(木)夜、私は大勢の人が見守る中でちょっと風変わりな質問をした。会場の熱気の中、一人でしゃべるのは緊張する。なんだかいつもよりも声が出ない。マイクの力を借りてようやく聴こえるであろう震える声で伝えるのがやっとだった。
その日は浅生鴨さん、田中泰延さん、燃え殻さんの 新春大放談会【僕たちが書いてしまう訳】に参加していた。ここ三年の間ずっと読者としてお三方の書かれる文章を読んできた私にとって大阪で開かれるこの会に参加しないのはありえないことだと思ったからだ。今こうして毎日のようにnoteを書いているのもこの人たちが居なければそもそもやっていないことで、この会は私の三年間を確かめに行く決算のようなものだと思ったんだ。
心斎橋駅で仲間と落ち合い、ツアーのように会場に向かった。
ここで待ち合わせメンバーもお三方の文章を追っかける中で知り合った人たちだ。長崎から駆け付けた人もいる。
ちなみに会場の真ん中のテーブル周りでわいわいガヤガヤしていたのが私たちである。
大放談会は田中泰延さんの司会で進行した。
浅生鴨さん、燃え殻さん、お二人が生きてゆく上で影響を受けた本、作家、エピソードをインタビュー形式で掘り起こしてゆく。時間が経過するごとにインタビューを受ける側のそれぞれのバックボーンが浮かび上がっていった。
浅生鴨さんはガルシア・マルケスの南米文学が好きだったり、三省堂の類語新辞典が好きだったり、ジョアン・ミロの抽象的な絵画が好きだったりするそうだ。日本の筒井康隆氏も大好きとのことだが、とにかく興味があることに関してはすべて分け隔てなく接する。たとえそこに言語の壁や国境があってもふらふらと跨いでしまう。
そんな人だった。
なにかを探し求めている。
他人がこれとこれは別モノと判断しても、鴨さん本人が何だか似ていると感じれば並べて比べてみたりだとか好きなものをただ集めてみたりだとか、そういった探し物を求める旅のような行動は浅生鴨さんの興味が薄れてぼやけるまでの間ずっと続いてゆく。そんな感じだ。
ちなみにジョアン・ミロの抽象絵画を見たときに浅生鴨さんは『私と同じ世界の見え方がしている人がいるんだと思った』と話された。
彼はうれしかったんだと思う。
燃え殻さんはエピソードというか思い出話をいっぱい語ってくれた。
子どもの時に知らない人から手間賃という名目で50円を貰った時、「僕お金稼いだよ」と誇らしげに自慢したら、『知らない人から怪しいお金をもらうなんて、恥を知れ!』と祖母からビンタをくらっちゃったっていう話から始まって、、
ラジオをよく聴いていてご自身がハガキ職人だった頃、投稿したハガキが電波に乗ってラジオから流れると嬉しくてたまらなくて、録音したその時のカセットテープを何回も聴きなおしたってことだとか。
小学生の時からずっと続いている友人がいて、燃え殻さんがどんな悲惨な状況の時でもその友人は更にその下をかいくぐるように悲惨な状況だったりして、それでもずっと友達でいてくれているってことのありがたさ。
そんな話をレモンサワーをおかわりしながらしてくださった。最後の方は酔っ払ってフラフラしていたけれども、自分のことを大勢の前でしゃべるのは苦手そうだったからお酒をいれながらでないと駄目だったのかもしれないと勝手に想像して私は聴いていた。
燃え殻さんの人格は自身の記憶に残る映像のような思い出から形成されているんだと思った。
途中に休憩を挿みながらもあっという間に時間が過ぎてゆく。
もうそろそろ終わりだということで会場の観客からの質疑応答で締める流れになった。
そして冒頭に戻る。
数人の質問に対して答える鴨さんと燃え殻さん。そして、これで最後にしましょうのタイミングで当たったのが私だった。
マイクを渡され、緊張で少し震える声で質問した。
「97歳のおばあさんに紙のお手紙を書くとしたら、皆さんならどれぐらいのボリュームでお書きになられますか?」
とても奇妙な質問だったと思う。
会場にいた皆様にはおそらくどうでもいい話だったかもしれないが、私にはつい数日前に短めの紙のお手紙を書いたという経緯があった。
相手は会場での質問の内容と同じく97歳のおばあさんにであって、それは鹿児島は種子島から飛行機に乗って奈良までやってきたことに対する礼状だった。
孫の生活を見る為、そして写真でしか見ることのない曾孫に会うための多分最後の遠出のつもりだったのだと思う。
その心意気と行動のお礼にアルバム写真と同時にお手紙を書いたのだ。
ボリュームはA4サイズで一枚半。
お年寄りだから細かい文字を読むのもしんどいだろう。
そばにいる人が読み上げること前提に書き上げるならあまり長い文章になるのも迷惑だろう。種子島のおばあさんは妻側の血筋なので私とは直接の血のつながりはない。接点も少ない。
それでも伝えたいと思った。考えた末のA4一枚半だった。
贈り物は内容よりもサイズ感が大切であると私は考えている節がある。
何のことかと思われるかもしれないが、たとえば謝罪の時に持っていくような大層な菓子折りを小さなパーティで持ち寄ったらおかしなことになるだろう。そういうことである。
贈り物としての文章で、相手と自分にとってたぶん最後の接点、97歳という年齢で伝わるかどうかも怪しいシチュエーション。分章を書くことを生業の一部として活動されているお三方ならこういった場合どうするのだろうかと疑問に思ったのだ。
しかしこの手の文章は公に出される文章とは違い私信である。あの場で質問すべき内容だったのかどうか正直分からなかったが、私は手を挙げた。そして当たった。だから正直に訊ねた。
こういった質問に対する究極の答えは『人それぞれ』ということなんだと思う。ぶっちゃけた話、そう切り捨てられても良いと思いながら踏み込んだ。
浅生鴨さんの回答
緊張していたので途中のやり取りなどは うろ覚えなのですが、数回の言葉のキャッチボールの後、浅生鴨さんが最後に念押しする様に答えてくれたご回答が記憶に残っています。
それは「ボリュームは関係ないと思います。書いたんですよね。それでいいと思います。」という言葉だった。
緊張の中での記憶だから自信はないのですが、いつものふわっとした掴みどころのない飄々とした浅生鴨さんとは少し違う熱のこもったような声を確かに聴いたような気がしました。
そうして最後の質疑応答が終わった。
「ありがとうございました」
私はマイクを通して感謝の気持ちを述べた。
声の震えはその頃にはもうおさまっていた。
ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー